143話
――エスレペス北工業地域、C-5区画。
既に午前零時を迎えていた。
夜道を歩くには、壊れかけの薄暗い街灯ばかりで心許ない。
仕事を終えた三等市民たちはこの場所に集まる。
煤けた路地に、今にも崩落しそうな建物。
娯楽と呼ばれるようなものは何一つない貧困層向けの居住区だ。
こんな時間まで働いても、二等市民が稼ぐ給料の一割にさえ届かない。
劣悪な労働環境の対価として、こうして必要最低限を下回る生活を与えられるだけ。
食事さえ満足に取れず、痩せこけた者ばかりだ。
行き交う人々の目に生気は感じられない。
感情を失った機械のように、何かを成すこともなく無為に日々を繰り返しているのだろう。
レーデンハイト二番街では、まだ三等市民もひっそりと小銭稼ぎをしていた。
富を持つ者が歩いていたなら手を伸ばして情けを乞う意地汚さも持っていた。
己を商品として売り込む娼婦さえ、この区画には存在していない。
「……チッ」
それが耐え難く腹立たしい。
生きる希望を失った彼ら彼女らに、救いが齎されることはないだろう。
だが、そんな中で僅かだが意思を持つ者がいた。
汚染された空気を肺一杯に吸い込んで、淀んだ空を睨む者がいた。
そういった者たちは必ず"大樹の描かれたシンボル"を持っていた。
三等市民の間で広がっているという信仰――黎明の杜。
その調査をするには、エスレペス北工業地域に潜り込むのが最も手っ取り早いだろう。
行き交う人々を観察しつつ、クロガネは機を窺う。
あまり大きな騒ぎは起こすべきではない。
現時点では敵対する理由もないため、信者を害することは控えたい。
とはいえ、何も手出ししないわけにはいかないため――。
「……ッ!」
単独で歩いていた信者を路地裏に引きずり込み、昏倒させてシンボルを奪う。
これが無ければ潜入調査はできない。
さすがにこのまま放置するわけにもいかない。
より奥まで進んで、目立たない場所にそっと横たえた。
「目覚める頃には返すから」
そう言い残して、クロガネは表通りに戻る。
三等市民の間で信仰が広まっているのであれば、C-5区画に集会場か何かがあるのでは……と考えていた。
仕事の合間に集まることはできない。
必然と睡眠時間を削って宗教活動に勤しむことになってしまう。
それでも生きる希望を失った者よりは幸せなのだろう。
ただ朽ち果てるまで動き続ける機械より、意思を持って生きている者の方がよっぽど人間らしい。
クロガネは『探知』を用いて拝借したシンボルと同種の反応を探る。
近辺に幾つも反応が確認できた。
周囲を気にしつつ、コートの襟に隠したマイクに伝達する。
「近くに施設があるかもしれない。距離を取りながら付いてきて」
『――了解!』
色差魔が通信機越しに返事をする。
工業地域では目立たないように距離を開けて行動していた。
理由は幾つかあるが、決して色差魔の相手をするのが面倒……というわけではない。
信者らしき反応を追っていると、全員が"ある一点"に向かっているように見えた。
遠くから『探知』した限りでは、C-5区画の中で唯一の教会だった。
「この座標に向かう」
『放棄された教会っぽいけど……宗教活動をするにはちょうど良さそうね』
立派な外観と装飾があって、そこに崇めるべき神を据えれば宗教の完成だ。
建物が古ぼけていようと信仰は成り立つ。
この地域の信者の数は予想よりずっと多いらしい。
少なくとも四十人は教会に集まっていて、まだ幾つかこの場所に向かっている反応があった。
「……」
その中に二つほど魔女の気配もある。
遭遇したことはない相手だ。
『どうする?』
「……会合に潜入する。通信は繋げたままにするから、シキは外で待機してて」
色差魔は以前に標的にされたことがあるため、顔が割れている可能性が高い。
クロガネが単独行動する方が安全だろう。
「何かあれば合図を出す」
『分かった。あんまり深追いしないようにね』
黎明の杜は規模の大きなカルトだ。
下手に刺激をして過激な報復を受けるのは避けたい。
クロガネは頷くと、教会に向かう。
File:C-5区画
以前は二等市民居住区だったが、工業地域から排出される煌学物質によって汚染され放棄された。
実質的に三等市民労働者の収容所と化している。
居住区指定が得られないほどエーテル値が高いため、凶暴化した野犬が群れを成している危険区域でもある。