136話
――エスレペス北工業地域、C-4区画。
製薬工場が建ち並ぶ区画。
一帯はアルケミー製薬会社によって管理されており、バイオプラントから得られる各種成分の抽出及び精製を行っている。
それらを加工して、主に民間向けの医薬品類を製造している。
区画はC-1からC-5まで分かれているが、C-4以降は三等市民の労働者で溢れ返っている。
二等市民の研究者たちは大半がC-3以上の区画で働いており、衛生面にも隔絶された開きがあるとのことだった。
事前情報である程度の覚悟はしていたものの。
足を踏み入れてクロガネが最初に抱いた感想は"酷い場所"だった。
排気ガスの影響か、この地域だけ青空を眺めることはできないほど空が淀んでいる。
そのせいで正午だというのに薄暗い。
呼吸するだけで体調に悪影響がありそうなほどで、エーテル濃度がやや高いことも気になった。
魔女の体には特に害はないだろう……と、思いつつもマスクを付けて不快感を紛らわす。
肺を悪くしそうなほど埃と化学薬品の臭いが充満する中。
薄汚れた服を着た三等市民の労働者たちが俯きながら行き交っていた。
人々の目は死んでいる。
この地獄のような環境から脱することも出来ず、老いる前に体が限界を迎えて斃れるのだと。
理解していて、他に何かを望むようなこともしない。
中には宗教に傾倒している者もいるようで、大樹のようなモチーフが描かれたアクセサリーを握り締め、虚ろな瞳をして歩いている。
まだ商業区の三等市民区画の方がマシな光景だ。
あちらが当ての無い浮浪者なら、こちらは使い捨てられる奴隷だ。
あまり長くは留まりたくない場所だ……と、クロガネは嘆息しつつ目標座標を確認する。
「……あのさ、あたしの存在忘れてない?」
傍らを歩いていた色差魔が尋ねる。
仕事のために同行……ではなく、氷翠たちの襲撃から守るために預けられたのだ。
とはいえ、彼女も裏懺悔から多くの依頼を引き受けてきた無法魔女だ。
調査を進めていく上で役立つことも多いだろう。
「あんまり一人の世界に入らないでよね。今回はペアで行動するんだから」
過剰にペアであることを強調して笑みを見せる。
彼女と組んで行動するのは確かに初めてのことだった。
「裏社会においてはあたしが先輩……経験の差ってやつを見せてあげるわ!」
堂々と胸を張って言うも、声を張り上げた姿に視線が集まる。
隠密調査というわけではないが、不必要に目立ってしまうのも都合が悪い。
「あー、えっと……それで、これからあたしたちは何をするの?」
「殺害現場に向かってエーテルの痕跡を探る」
どのような魔法が発動されたのか。
そこを解き明かすことで、能力を奪う仕組みについて手掛かりが得られるはずだ。
それ自体が氷翠の固有能力であるなら話は単純だ。
危険な魔法を持つ無法魔女として裏懺悔に報告して終わるだけ。
その後の対処は放っておいても魔法省がすることだろう。
そこから別の目的に繋がるのであれば、内容次第では敵に回す必要が生じてしまう。
その判定をするのが今回の仕事だ。
だが、何故だろう。
あの凍てついた眼を思い出す度に、ただのテロリストでは終わらないように思えてならない。
瞳に孕む奈落の奥底ような闇は、いったい何を望んでいるのか。
いずれにせよ、今は調査を進めるしかない。
後の事は判断材料が揃ってから考えればいいだけ……と、一先ずは保留する。
そうして目標座標に向けて移動していると――。
「……チッ」
複数人に尾行されていることに気付く。
労働者たちの流れに紛れて一定の距離を保っているようだが、こちらの様子を窺う素振りが何度もあった。
警告するように殺気を向けてみるも反応はない。
完全に素人のようだ。
誰かに雇われた殺し屋でもないらしい。
共通しているのは、大樹のようなモチーフの描かれたアクセサリーを持っていることだ。
「……なんか尾行されてるっぽい」
「面倒だから撒く」
調査を優先すべきだ。
彼らが何か有益な情報を握っていたとしても、関わることのリスクとは早々釣り合わない。
「それならあたしが――『夢幻』」
色差魔が手を後方に向けて魔法を発動する。
すると、尾行していたはずの者たちがこちらを見失ったように周囲を見回す。
色差魔は五感を狂わせる能力を持つ。
最低限の魔力消費に抑えるため、今回は"視覚"を狂わせてこちらを認識できないようにしたらしい。
「ほらね、役に立つでしょ」
殺さずに、駆け回って衆目に晒されるようなこともなく尾行を撒く。
その能力は確かに便利だ。
下手に恨みを買わずに済むのも優秀な点だろう。
路地裏ならばともかく、こういった大通りで目立つ行動は避けるべきだ。
色差魔は誇らしげに胸を張る。
File:エスレペス北工業区域
アルケミー製薬会社によって買い占められた地区。
C-4区画では仕事が、C-5区画では衣食住の"最底辺"が保証されているため、行く当てのない三等市民たちが多く働いている。
土地のエーテル汚染度が高いため居住区指定は得られていない。