154話
明確な殺意を露にしたユーガスマに、氷翠たちは微かに身を震わせる。
第六感が激しく警笛を鳴らし続けている。
今すぐこの場から逃げろ、と。
「今更、死を恐れるとも思わないが……抵抗しなければ最小限の苦痛で済むだろう」
「私たちを侮るなッ!」
氷翠が駆け出す。
自分たちは信念を抱いて突き進んでいる。
相手がどれだけ強かろうと屈服するつもりはない。
既に一度、クロガネと引き分けて撤退している。
そんな無様を繰り返すようであれば、世界の改革など到底不可能だろう。
相手は命を賭して対峙しているわけでもない、ただ悠然と佇んでいる一人の男だ。
これまで必死にかき集めてきた魔法があれば殺せる。
「悪魔式――『万象先視』」
最大限に己の能力を強化して、ユーガスマの動きに意識を集中させる。
この魔法は第六感を予見に近いレベルまで引き上げられる。
――"左胸を貫手で穿たれる"
「――ッ!」
即座に間合いから離れる。
その様子にユーガスマは警戒を強めた。
「勘が良い……だけではないな。それも能力の一つか」
危機察知に秀でた人間がいないわけではない。
魔女だけに限らず、生存することに関して際立った才覚を持つ者もいる。
戦いの中で殺気を感じ取って躱す――そういった鍛練によって身に付けた技術とは違い、氷翠のそれは魔法発動の痕跡が残っていた。
戦闘の中でも常に観察を欠かさない。
ユーガスマには相手を分析する余裕があった。
「ならば――」
危険を予見する能力。
それを試すように、ユーガスマは一歩踏み出し――。
――"首を手刀でへし折られる"
――"腹部を前蹴りで潰される"
――"背後から後頭部を殴り付けられる"
――"拳で四肢の骨を砕かれる"
「ッ――!」
氷翠は即座に距離を取る。
数多の可能性を予見していたが、その全てが死に繋がるものだった。
未来視があったとしても、これでは回避が間に合わずに深傷を負ってしまう。
一挙一動に"死"が宿っている。
もし彼が血気盛んな性格だったなら、駆け付けた頃には烙鴉は死んでいたかもしれない。
「ふむ、ここまでは見えるようだが――」
体が震えるほどの強烈な殺気。
魔法省最強の男だと聞いていたが、ここまで常識外れな能力を持っているとまでは想像していなかった。
次にユーガスマが手を持ち上げた時。
――"認識不可能な死"
――"認識不可能な死"
――"認識不可能な死"
――"認識不可能な死"
――"認識不可能な
「――ッぁああああ!!!」
氷翠が咆哮し、建物内が一瞬にして凍り付く。
足場が悪くなったことでユーガスマは一時的に手を止めた。
「氷翠……?」
烙鴉が僅かに不安を見せる。
自分たちを助けるために駆け付けた氷翠まで、このままでは命を落としてしまう。
予見する全ての可能性が死を映している。
抵抗したとして意味を成さない。
何が起きたのかさえ理解できないで命を落とすのだから。
戦慄級の氷翠でさえ歯が立たない。
これでは、無法魔女や三等市民たちが反抗しようとしないのも当然だろう。
この世界では無為に希望を抱えるより、絶望の中で思考放棄した方が楽なのだ。
だからこそ統一政府の体制は揺るがない。
反抗しようと目論む者も現れない。
「私はッ……!」
「吠えるだけなら犬でもできる。何も結果を残せないのであれば――」
ユーガスマが距離を詰めていく。
この魔女は、指示を無視してでも処分すべき相手だ。
今は脅威にならずとも、いずれ甚大な被害を齎すことになるだろう。
そんな彼の思考を読み取ったのだろうか。
不意に耳元の通信機にノイズ音が入り――その中に、無機質な少女の声が混ざる。
『執行官ユーガスマ・ヒガ。作戦行動からの逸脱は認められません』
抑揚のない声。
かといって合成音源のような歪さでもない。
何らかの意思を持つ者が接触してきた。
何者だ――と、この場で問うわけにもいかない。
敵の能力による阻害の可能性もあったが、それよりも疑うべきことは他にあった。
『ターゲット――氷翠を検体として提出して下さい。貴方の立場には相応の責任が伴っています』
反論をする気さえ起きない。
もし彼の推測が正しければ、この声の主は何よりも強大な権限を持つ存在。
『忠実な任務遂行を――忠実な任務遂行を――』
世界を統治する基盤。
場所さえ不明な統一政府の中枢部分。
――ラプラスシステムが、直接干渉するほどの事態とは。
いったいどのようにして戦闘を観察していたのか。
心の内さえ見透かすような観測システムなどがあるならば、誰だって隠し事はできなくなってしまう。
この場所に黎明の杜の襲撃班が潜んでいる。
さすがに、ここまでの情報を魔法省が掴めるはずがない。
教導主『啓崇』を出し抜くほどに、統一政府の――ラプラスシステムは世界を見渡している。
「氷翠、転移を!」
烙鴉が叫ぶ。
ほんの僅かな殺気の乱れに好機を見出だして、少しでも時間を稼ぐために駆け出す。
普段なら隙を突いたところで通用しない。
だが、この瞬間だけは。
思考に意識のリソースを割いていたユーガスマ相手に、奇跡的に回避行動を取らせることができた。
「――貴様は殺しても問題ないな」
逸れていた意識が烙鴉に向けられ――貫手で心臓を穿つ。
「易々と殺されると思うなッ」
致命傷を負ってなお、強靭な精神力で苦痛を堪えて刀を突き出した。
身を省みない特攻にユーガスマは驚きつつも、対処は至って冷静に行う。
突き出された刀を半歩引いて躱す。
微かな間合いのズレによって威力が減衰し、刀身に帯びた魔力が弱まったところに拳を振り下ろして叩き折る。
魔法発動の時間を稼ぐために、彼女は自らの命を投げ捨てて壁となることを選んだ。
氷翠を逃がすためなら命を落としても構わない。
心の底からそう思っていた。
ユーガスマは忌々しそうに眉を顰める。
刀と心臓を失っても折れないで、烙鴉が険しい表情でこちらを睨んでいる。
「――『空間転移』」
ほんの数秒さえ、烙鴉の決死の特攻がなければ稼げなかっただろう。
ユーガスマの追撃が来る前に完成し――二人はその場から転移する。
飛んだ先は黎明の杜本部。
治療室に転移するも、どう考えても助かる見込みはなかった。
File:万象先視
一秒先まで視界内の未来を予測する。
観測範囲は氷翠の能力に依存しており、彼女が認識不可能なものまでは映し出せない。
未来視の能力に感覚強化等の魔法を組み合わせて効果を高めている。