169話
「なっ――!?」
突然の出来事にヘクセラが困惑したように声を漏らす。
ほんの一瞬だけ抵抗を試みようとするが、喉元に強く押し付けられた氷刃に気付いて即座に諦める。
周囲の捜査官たちが対魔武器を氷翠に向ける。
だが魔法省の長官を人質に取られては攻撃もできず、そもそも通用するのかさえ怪しい。
「この女の命が惜しければ、五秒数えるまでに武器を放棄しろッ!」
本気だと示すように氷刃を一センチほど押し込む。
透き通った刀身に血が滲み、そのまま氷翠の手に伝っていく。
痛みを堪えつつ、ヘクセラは氷翠を睨むように視線を後ろに向ける。
背後から拘束されては抵抗もできない。
そもそも、戦慄級の魔女を相手に生身の人間では傷一つさえ与えられないだろう。
「五――、四――」
カウントダウンに対して、ヘクセラは武器を捨てるようには命じなかった。
これほど成長してしまった危険因子を放置してはおけない。
それに、ユーガスマが汚染区域から離脱してきたなら戦況が変わるはずだ。
命が取られてしまったならそれまでだ……と、自身の生存に関しては半ば諦念のようなものもさえ抱いていた。
「三――、二――」
部下たちは困惑しつつ、武器を捨てるべきか判断に迷っていた。
ヘクセラの命を優先すべきなのか、社会秩序を優先すべきなのか。
本来指示を出すはずの彼女が沈黙している状況。
テロリストを刺激しないようにしつつも、武器は捨てないようにと視線で訴えかけている。
焦れたように、氷刃がさらに進んでいき――。
「――テロリストの言う通りにすべきだろう」
その場に居合わせたフォンド博士が歩み出て、身に付けていた護身用の装備を全て解除する。
極めて高性能なものばかりだったが黎明の杜に明け渡すつもりのようだった。
ヘクセラにとって、彼が降伏を選ぶのは想定外だった。
何かしら手札を隠していてもおかしくない男が、大人しく両手を挙げて戦意がないことを示している。
「博士、何をして――」
「長官殿こそ、何を考えているのかと問いたい。だが、それは今ではない。諸君も武装を解除したまえ」
捜査官たちに命じる。
一等市民である彼の言葉に従わなければ統一法規に反することになる。
ヘクセラが制止する前に捜査官たちは武器を捨て、手を頭の後ろで組んで膝立ちになった。
装備は全て回収され、捜査官たちは丸腰の状態に。
全員が無抵抗になったことを確認すると、氷翠は拘束を僅かに緩めた。
「チッ……統一政府の議員たちは何をしている?」
先程まで近くにいたというのに誰も姿を見せない。
筆頭であるアグニがいたなら戦況も大きく変わっていたはずだ。
ユーガスマが汚染区域から戻るには時間がかかるだろう。
救援は間に合わず現場は制圧され、捜査官たちも魔物と黎明の杜による挟み撃ちによって壊滅したに等しい。
もしこの状況を意図して作り出したのであれば、その人物は相当な切れ者だろう。
ヘクセラは歯軋りする。
「……それで、貴様らの目的は何だ」
背後の無法魔女に尋ねる。
顔を見ずとも、相手が黎明の杜を率いるリーダーであることは分かっていた。
「駆け付けた報道関係者を召集しろ。今すぐに」
目的は魔法省に打撃を与えることだけではない。
主張を世界中に発信するためにこんなことを行うとは、過激な思想犯らしい……と、ヘクセラが眉を潜める。
テロリストのメッセージを発信するなど許されない行為だ。
だが同時に、そんな中継などラプラスシステムによって即座に遮断されるだろうという安堵も抱いていた。
「……要求に従おう」
ヘクセラは不愉快そうに頷く。
要求に従うことは不本意だったが、こうなっては打開策も何もない。
それから十分ほどで、演説の場が設けられた。
多くのカメラが集まって現場の様子を世界中に生中継している。
拘束されたヘクセラと、抵抗を諦めた捜査官たちの姿。
その光景に記者たちのざわめきは止まず、本当に中継していいのかと誰もが疑問を抱いてしまう。
そして、この状況を生み出した主犯格。
氷翠と啓崇、壊廻の三人が堂々と佇んでいた。
「――聞け、世界よ」
凛とした声がざわめきを掻き消す。
第一声で、全員の意識が氷翠に釘付けにされていた。
「理不尽な運命を壊す我々の声を。この腐敗した世界を改革する組織の名を」
確かな意思を持つ者の眼差し。
その覚悟が、その決意が――今、世界中に発信されている。
「私たちは"黎明の杜"――この息苦しい世界から人々を解放するために、日々戦い続けている」
個々の家庭にあるテレビで、ソーシャルメディア等の配信サービスで。
道行く人々には街頭ビジョン等に映し出され、あらゆる場所に伝播していく。
黎明の杜は今回の演説に全てを賭けている。
コンマ一秒すら違えることなく、段取り通りに。
魔法省でさえ予測不可能な事態がC-5区画内部で起きている。
辛うじて啓崇が読み取れた未来。
そこでは、統一政府のキャパシティを大幅に喰らう"何者か"が戦っていた。
千載一遇のチャンスだ。
今この瞬間、自分たちを阻む者はいない。
誰にも演説を止められない。
「私たちの望みはただ一つ。歪に発展してしまった社会を一度まっさらにして――」
原初の魔女によって告げられた未来。
間もなく訪れるであろう好機に、タイミングを合わせるように。
大災禍が空に渦巻く。
極度のエーテル汚染による影響で、空間に歪みが生じ始めたのだろう。
まさか、これほどのエーテルを人為的に操れるはずもない。
そして、莫大なエネルギーが降り注ぐと同時に――。
「――世界を再起動する」
統一政府へ宣戦布告。
その直後、魔力の奔流がC-5区画一帯を消し飛ばし――世界から光と音が消え去る。
何も見えない。
何も聞こえない。
大災禍の余波は空間そのものを崩壊させるように、あらゆる存在を一時的に不安定にさせた。
徐々に視界が戻っていき、音も聞こえ始める。
報道陣は慌てて周囲を見回すが――。
「誰も、いないだと……?」
黎明の杜はどこかへ消え去っていた。
彼女たちは、自らの主張を世界中に発信しただけではない。
その事実に最初に気付いた者は、本当に変革が齎されるのではないかと大きな不安を抱いた。
やがて捜査官たちが、次々と焦ったように声を上げ、その人物の捜索を始める。
大災禍が収まった後。
そこには、ヘクセラ長官の姿もなかった。
そして、ただ一言だけ。
――"what's your meaning?"
ペンキを乱雑にぶちまけたような力強い字で、その場に書き残されていた。
無法魔女や三等市民たちによる反逆。
これまで当然のように区分けされていた階級制度への疑問。
呆然とその光景だけを映し出して、世界中の映像が一色に染まっている。
この日、黎明の杜が引き起こした大規模テロ事件によって。
存在意義を問うメッセージが、各地で苦しんでいる弱者たちの心を揺さぶった。
File:"what's your meaning?"
黎明の杜が掲げる『世界を再起動する』という最終目的を果たすため、同じ境遇に苦しんでいる者たちに投げかけている言葉。
「――貴方は何のために存在しているのか?」
それは、どうしようもない諦念を抱えて時間を磨り潰している弱者たちを目覚めさせるには十分すぎるメッセージだった。