165話
ユーガスマの言葉が彼女にとって愉快に聞こえたらしい。
絵空事を語る幼子を嘲るように、アグニはクスクスと嗤っている。
「――仇討ちの機会か。キミは面白いことを言うね」
支配領域内に鉛のように重い魔力が展開される。
並みの人間なら呼吸さえできなくなってしまうほどのプレッシャーを放っているというのに、彼女は未だ自然体でいた。
「ユーリが死亡したと……貴様が見せたあのデータは偽りだった」
ジンが汚染エリア内に通信で呼び掛ける直前までは生きていた。
もしそれが本当ならば"アグニが提示したバイタルデータは偽りだった"ということになってしまう。
ユーガスマの突入を阻むための嘘だったのだ。
端から彼の意思など尊重していない。
「ならば何故、突入を許した」
封鎖範囲を拡大してまでユーガスマを突入させる意味はない。
しかし、彼女がこうして現れたと言うことは――。
「キミは統一政府の命令に背く危険因子。意に沿わないから"再教育"するだけだよ」
「その通り。今度はより強固に"調整"すべきだ」
仮面を付けた議員がもう一人現れる。
そちらに意識を向ける頃には、さらに次の一人が姿を現す。
気付けば、ユーガスマは七人の一等市民に取り囲まれていた。
「完全に傀儡にしてしまうか?」
「駒としては優秀だ。自我は残すべきだろう」
「いっそ彼女に組み込んでしまえば――」
彼らは"処罰"についてあれこれと話し合っている。
人間を実験サンプル程度にしか思っていない。
悪感情を抱きつつも、ユーガスマは迂闊な行動をせずに機を窺う。
「さて、 話し合いはさておき……執行官ユーガスマ・ヒガ。何か申し開きはあるかな? 辞世の句でもいいよ?」
一等市民という社会的地位だけでなく、魔女としてもアグニは優れている。
紛うこと無き強者だ。
それ故に、弱者を弄ぶことを許されている。
他の議員たちも同様に、ユーガスマを警戒しないほどの余裕を見せている。
既に勝利を確信しているようだった。
彼らの安い挑発には乗らず、ユーガスマは静かに拳を構えるのみ。
「もう少し喚いてくれてもいいのに。こんな状況でも、案外冷静みたいだ」
そんなはずはない。
爆発しそうなほど膨れ上がった殺気を、その強靭な精神力で無理矢理に抑え込んでいるだけだ。
本当ならば、今にもその首をへし折ってやりたいと思っていた。
しかし――。
「――全然楽しめないじゃないか」
気付けば背後を取られ、さらに首筋に注射針を添えられていた。
何らかの薬剤が詰められているようで――本能がそれを拒絶して激しく警鐘を鳴らしていた。
「……そんなものを使って何をするつもりだ」
「どうしてか分からないけど、今のキミは洗脳が解けかかっているようだからね。今度は一切の疑問を抱けないくらい思考を"調整"させてもらうよ」
まるで、以前から洗脳されていたかのような物言いだった。
もし事実であるならば――得体の知れない悍ましさを感じ、ユーガスマは戦慄く。
でも……と、アグニは続ける。
「それだとつまらないから、一回だけチャンスをあげよう」
注射針を首筋から離して距離を取る。
仕切り直すように咳払いをして、愉快そうに説明する。
「データを計測するのに付き合ってもらいたいんだ。大丈夫、難しいことじゃない」
アグニが手で合図をすると、議員たちが距離を取るように後方に下がる。
どうやら、この場を彼女一人に任せるつもりらしい。
「随分と自信があるようだな?」
「自信だなんて不確定な要素を語るつもりはないよ。勝敗は既に決まっていて、それを確認するだけなんだ」
ただ最終チェックを行うだけ。
戦いと呼べるようなものは期待しておらず、それでも万が一があるならば……と、その程度の事でしかない。
「さて、そういうわけだか――」
言い終わる前にユーガスマが動き出す。
多くの無法魔女を沈めてきた執行官の本気。
一切の油断をせず、魔力を全開にしてアグニを殺そうと試みる。
「ちょっと、説明は最後まで聞いてくれないと」
「問答無用ッ――」
距離を詰め、鉄槌の如き拳打を放つ。
近接戦闘には絶対的な自信を持っていたが、体を左右に揺らしながらアグニが躱す。
それだけではない。
「――確かに、最強の肩書きを持つだけのことはあるみたいだ」
繰り出された拳を素手で受け止め、アグニは感心したように頷く。
どうやら常識離れした頑丈さを持っているようだ。
直撃しても有効打にならない状況に、ユーガスマはどうしたものかと思案する。
何らかの手段を用いて防御しているのだろう。
それ自体が彼女の魔法だとは思えないが、それでもESSシールドに似た性質の障壁を纏っているのは確かだ。
問題は、それを発生させているエネルギー源が見当たらないことだった。
アグニ自身が魔法を使っている素振りは見られない。
障壁を生み出している装置らしきものもない。
冷静に観察しつつ、再び拳を構える。
今できることはただ一つ。
アグニの防御を突破するために、全力で魔力を練り上げ――。
「破ッ――」
腹部に掌底を打ち込み、爆ぜるように魔力が押し出される。
直撃すれば戦慄級の魔物さえ致命打となる技だが――。
「あはっ――思ってたより効くなぁ」
気持ち良さそうに声を漏らし、アグニが笑みを浮かべる。
全力の一撃を真正面から受け止めたはずだったが手応えは鈍い。
並みの相手であれば木っ端微塵に消し飛ぶような威力でも、彼女を数メートル後退させるだけに留まった。
当然ながら障壁も健在だ。
ユーガスマの額を汗が伝う。
現状では有効な攻撃手段がない。
彼女が"勝敗は既に決まっている"と言ったのも嘘ではないのだろう。
「侮るな……ッ!」
瞬時に距離を詰め、貫手で腹部を穿とうとする。
魔力を纏った手は如何なる刃物より鋭く、分厚い金属板さえ切り裂けるほど。
しかし――。
「無効化領域を展開」
《――管理者権限を確認。承認されました》
手に纏った魔力が消失する。
慣性によって即座に離脱することも叶わない。
先程までの戦いはお遊びに過ぎなかった。
それを理解してしまい、ユーガスマは険しい顔でアグニを見詰める。
「いったい何をしたッ」
「"彼女"の力だよ。効果は覿面なようだね」
いつの間にか、その手には再び注射器が握られていた。
再び"調整"されてしまうのだろう……と、ユーガスマは僅かに抱いてしまった諦念を憎悪で振り払う。
「……この恨みは、決して忘れはせんぞ」
「はいはい。全部忘れて楽になってね」
手を翳すと、特殊な魔力波が放出されてユーガスマの意識を飛ばす。
力無く倒れ込んだ彼を抱き止めて、アグニは笑みを浮かべた。
「一通り、彼女の予測は当たっていたみたいだ」
針を首筋に突き立て、一気に薬剤を注ぎ込もうとして――。
「こらーっ!」
割って入るように、新たな災禍がC-5区画に降り立った。
File:トルメジスエチン剥薬
アグニが所持していた注射器の中身。
対魔物用の鎮静剤"エルバーム剥薬"に改良を加えたもの。
エルバーム剥薬の副作用として認知されていた精神汚染の原因となる成分"ジスエチン"を抽出。
専用の装置を用いてより汚染度の高い同位変列体"トルメジスエチン"に組み替えて再配合させたもの。