1話
『――実験体番号0040Δ』
無機質な声が響く。
真っ白で何もない部屋の中で、佇んでいる少女に向けられた声だ。
呼び掛けに応じることはない。
年不相応な鋭い眼光で、ただ前方を見据えるのみ。
既に息は荒く、体は疲弊しきっている。
全治数ヵ月はかかるであろう負傷もしている。
本来なら、ベッドで安静にしていなければならない容態だった。
だというのに。
無数の怪我が癒える間も無く、こうして強制的に連行されるのだ。
スピーカー越しに声を発する男性の顔など知らない。
興味もない。
だが、その命を思い付く限り残虐な方法で奪いたくなるほど、激しく憎悪している。
『――機動試験開始。存分に健闘してくれたまえ』
目の前に転送されてきた魔物に、震える銃口を突き付けた。
◆◇◆◇◆
「んー、朝かぁ……」
騒がしいアラームの音で少女は目を覚ます。
パジャマの襟元を引っ張ると、ぺったりと汗で濡れていた。
「目覚め悪いなぁ、もう」
寝ぼけ眼を擦りながら起き上がると、少女は身支度を整える。
嫌な夢でも見ていたのだろうか。
寝起きの悪さからか、言い様のない気持ち悪さがどうにも離れずにいた。
きっとリビングでは、出来上がった料理を母が並べている頃だろう。
昨晩に見かけた厚切りの食パンが朝食だったなら、このモヤモヤとした不快感など気にならなくなる。
そんな少女の期待を裏切るように。
悪夢の始まりは、無慈悲なまでに唐突なものだった。
何気ない日常を打ち砕くように。
幸福など許さないように。
制服に着替え終わった直後――足元が眩く明滅する。
「な、なにっ……!?」
突然の出来事に戸惑い、視線を右往左往させ、そしてようやく下に降ろす。
それがいわゆる"魔法陣"というものであることは認識できたが、今置かれている状況までは整理できなかった。
脳を激しく揺さぶるような酩酊感。
暗がりに引きずり込まれるような恐怖。
「――い、嫌だッ!」
本能的に理解していた。
これは決して楽しいものではなく、寝起きに感じていた嫌な気配そのものなのだと。
呑まれれば、きっと取り返しがつかなくなる。
第六感が激しく警笛を鳴らす。
そうしている間にも意識は遠退いていく。
「うぁ……っ」
辛うじて伸ばした手は、何も掴むことなく宙を彷徨っただけ。
掴む藁さえ流れていない。
確定された事象。
悪夢が始まるのは既定事項であって、少女に拒む権利もなければ、抵抗するだけの力もない。
意識を失う寸前に感じたのは、奈落に落下するような――昏い絶望と浮遊感だった。
◆◇◆◇◆
耐え難い嘔気と頭痛に苛まれ、少女は目を覚ます。
視界はボヤけて鮮明ではなかったが、自分が何人かに囲まれていることは理解できた。
「ここは……ッ!?」
起き上がろうとして、手足が拘束されていることに気付く。
背中がいたくなるほど固い台の上に磔にされているらしかった。
逃れようにも、酷い酩酊感の中ではまともに動くことすら儘ならない。
「……意識の覚醒を確認。脳周波安定 」
渇いた男性の声だった。
未だ鮮明でない視界の中で、白衣を着ていることだけは
見ず知らずの他人だというのに、声でさえ生理的に受け付けない。
「適応率……問題なし。上等な素体だ」
「ねぇ、何をするつも――」
問い掛けへの返答に、鈍い音が鳴る。
無駄な発言は許さないと示すためか、男は無言で拳を振り下ろす。
「ぐぅッ……な、なんで……?」
腹部に容赦のない一撃を加えられ、少女は呻くように声を漏らした。
気味が悪い。
殺意も、嫌悪も、何もネガティブなものを向けられているわけでもない。
ただ無感情に手順通り進めるだけであって、その妨げにならないように躾を行っただけのこと。
暴れたところで何も意味を成さないことは理解している。
相手は大人で、しかも複数人いて、そのうえ自分は拘束されて身動きも取れない。
それでも、恐怖を呑み込んでじっと黙ったままでいられるほど大人でもない。
腹部の痛みに嗚咽しながら、少女は検査を受けるしかなかった。
「……バイタルサイン異常無し。メディ・プラント施術を行う」
その瞬間、空気が一変する。
酷く不快な悪寒が背筋を走った。
朧気な視界に大きな影が差す。
少女の真上に、円盤形の機械が運ばれてきた。
研究者らしき集団に囲まれて、意味不明な装置が起動している。
これまでの人生で感じたことのない恐怖に苛まれていたが、これは長い悪夢の始まりにすぎない。
「MED起動……PCM値減少を確認」
耐え難い眼痛が襲う。
「PCM値158……87……53……」
眼の奥をスプーンで抉るような、大半の人間は経験することのないであろう激痛。
苦悶の声を上げようと、どれだけ拘束を振りほどこうとして暴れようと、施術を止めることは出来ない。
次第に体中の力が抜けていく。
数字が減少していくにつれて、指先を僅かに動かすことさえ困難になっていく。
「10以下に安定……PCMAで観測を続けろ」
「はっ!」
何が起きているのかまるで理解出来ない。
平穏な日常を過ごしてきたはずの少女にとって、身に起きること全てが悪夢のように思えるほど。
「――移植を開始する」
決して覚めることのない夢。
あるいは、果て無き絶望の旅路。
それを受け入れられるほど過酷な経験は積んできていなかった。
男の手際は良く、施術は瞬く間に進んでいく。
たとえ恐怖に理性が押し潰されそうになっていても、自分の体に何かが埋め込まれていることは分かる。
それがどれほど危険なものなのか。
考えるほどに恐怖は膨れ上がっていき、考えないようにすると、今度は絶望が心を満たしていく。
「ドクター、PCM値上昇を確認! 上がり続けています!」
「MEDレベルを最大に引き上げて抑えつけろ」
「す、既に最大出力ですッ」
やり取りの中で、男は感心したように少女を見下ろす。
ここに来てようやく興味を抱いたらしい。
「ふむ、であれば――」
男は首枷のようなものを取り出すと、身動きの取れない少女の首に付ける。
「飼い慣らせばいい。極めて特異な遺物の宿主となったのだ、存分に活用しなくてはな」
体はぴくりとも言うことを聞かない。
だが、痛覚だけは確かに残っていて、絶え間無く少女を苛み続けていた。
胸元に埋め込まれた"何か"から、身悶えするほどの熱の奔流が四肢の先まで循環していく。
「素晴らしい……やはり、異邦人は適応率が極めて高い」
少女はやがて意識を失い、男の不気味な笑い声だけが響いていた。
File:メディ・プラント施術
魔力を帯びた物体等を『静性メディ・アルミニウム』と呼ばれる特異金属の外殻によって制御することでコアを形成。
コアを人体に埋め込むことにより、人為的な魔女の発生を引き起こすことが可能。