133話
凍てついた空気が肌を刺す。
吐息は白く染まり、コートから手を出していると指が悴んでしまうほど。
日が昇るまで時間があるとはいえ、随分と寒い夜だった。
何か用事があるわけでもなく。
嫌なことを考えないようにするために、無心で深夜の街を歩き進んでいく。
しばらく歩いていると、大きな建造物が見えてきた。
――ゾーリア商業区中心部、マレスト駅東口。
この時間帯でさえ、ほとんどの店が営業中だった。
数ある商業区の中でも一際目立つ治安の悪さ。
その代わりに、裏社会に生きるものにとって数少ない安息の地でもある。
ここでは魔法省の目が行き届かない。
東西南北を中規模のシンジケートが取り仕切っており、下手に介入しようとすれば手痛いしっぺ返しを食らうことになってしまうからだ。
表向きは、シンジケート同士による協定が結ばれている。
裏ではドス黒い探り合いばかり行っているものの、公安という共通の敵に対しては協力せざるをえない。
そんな治安の悪い街も、今日は何故だか静寂に包まれていた。
「……」
駅前の喫煙所で煙草を吹かしつつ周囲を見回す。
店自体は開いているものの、人の気配がほとんど感じられない。
あまりにも不自然すぎる……と、警戒を強める。
周囲を観察しつつも『探知』の発動は控えていた。
状況が分からない中で、誰かに魔力を感知されることは避けたい。
気配を殺して、事態の把握に努めていると――。
「――誰か、誰か助けてッ!」
遠くから叫ぶような声が聞こえた。
距離はあるが、クロガネの身体能力であれば大して時間は掛からない。
問題は、この厄介事に関わるか否か。
大きな魔力の気配が二つ、激しくぶつかり合いながら移動を続けている。
どうやら、徐々にこちらに向かってきているらしい。
無法魔女同士の争いだろう。
叫んだ側の魔女は人目を当てにして駅に逃げてきているようだったが、今日は不幸なことに誰もいない。
襲撃者が止まることはないだろう。
面倒事に関わる必要はない。
クロガネは背を向けて歩き出そうとして、視界の端で僅かな変化を捉える。
――奥の建物がカラフルに彩られた。
魔力の動きがある度に、変化が周囲の建物にまで浸蝕していく。
どうやら逃げてきた魔女は見知った顔らしい。
見捨てると裏懺悔が困るだろう。
手駒を失って、その分の仕事を回されても面倒だ。
クロガネはコートの内側からハンドガンを取り出し――。
「――伏せてッ」
「うわわっ!?」
建物の影から飛び出してきた色差魔が慌てて伏せると、容赦なくトリガーを引いた。
頭上を無数の弾丸が通り抜け、襲撃者に向かって突き進む。
マガジンに込められているのは、マクガレーノ商会から仕入れた特殊な改造弾。
実弾ながら威力を限界まで引き上げられているため、下手な対魔弾を撃つよりも効果が見込める代物だ。
だが――。
「――私の邪魔をするなぁッ!」
魔力の奔流が弾丸を呑み込んで焼き尽くす。
特殊な改造弾さえ阻む防御――もとい、凶悪な攻撃手段を持っているらしい。
「く、クロガネ~っ!」
その隙に色差魔が距離を取って横に並ぶ。
かなり魔力を消耗している様子だ。
介入しなければ、そう何分と持たずに殺されていたかもしれない。
対して相手の魔女は傷一つさえ負っていない。
先程の能力によって、力任せに『色錯世界』を破られながら追い回されていたらしい。
見た目こそ可愛らしい黒のリボンやフリルがあしらわれた地雷系ファッションだったが、纏う殺気は本職のソレだ。
「アレはどこからの刺客?」
「心当たりは……まぁ、無限にあるけど」
後ろ暗い稼業に身を置いているのだ。
どこかの組織から依頼を受ければ、別の組織から恨みを買うことになってしまう。
とはいえ、報復のために無法魔女を雇ったにしては、目の前の相手は破格すぎる。
「誰に雇われた?」
拳銃を突き付けて尋ねる。
口を割って立ち去るならいいが、戦闘を続けるようであれば容赦はしない。
「話すわけ――」
足元に魔力の揺らぎを感じた。
先ほどの魔法は自身から離れた場所からも発動できるらしい。
だが、クロガネは魔法の発動を力任せに握り潰す。
「なッ――!?」
支配領域内で魔法を発動させるには、相手の反魔力を押し返す必要がある。
クロガネは戦慄級――制限を受けずに戦うには、同等以上の魔力量でなければならない。
そして同時に、魔法を潰すことで"反動"による負荷を与えられる。
襲撃者は頭痛を堪えるような様子を見せていた。
「話す気になった?」
「誰が……ッ」
依頼者の名を出すつもりはないらしい。
情報が得られないのであれば、これ以上は無意味な時間だ。
「なら、もういい」
クロガネは興味を失ったように視線を逸らす。
嘆息して脱力したかと思うと――瞬時に距離を詰める。
目で追うことも叶わなかっただろう。
気付いた時には死が確定している。
魔女としての格の違いは、それだけで殆どの勝敗を決めてしまうのだ。
視線がクロガネに追い付いた頃には、既に首元を狙ってナイフが突き出され――。
――不意に、手元にひんやりとした魔力が触れる。
――外気とは微かに異なる冷たさ。
――凍てついた空気。
「チッ――」
深夜の寒さに紛れ込ませるように、何者かが殺気を仕込んでいた。
咄嗟にナイフの軌道を変え――。
File:マレスト駅
ゾーリア商業区中央部に位置している大きな駅。
各シンジケートの派閥が四方を囲うように占領しているため、中心となるこの場所では小競り合いが日々絶えない。