163話
「……統一政府の命令に背くことは重大な規律違反になる」
ユーガスマが呟く。
もし封鎖作業を拒んでユーリを助けたとして、その後に市民権を剥奪されてしまう危険があった。
三等市民の扱いは酷いものだ。
それが常識なのだと無意識に刷り込まれていたが、自分の孫娘が同様の扱いになるなど受け入れられない。
だが、汚染区域に突入しなければ命は無いだろう。
はたして、どちらが幸福なのだろうか。
ここで命を落とすのか、今後の人生を三等市民として虐げられるのか。
そして、どちらが苦痛が少なく済むだろうか。
ユーガスマ自身にとって、後悔しない選択肢などこの場にあるのだろうか。
苦悩の末に――。
「長官。少しばかり、厄介事を残してしまうかもしれない」
彼女も統一政府から咎められることだろう。
始末書程度では済まないかもしれないが、これまでヘクセラの無茶に付き合ってきたのだから一度くらいは構わないだろうと考えていた。
「ま、待てユーガスマ執行官ッ!」
統一政府の意思に反するならば、危険因子として手配書が出されかねない。
彼ほどの実力者が野放しになっては社会の秩序が乱れてしまう。
その光景を眺めながらフォンド博士が嗤っていた。
実に愉快な娯楽だと。
そうして、ユーガスマが背を向けると――。
「――やあ、ご機嫌よう。封鎖作業は順調かな?」
視線の先では、白い仮面を付けた赤毛の魔女が手をひらひらと振って挨拶をした。
その装いから一等市民アグニ・グラだと瞬時に悟り、ユーガスマは警戒して身構える。
だが、直後――その場に強大な支配領域が展開される。
抵抗の芽を摘むように、ビリビリとした殺気を伴った反魔力が他を圧倒する。
「まさか、統一政府が視察に訪れるとは」
「さすがにこの規模だからね。彼女が言うには"この場に危険因子が現れる"ってことらしいよ?」
嘲るように声を跳ねさせる。
仮面の奥でどんな顔をしているのか想像が付かなかった。
まさか自分を牽制するために現れたのだろうか。
でなければ、これほどまでに都合の悪いタイミングで姿を見せないだろう。
彼女の背後には六人、同様に仮面を付けているが一等市民に間違いないだろう。
現場を観察しながら何かを話し合っている。
「……汚染区域に捜査官が取り残されているようです。統一政府の議員である貴女に、突入の許可をいただきたい」
「それは許容できないかな。汚染区域の拡大による人的・経済的被害に対してバランスが取れない」
エーテル公害による被害は一時的なものではない。
もし汚染の元凶を排除できたとして、その後に何十年と高いエーテル値を示し続けることになる。
「封鎖作業を終えて、安全を確保した後に突入部隊の編成を組むことになるだろうね」
当然、その頃には取り残された捜査官たちも全滅しているだろう。
非情にも統一政府は、調査に赴いた計十八名を見捨てるべきと判断したのだ。
阻むのであれば、実力行使で突破する。
ユーガスマが拳を構えようとした時。
「あぁ、執行官ユーガスマ。心配には及ばないよ」
アグニが手を翳すと、現れたホログラム上にリストが展開される。
そこには各捜査官たちのバイタルデータが記載されており――。
「――捜査一班は班長を除き全滅。捜査二班、三班も全滅。いずれもキミが現場に到着する前の出来事だ」
「なんだと……?」
各捜査官の生命情報まで握っていることも驚きだったが、何よりも捜査一班のデータが信じられない。
「ユーリ・ヒガは死んだと……?」
「損傷も相当酷いみたいだね。DNA鑑定にかけないと誰の死体か判別が付かないくらいだ」
だから、命令に背いて突入する必要はない……と、アグニがユーガスマを宥める。
彼女は執行官としての彼を高く評価していた。
「きっと許せないだろうね。調査任務を今日に設定した上層部のことを。何より……この悲惨な事件を引き起こしたカルト連中を」
元を正せば元凶は黎明の杜だ。
捜査を欺かれて罠に嵌められてしまったことに悪意はない。
統一政府と衝突する意味はない。
「黎明の杜は魔法省の監視システムを欺くほどの力を持っている。今回の悲劇も、全ては彼女たちの策略によるものなんだ」
恨むなら黎明の杜を。
それ以外は被害者であって、怒りをぶつけるべきではない。
「……なんということだ」
彼女が嘘を吐いているとは思えない。
強引に突入を止めるのであれば、実力行使で難は無いはずだ。
ユーガスマは肩を震わせる。
エーテル公害によって大切な者を失う虚脱感と、耐え難い心痛――これを味わうのは二度目のことだった。
「黎明の杜は周到に用意してきたみたいだ。統一政府からも遠隔支援を試みたけど……汚染区域内は外部と電波が遮断されていて無力だった」
「……事情は全て承知した」
ユーガスマは瞑目し、ゆっくりと息を吐き出す。
武人として磨き上げてきた呼吸法でさえ、すぐには平常心を取り戻せない。
心を研ぎ澄ませようとしても殺気が混ざってしまう。
それでも表面上は平然を装って佇む。
「その話が真実か否か……この目で確認させていただこう」
「統一政府を信じられないのかな? どうやら、今のキミは冷静さを欠いているようだ」
まあ、仕方の無いことだろうけど……とアグニが肩を竦める。
「今生を捨て去ることに悔いは無い。真実であれば黎明の杜を、偽りであれば統一政府を――」
拳で叩き潰す。
その覚悟を以て、ユーガスマは殺気を向ける。
「そんなことのために、市民権を剥奪されることさえ厭わないなんて……ボクには理解できない感情だ」
アグニが困ったように首を傾げる。
そして少しの沈黙の後、渋々といった様子でヘクセラに視線を向ける。
「封鎖エリアを拡大げよう。彼が突入してから離脱するまで、その時間を含めた汚染範囲を塞ぐことにする」
アグニが小さく何かを呟き――直後に彼女の端末にデータが転送されてきた。
ホログラム上に表示されたものは、変更された封鎖エリアの指示書だった。
「この範囲の封鎖なら、今から変更になっても問題ないよね」
「可能ですが……よろしいのですか?」
ヘクセラが驚いた様子で尋ねる。
封鎖エリアを拡大することで、周囲の土地が汚染され地下資源等にも影響が及ぶことだろう。
それを防ぐための緊急招集だというのに、アグニの判断は安易ではないのかと。
「ボクは彼を高く評価しているんだ。その程度の資源と彼なら……どちらを選択するかなんて、悩む必要はないかな」
魔法省特務部の主任であり、最大戦力であるユーガスマ・ヒガ。
彼の功績を考慮するにしても、ここまで一人の市民を特別扱いをするのは異例の事態だ。
まさか納得させるために封鎖エリアを変更するなど、この場に居合わせた誰にも予想できなかった。
「これで満足して貰えるかな?」
再びユーガスマに向き直る。
汚染拡大によって想定される被害より彼の望みを優先したのだ。
文句など出るはずがない。
「非礼に目を瞑り、そうまでしていただけるとは。アグニ様の寛大さに――」
「そんなことはどうでもいいから。ほら、早く行かないと」
エーテル公害に見舞われているC-5区画。
既に命を落としているとしても、死体をこれ以上弄ばれては堪らない。
無駄話が長引けば、新たに予測された汚染エリアとズレが生じてしまう危険もあるだろう。
「……感謝致します」
ユーガスマは一礼し、汚染エリアに突入する。
凶悪な魔物が跋扈する場所だろうと、彼にとっては些細な問題だ。
「下らない茶番だ」
全てを静観していたフォンド博士が、興味を失ったように呟いた。
File:統一政府
社会を私物化する一等市民の集い。
過去の風習に則って"議員"という肩書きを持つが、選挙などがあるわけではなく、当然ながら議会に民意が反映されることはない。