119話
不味い――と、即座に人工島に移動を始めようとして気付く。
ヴィタ・プロージットは本命を廃船に待機させ、本来の標的であるガレット・デ・ロワを優先したのだと。
「チッ……」
停泊していたのは廃船に見せかけた罠だった。
船内にはゲーアノートが潜んでいて、抗争の影からアダムの首を狙っている。
それだけではない。
ほんの僅かな異変が、戦況の変化を告げる。
足元に転がっていた錆びた金属片がカタカタと揺れている。
周囲のコンテナが軋んで音を立て始める。
そして、記憶に新しい"静電気のようなちらつき"が視界に現れる。
――煌反応スモッグ。
魔法の発動を阻害する特殊な気体。
変性エレクトロンとメタモガスを組み合わせた、対魔女に特化した罠だ。
「なぜ……と、驚いているようだな」
何らかの装置によって煌反応スモッグをこの場に留めているらしい。
風が吹いても薄れる気配はない。
グフタフがロケットランチャーを投げ捨て、他のメンバーたちもエーテルに依存した武器を捨てる。
この空間内で対魔武器を使用することはかなわない。
「足止め役を任されたのはお前だけじゃないということだッ」
巨躯の男が襲い来る。
鍛え上げた肉体だけで十分だと言わんばかりに。
このまま時間稼ぎをされてしまえばアダムが危ない。
敵の本拠地を丸ごと罠として作り替え、そのまま離岸して増援も断とうとしている。
クロガネは懐からナイフを取り出し――疾走する。
「……ッ」
無数の銃口を向けられ、突破可能なルートには遮蔽物も少ない。
銃弾を避けるだけの『能力向上』も使用は許されず、何発か体を掠めていく。
「ッ……ぁぁああああッ!」
苛立ったように声を上げ、自身を無理矢理に鼓舞させる。
最短距離を行くにはグスタフの塞いでいる道を突破するしかない。
「チッ――邪魔ッ!」
ナイフを全力で投擲――上から機関銃を好き放題に暴れさせている男に向けて。
「うおっと!?」
銃身にナイフが突き刺さる。
鬱陶しい銃声は他の場所からも鳴り止まないが――。
「まだッ――」
地を這うように身を屈めて潜り抜け、グスタフの眼前に迫る。
これだけ近ければ、相手も無闇に銃を撃てないはずだ。
「お前もタイマンが望みか?」
相手側の本命も同じ。
こうして一対一の状況を作り出して、戦闘経験の差で叩き伏せようとしていた。
クロガネは懐に潜り込むように接近し――体を捻るようにして蹴り上げる。
鈍い手応えを感じつつも、攻撃の手を緩めずに押し切ろうとする。
だが、途中で蹴りを受け止められてしまう。
脚を引こうにも、屈強な大男に捕まれては、体重差も合わさって身動きが取れない。
「――シィッ!」
足首を掴んだ手とは反対側を固く握りしめ、グスタフが拳を突き出す。
そして、胴体を突き抜けるような重い衝撃が腹部に叩き込まれる。
「ぐぅッ――!?」
近接格闘にも心得があるのだろう。
正確に急所を捉えた正拳突きによって、肺の中の空気を強引に吐き出させられる。
怯んだ隙を突くように追撃が来るも、クロガネは即座に再起して距離を取る。
「……頑丈だな」
グスタフが感心したように言う。
腹部を叩き潰されて、その後、即座に回避行動に移れる者はほとんどいないだろう。
強者であるほどに、痛みとは徐々に縁遠くなっていく。
この結果は彼の予想に反していた。
「生憎だけど、そういうのは間に合ってるから」
痛みには慣れている。
機動試験で味わってきた地獄と比べれば、まだこの程度は準備運動と変わらない。
意識を失うまで魔物と戦闘を繰り返した日々。
実験体に敗北して四肢を欠損しても、手術と薬剤投与によって即座に元通り。
翌日には次の機動試験に回され、無駄口を叩く余裕さえ無かった。
目の前の男もまた、同様に過酷な訓練を積んできたのだろう。
この場をゲーアノートに任されるほど信頼が置かれているようだ。
とはいえ、それを考慮してもなお不可解だった。
生身の人間のはずだというのに、その肉体強度は無法魔女に迫るものがある。
本来であれば、魔法の使用が封じられたとしても、クロガネは素の身体能力だけで十分に戦える。
だというのに、彼は涼しい顔をして全力の蹴りを受け止めたのだ。
余裕の笑みさえ浮かべているほどで――。
「……あぁ、そういうこと」
微かな表情筋の震えを見逃さない。
よく見れば、蹴りを受け止めた腕も腫れている。
グスタフは痛覚をクスリによって消し去っているのだ。
この戦いで足止めの役割を果たすために。
実際には骨折している可能性が高い。
骨を補強するように何かを仕込んでいたかもしれないが、少なくともヒビは入っているはずだ。
でなければ、渾身の蹴りを受け止めきれるはずがない。
これが正しい意味での"殺し屋"……汚い手を使ってでも、標的を仕留めることだけを追求し続ける。
能力を振りかざすだけの無法魔女が狩られるのも無理はないだろう。
既に狩り場は完成していた。
魔法を封じる特殊な気体に満たされた空間。
僅かでもエーテルの気配を出せば、たちまち爆発が起きて酷い手傷を負うことになる。
だが、それ自体はMED装置のように魔力そのものを抑え込むわけではない。
魔法の発動そのものを押さえ込んでいるわけではないのだ。
――なら、それを上回る規模の魔法で消し飛ばせばいい。
「はぁ……」
不愉快そうに嘆息し、脱力する。
クロガネの様子を不可解に思ったのか、訝しげに攻撃の手を止める。
ほんの一瞬、コンテナヤード内が静寂に包まれるが――。
「――撃てッ!」
何かを察知したらしい。
グスタフは部下たちに攻撃命令を出し、即座にバックステップで距離を取った。
この瞬間を好機と捉えず一歩下がるという判断は正解だった。
一斉に撃ち出された銃弾を気にも留めず、クロガネは容赦無く魔法を行使する。
「――『疑似・限定解除』」
一気に『破壊』の力を放出させる。
体に纏うように展開させ――周囲を取り巻く危険なガスそのものを消し飛ばす。
エーテル反応によって巻き起こる爆発さえ、その現象そのものを『破壊』していた。
通常時では叶わないような芸当も『疑似・限定解除』状態であれば可能となる。
溢れ出る魔力量は先程までとは比べ物にならない。
クロガネの根源は『破壊』の魔力――解き放てば、その支配領域は全て思いのままだ。
『万象滅する暴力の魔――"破壊の左腕"』
それこそがクロガネの本質。
消耗を無視するのであれば、考え得る限りでは最も凶悪な攻撃手段となる。
この状態であれば、魔力を無闇に振るうだけでも脅威だ。
だが、精度は完璧ではない。
不安定な制御の隙間から、微かに肌を焼くように煌反応スモッグの熱が通り抜けてしまう。
以前は"原初の魔女"が根源となって力が供給されていたため、力の制御だけに集中するだけでよかった。
現在のクロガネは、自分だけで『破壊』の力を制御しなければならない。
「……ッ」
捨てた縁を惜しむ必要はない。
あのまま従属しては、CEMに飼い慣らされるのと大して変わりなかったはずだ。
飛来する銃弾も全て、肌に触れるまでに蒸発した。
だが、ここから攻撃に転じる余裕はない。
余裕はないが――意地で歩みを進める。
一歩踏み出せば、足元から『破壊』の魔力が波のように広がってコンクリートの床を砕く。
支配領域に入ったコンテナは悲鳴を上げながらひしゃげ、その様子を見たグスタフが冷や汗を垂らす。
「時間稼ぎをするんじゃなかったの?」
殺気を滾らせ、さらに歩みを進める。
四方から飛来する銃弾は全て意味を成さず蒸発していく。
長時間の行使は危険だが――クロガネは場を完全に掌握した。
「――『破壊』」
そっと手を翳す。
グスタフの足元が爆ぜ、大きく体勢を崩して倒れ込んだ。
即座に『疑似・限定解除』を止め――クロガネは再び疾走する。
無意味と判断したのか、銃弾はほとんど飛んで来なかった。
敵の何人かが倒れているグスタフを助けるために駆け寄ってきているが、どちらにせよ、今は始末する手間さえ惜しい。
傍らを駆け抜けて人工島に一直線に突き進む。
船は離岸して随分と距離が開いてしまっているようだった。
全域に『探知』を掛けると、ターミナル付近に救命用の水上バイクが停められていることに気付く。
これを使えばすぐに追い付けるだろう。
後は船内でアダムと合流し、ゲーアノートを退けるだけだ。
File:ルトガー
コンテナの上から機関銃を乱射していた男。
ヴィタ・プロージットに所属する銃マニアの殺し屋。
能天気な性格だが銃の腕前は優れており、グスタフと並んで高く評価されている。