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「あーもう、やーねえ。スーツがヨレヨレ。もうすぐ七夕だってのに。雨ばっかりねえ、この時期の日本は」
「あ。おかえりなさい、馨子さん」
その人が小ぶりのキャリーバッグを片手に玄関先に現れただけで、家の中の光度がぐんとあがる。これは気のせいだけじゃなくって、マジだと思う。
空気そのものがふいににぎやかで前向きなものになり、温度をあげたような気さえするから、ほんと不思議なんだよな。
「はいお土産」
「あっ、はい……」
馨子さんは手にしていた紙袋をひょいと俺に渡してウインクをして見せ、勝手知ったる足どりでリビングへの廊下を突っきっていく。
いや「勝手知ったる」もなにも。そもそもここは馨子さんの家なんだから。たしか名義だってまだ馨子さんのものだったはず。いずれは自分の息子にと思ってはいるようだけど。
「きゃああ! あきちゃ~ん!」
リビングではもうさっそく例の「親子バトル」が展開され、そして速攻で終了したようだった。
すなわち馨子さんが奇声をあげて愛する息子──この場合はもちろん佐竹──に凄まじい早業で抱きつこうとする。それを佐竹が必要最小限の身のこなしで素早く躱し、馨子さんの両手が空を切る。……という、一連のアレだ。
もはやこの家のお約束。むしろこれがないと俺、もの足りなくて寂しくなっちゃうのかもしんない。
「ほんともう、やーねえ。会うたびいい男になっちゃって! 祐哉きゅんと暮らし始めてから、さらにお色気までアップしてない? そんな素敵男子をこの世に生み出したお母さまに、ちょっとぐらい抱きしめさせてくれたってよさそうなもんじゃないのかしらあ」
「断る」
佐竹、当然のように一刀両断だ。これもこの家のいつもの風景。
「あ、祐哉きゅんはさらに可愛くなってるわよ?」
「えっ?」
いきなり矛先がこっちを向いて、俺は固まる。佐竹の目は細くなる。
「なんだかお肌まで前よりきれいになっちゃって! 安心して、ベリーグーよ!」
いやそこで、もう一回ウインクされてサムズアップされる俺の意味がわかんない。なにが「安心して」なのかもわかんない。なんでもいいけど二十歳過ぎてる男に向かって「可愛い」連呼すんのやめてくんないかなあ、この人。
まあ佐竹がどんどんカッコよくなって、男ぶりをあげてんのは事実だけどさ。
「今回はちょっと長めの休みが取れたのよ~。お邪魔だったら後半はホテルにいくから、最初の二、三日だけ泊めてちょうだい。いい? 祐哉きゅん」
「あ、もちろんッス。ってかここ、そもそも馨子さんのうちだし──」
「断る」
「って佐竹!」
横からすかさず拒否の言葉が発射されて、なぜか俺のほうが焦っちゃう。
そ、そりゃまあ邪魔か邪魔じゃないかって訊かれりゃそりゃ……だけどさ。
一応俺たち、恋人だし。よ、夜のアレコレとか、さっきのチューとか……馨子さんがいるのにできるわけないんだし。せっかくの貴重な休日に佐竹といちゃいちゃできないのって、やっぱなんか……残念! 正直なとこ!
困りきってちらちらと佐竹を見たら、「そら見ろ」と言わんばかりの冷たい目でにらまれた。
(ううっ……。でも、でもさ!)
馨子さんは佐竹の大事なお母さんなんだから。しかも、直接血がつながってて生きてる人はもうこの人だけになってるんだからさ!
普段はアメリカを拠点にしてて、あっちこっち海外を飛び回る国際弁護士さんで、一年のうち顔を合わせるのってほんの十日かそこいらって感じなんだし。「ちょっと泊めてよ」って言われて断るような心臓、俺にはねえよ!
とか思っているうちに、俺の手は馨子さんの両手でしっかりと包まれている。
「ほんとにごめんなさいね、祐哉きゅん! この埋め合わせはきっちりさせていただくから!」
「えっ、そんな。とんでもないッスよ……!」
俺は顔をぶんぶん横にふった。
隣から佐竹の視線がじとーっとぶっ刺さってくるのは感じてたけど、これはもうしょうがないでしょ。
そんな俺たちを意味ありげな目で見渡して、馨子さんはにんまりと笑った。
「七月に入ったら、そろそろ夏休みなんでしょう? 試験は夏休み明けって聞いてるし。バイトやなんかもあるでしょうから、暇な日を教えといてくれる? ふたりとも」
「あ、はい……」
「じゃっ、早速だけどあたし、シャワーいただいちゃうわね~」
あっさりにこっと微笑んで、馨子さんが自分の部屋へ戻っていく。
長身なアラフォー美人の背中を見送って、俺と佐竹は思わず目を見合わせた。