172話
どうやら少女が寝ていた場所は治療室だったらしい。
何かの施設に連れて来られたようだったが、移動する際に他に人が見当たらなかった。
啓崇一人で管理するには広すぎる。
施設内には幾つも部屋があって、それぞれが別の目的のために作られた部屋のようだ。
会議室やデータベース、武器庫からモニタールームまで。
組織規模で所有するような設備が整っているが、何のために揃えたのだろうか。
「……どうして、私を?」
なぜ自分を助けたのか。
未だにその意図が分からない。
信じていいのか分からない相手に、このまま身を委ねるのは怖い。
そんな思いが伝わったのか、啓崇は優しく微笑む。
「全てを説明するには時間が必要なので……けれど、これだけは伝えさせてください。私は貴女の意思を尊重したいと思っています」
投薬によって精神汚染されることもなく。
少女が自らの意思で動くことを啓崇は望んでいる。
そこに悪意は感じられない。
微かな不安を抱きつつも、信じてほしいと心から願っているように見えた。
これまで向けられたことのない感情に戸惑いつつ、少女は静かに頷く。
そのまま啓崇に連れられて――目的の部屋に辿り着くと、そこには緑豊かな空間が広がっていた。
「ふふっ、驚きましたか?」
啓崇が自慢げに笑みを浮かべて顔を覗き込む。
殺気立っていた少女も、年相応に目を丸くして驚いていた。
「建物の中なのに、これは……」
「テラリウムです。こうして適切な環境を整えてあげることで、外では生きていけないような小動物たちが、この部屋では平和に過ごせるんです」
思っていた以上に立派な施設らしい。
啓崇に連れられて奥に進んでいくと、そこにはメルヘンチックなお茶会の準備と――。
「――ようやく目を覚ましたか」
長いポニーテールの少女が、場違いな刀を抱いて紅茶を飲んでいた。
一見穏やかな顔をしているようで、警戒を絶やさずに鋭い殺気を纏っている。
常在戦場の剣士。
どこか試すような面持ちでこちらを見据えている。
「彼女は烙鴉。ちょっと怖いですけど味方なので、安心してくださいね」
「えっ……怖い? 私が?」
烙鴉は眉間に皺を寄せて唸る。
どうやら彼女は、自分の纏っている殺気に無自覚らしい。
「あー……そう見えたならすまない。悪気はないんだが、つい癖で」
「いや、えっと……大丈夫」
確かに殺気を纏っているが、悪意は感じられない。
それだけで、彼女の言葉を信じるには十分だ。
「それで啓崇。その人が、例の魔女で間違いないんだな?」
「もちろんですっ!」
啓崇が自信満々に頷く。
どうやら、何らかの目的があって自分を探していたようだった。
「さあ、どうぞ座ってください。お茶菓子だけじゃなくて、サンドイッチもありますよ?」
勧められるがままに椅子に座って、少女はサンドイッチを手に取る。
ベーコンとレタスとトマトを挟んだシンプルなものだ。
「いただきます……」
柔らかいパンの手触り。
新鮮で瑞々しいレタスとトマトに、厚切りのベーコン。
それらがマヨネーズソースによって調和が取られ、一口齧ってみると――。
「……おいしい」
ぽつりと呟く。
そこでようやく、緊張の糸が切れたように涙が溢れてきた。
「ほ、本当においしいですかっ? 無理してませんか? えっと、傷口が痛んだりとか……?」
泣き出してしまった少女を見て啓崇があたふたと声をかけるが、烙鴉が「そっとしてあげな」と制する。
ずっと心の奥底で窮屈に塞き止められていた。
忘れていた感情が、サンドイッチを食べるほどに呼び起こされる。
溜め込んできた苦痛を押し出すように涙を流し続け、
「……ごちそうさま」
気付いた時には、心もすっかり落ち着きを取り戻していた。
この様子なら大丈夫だろうと啓崇は胸を撫で下ろす。
「お腹も満たされたことですし、そろそろ本題に移りましょうか」
穏やかな声色のままだったが、表情は真剣なものに変わる。
この場で一つ、尋ねなければならなかった。
「始めに説明すると、私たちは"黎明の杜"という宗教団体を運営しています。そして、貴女には指導者として人々を導くリーダーになってほしいと考えています」
「私に? どうして?」
特殊な事情があって、そのために、あの非人道的な実験施設から自分を連れ去る必要があった。
とはいえ、それだけでは事情が見えない。
少女の疑問を丁寧に解消していくように、啓崇は全てを説明していく。
「私は魔女で、能力は『天啓』――簡単に言ってしまうと、超常の存在から未来についてお告げを聞くことができるんです」
「お告げを?」
「はい。その魔法を活かして、日々、各地で布教活動に取り組んでいたのですが……」
啓崇はピンと人差し指を立てる。
「ある日、大きなお告げがあったんです。曰く――世界に変革を齎す"人造魔女"が現れる、と」
人体実験によって生み出された魔女。
あの施設で遺物を埋め込まれ、能力に目覚めた少女の話そのものだった。
「私たちは今の社会の在り方に疑問を抱いていて、同じように悩み苦しんでいる人たちに手を差し伸べる……そんな活動を行っています」
衣食住の支援を主とした慈善活動。
この社会から除け者にされた三等市民たちに手を差し伸べ、その命を大切に抱き抱えるのだ。
彼女によって救われた命は多く、人々の役に立っているのは確かだろう。
それでも、取り溢してしまう命も多い。
「ですが、問題の根本を正すには優しさだけでは足りないと……何度も厳しい現実に直面してきました」
社会構造そのものに問題があって、慈善活動のみで覆すことはまず不可能だった。
一等市民は特権を好き放題に行使している。
だが中間層である二等市民も、明確に見下せる存在がいるために自らの立場に疑問を抱かない。
ごく少数の弱者では、勇気を出して立ち上がったところで高が知れている。
彼ら彼女らに必要なのは優しさではなく、世界に立ち向かえるほどの力を持つリーダーの存在。
真っ直ぐな眼差しで翡翠を見つめる。
「……それで、世界を変えるために私を?」
「はい」
啓崇は真剣な面持ちで頷くが、即座に手をひらひらと振って言い直す。
「あ、もちろん、強制するつもりはありませんよっ?」
もし断ったとして、彼女が気分を害するようなことはないだろう。
むしろ少女の考えを尊重してあたたかく送り出す――この啓崇という魔女はそういう人物なのだと、出会ったばかりだというのに少女も安心感を抱いていた。
「これは私たちの身勝手なお願いです。拒否していただいても構いません。あの施設で辛い思いをしてきた貴女に、無理強いをするつもりはありません」
弱者に手を差し伸べる事こそが目的であって、少女が引き受けなかったとしても何も言うつもりはない。
記憶も何もかもを失った彼女を戦いに引き摺り出すのも酷な話だろう。
「……わかった。私で良ければ協力するよ」
その言葉に啓崇が目を輝かせ、烙鴉が笑みを浮かべた。
今は何もわからない。
自分が何者で、何ができて、何を失ってここにいるのか。
この選択が正しいのかも分からない。
だが、それでも。
啓崇と烙鴉は自分を必要としてくれている。
それだけの理由で十分だと思えた。
後に氷翠と呼ばれる魔女の最初の物語。
彼女たちは命を賭して統一政府に立ち向かうことになる。
たとえ、その先に希望が見えずとも。
File:黎明の杜
立ち上げ初期はボランティア活動を主に行っている慈善団体。
統一政府の管理下に置かれた社会では、こういった組織に対する支援金制度は設けられていないばかりか、公にされていない監視リストに登録されてしまう。