171話
『――実験体番号0050Σ』
無機質な声が響く。
真っ白で何もない部屋の中で、佇んでいる少女に向けられた声だ。
呼び掛けに応じるように虚ろな瞳が微かに動く。
意思を摘まれた脱け殻――白髪の魔女が前に歩み出る。
対面で唸っている獰猛な魔物を前にして、表情一つ変えずに手を構えた。
首輪型MEDによって完全に飼い慣らされた実験体。
彼女はフォンド博士に言われるがまま、身を磨り減らしてこの場に臨んでいる。
従順な彼女は、毒薬を与えられても躊躇せずに飲み干してしまう。
繰り返し投与され続けたエルバーム剥薬によって、反抗するという発想さえ消え去ってしまった。
精神汚染された少女に自我は無い。
都合が良いサンプルだ。
しかし、何故だか不満を感じてしまう。
彼女と比較して、この実験体は成果に乏しい。
『――機動試験開始。存分に健闘してくれたまえ』
その言葉を合図に、少女は戦闘を開始した。
◆◇◆◇◆
「……ここは」
泥のような暗闇に沈んでいた意識。
もう失われたかと思われた心は、奇跡的に浮上して目を覚ました。
ゆっくりと体を起こせば、どうやら自分はベッドに横たえられていたらしいと気付く。
首輪に繋がれて固い地面に転がっていた、あの悪夢のような施設とは別の場所のようだった。
「ッ……」
身体中に酷い痛みを感じる。
ろくな治療も施されず、機動試験と称して殺し合いをさせられる日々。
自分と同じように捕らわれていた少女たちを何人も手にかけて、今こうして生き長らえている。
魔法で冷気を生み出して患部を冷やし、痛みを堪える。
いっそ感覚がなくなるまで凍り付かせてしまえば……そんなことを考えて、少女は思考を振り払う。
そんなことをすれば、きっと歯止めが効かずに自死を選んでしまう。
そう思いつつ傷口に手を当てると――。
「これは……?」
体中に簡単ながら医療処置が施されている。
傷口も縫合されていて、至るところに包帯も巻かれている。
いったいなぜ……と、疑問に思いながら首筋を掻こうとして気付く。
従属の象徴とも言うべき首輪型MEDは外されている。
そのおかげで、継続的に投与されていた薬剤の精神汚染が薄れたのだろう。
問題は、何の意図があって自分を解放したのかという点だった。
「――目を覚ましたようですね」
声が聞こえて、少女は思わず身構える。
しかし、それはこれまでの記憶に無いような、あたたかく優しい声だった。
「……警戒してしまうのも仕方のないことです。貴女は非人道的な研究に巻き込まれ、心を壊されてしまったのですから」
そっと手を握って、じっと目を見詰め。
これまで味わってきた苦痛を癒すように抱擁して。
「私は啓崇と申します。あの施設に捕らわれていた貴女を、身勝手ながら連れ去ってしまいました」
そう言って微笑む啓崇からは一切の悪意を感じられない。
困惑しつつ、少女は名乗ろうとして――。
「わ、私……私は、いったい?」
何も思い出せない。
名前も年齢も家族の事も、何もかもが空白になっている。
大切だったはずの記憶が失われてしまった。
自分という存在が抹消されてしまった。
そして――人生の始点は、あの悪夢のような実験施設から始まっている。
「……マギ=トランス忘失ですね。後天的に目覚めた魔女は、記憶に欠落が見られると聞きますが」
それにしても、覚醒する以前の記憶を全て失うなど稀なケースだ。
啓崇は心配そうに少女を見詰める。
「辛いことをお聞きしますが……どんな人体実験をされたか覚えていますか?」
「確か……体に、何か恐ろしいものを……うぁッ!?」
「だ、大丈夫ですか!?」
思い出した瞬間に、その際の記憶がフラッシュバックする。
悍ましい魔力を帯びたコアを埋め込まれ、身体中を蝕まれていく恐怖。
その施術のせいで記憶を失ったはずだというのに、その際の記憶は捨てさせてもらえない。
ただ恐怖だけが魂に刻み込まれ、薬剤に抵抗する意思さえ抑圧してしまった。
震える背中を擦りながら、啓崇は幼子をあやすように「大丈夫、大丈夫」と繰り返し呟く。
「はぁ、はぁ……っ」
荒く呼吸を繰り返しながら、徐々に心拍を落ち着かせていく。
啓崇の声が聞こえる度に「ここに怖いものはいない」と思えてきて、その優しい声がゆっくりと恐怖を溶かし始めていた。
体の震えが収まった頃合いに、啓崇はそっと手を差し伸べる。
「色々と辛い思いをしてきたのだと思います。けれど、今は難しいことは忘れて――」
少女の手を引いて立ち上がらせると、優しく微笑んで。
「――さぁ、お食事でもいかがですか?」
そう言って、部屋の外に連れ出した。
File:実験体番号0050Σ
フォンド博士による人造魔女シリーズの一人。
メディ=プラント施術によって遺物"■■■■■の■■"を埋め込まれている。