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S予備校伝説事件

作者: 早島砂行

 初夏の気まぐれな天気雨が通り過ぎて、アスファルトの匂い立つ夕暮れの街を、僕は歩いていた。通りは、ビルから掃き出されたサラリーマンや、講義の終わった学生で溢れて、僕はその波の間を漂う木の葉のように弄ばれながら歩いていた。僕は医学部を目指す2浪の予備校生だった。その日は、予備校で5月の連休明けにあった、全国模試の結果が発表となり、成績の思わしくなかった僕は、予めわかっていたこととはいえ、現実に突き付けられた生の偏差値を前にして、足の力が抜ける思いだった。それは目標とする国公立大学医学部の偏差値を、大きく下回るものだった。

 しかし、その日の発表は、以前とは次元の違うショックを僕に与えていた。思えば、偏差値の低いこと自体は、既にそれまでに何度も繰り返された、慣れた出来事の1回でしかなかった。今回、真に僕に衝撃を与えたのは、テストごとに発表される成績優秀者の名簿に、初めて君の名前が載っていたことだった。

 その日は、一緒に帰るはずの君を予備校の門の所で待っていた。そして、玄関に大きく貼り出された成績優秀者の名簿を何気なく見ていると、その上位に、ふいに飛び込んできた君の名前に、僕の目はしばらく釘付けられてしまった。

 15位「佐藤奈津子」…15位というのは、全国的に最も権威あるとされているこの予備校の模試においては、最難関のT大医学部さえも、充分合格可能な成績だった。僕はそれより数千番も下の成績でしかなかった。

 次に、僕の脳裏を、なぜか申しわけなさそうにうつむく君の姿がかすめて、とっさに伝言板に『先に帰る。ヤスヒロ』と走り書きすると、その場を逃げるように走り去った。後はどこをどう歩いて来たのか、気が付くと、お茶の水の駅から神田の書店街へと続く緩やかな坂道を、僕は漂うように歩いていたのだった。

 ふと、足を止め、坂の上から見下ろした風景にせめぎ合う人の波を眺めると、そこには人々のあざ笑うような顔や、蔑んだ顔、そして、それ以上に無感心な頭の数々が、ゆらゆらと遠くかすむまで続いていた。そして、それらを全て受験生に置き換えても足りないくらい、膨大な数の受験生が君と僕の間にいるんだと思うと、僕は気が遠くなる思いだった。…それは途方もない『距離』に思えた。その歩んでも、歩んでも、かえって遠ざかる蜃気楼のような距離の前に、僕は、しばし我を忘れて立ち尽くしていた。 


 翌日、掲示板に、チューターから僕に、呼び出しの紙が貼ってあった。チューターというのは、数年前に予備校に設置された予備校生の相談役の呼び名で、勉学はもちろん、進路や志望校の選択は言うに及ばず、下宿の世話から恋愛問題に至るまで、その他何でも、予備校生の悩み事を相談するのが仕事だと聞いていた。

 ただ、僕自身は、このいかにも予備校らしい商業主義的で、お仕着せがましい悩み相談のサービスが好きになれず、それまでに自分から進んで利用しようと思ったことは一度もなかった。それに、僕を含めて受験生本来の悩みは、誰かに相談してどうにかなる性質のものであろうはずもない。

 名前を貼り出された時も鬱陶しいなと思ったに過ぎなかった。初めの数日は無視していたものの、掲示板の紙が一向に剥がされる気配がなく、せめてそのみすぼらしい紙を剥がしてもらえればと、仕方なく、指定された場所に僕の担当のチューターを訪ねてみた。もちろん、チューターが何か役に立つ助言をしてくれるのではないかという期待も、全くなかったわけではなかった。

 予備校の事務所の一角にチューター面談室というのがあって、そこに通され、担当のチューターが来るのを待った。部屋にはチューター用のテーブルと、豪華な肘掛け椅子が入り口のドアに向かって設置され、学生用と思われる、みすぼらしい丸椅子が部屋の中央に置いてあった。その椅子の関係が、そのまま、チューターと予備校生の力関係を象徴しているかのようだった。僕は部屋の中央の丸椅子に腰掛けた。そして、ヒヤリとしたビニール椅子の感触がお尻に伝わってくると、いやが上にも、自分が、底辺でもがく、一人の受験生でしかないことを、改めて思い知らされるのだった。暗い面談室の中央で、そうしてうつむいていると、ふと、どうして自分はこんな所にいなければならないんだろうという思いが沸き起こって、やおら腰を上げかけたその時、ファイルを脇に抱えたチューターがやって来た。僕はそれが思いもよらず若い女の人だったことに、一瞬、席を立つきっかけを失ってしまった。

 彼女は「私はあなたの担当のチューターの橋爪です。よろしくね」と言うと、チューターの椅子に腰掛け、僕用のものだというファイルをテーブルに広げて、こっちを見た。その目はまるで何か商品を値踏みでもするように、僕の顔から手、足元を移動し、また僕の顔に戻って、最後にファイルに貼ってある顔写真に目を落とした。そのしぐさが、どちらかといえば整った顔立ちを、どこか下品なものに落としめていた。そして、ファイルの履歴の部分を取り出して「林 泰宏。昭和62年、神奈川県立S高校卒業。志望、国公立医学部か…どうしたの?元気ないわね。悩み事でもあるの?私の知っている林君はもう少し元気で明るいはずだぞ〜」と、おどけた調子で話を始めた。それはまるで『こうして受験生の気分をほぐしなさい』と、マニュアルにそっくり書いてありそうな調子だった。

 僕は彼女の、そんな話の切り出し方に、少しは有益な助言をしてもらえるかもしれないという微かな期待も一瞬にして打ち砕かれた思いがして「そんなことないですよ。それに僕はあなたを知りませんけど」と答えて、無理な作り笑いをした。そして、一刻も早くその場を立ち去りたいと思った。自分でも顔が不自然に歪んでいるのがわかったが、どうでもいいと思った。

 「あなたは知らなくても、私たちチューターには担当の学生たちのことは何でもお見通しなの。さて、何から始めましょうか」と言って、彼女は何やら意味ありげな笑みを浮かべた。

 僕はそのもったいぶった歯痒い態度に次第に腹が立ってきて、少しきつめに「では、いったい何の用でしょうか?(こっちは相談したい悩みなんてないのに、わざわざ時間を割いて来ているんだぞ。)」と呼び出された理由を尋ねた。

 すると、彼女もようやく、僕がふだん悩み事を相談に来る他の予備校生と違って、マニュアルどおりにはいかないことに気付いたのか「いやねぇ。何だと思うの?大事な用件があるから呼び出したに決まっているでしょっ。言っておくけど、私の本来の仕事は、受験生が持ってくる悩み事の相談に乗ることじゃなくて、予備校側から受験生に対して、成績や進路に関する問題点を伝えることなの。多くの受験生にとって、それは、受け入れがたい現実だから、それを噛み砕いて飲み込みやすい形にする知恵と技術が必要なわけ。せっかくだから、ついでにちょっとしたカウンセリングもしてあげようと思っていたのに。まあ、いいわ。それなら話は早いわ」と、つっけんどんに言った。そして、前回の全国模擬試験の成績表を取り出して「では、お急ぎのようだから、用件だけを言えば、この前の模試の結果が悪かったことに関して、予備校の側からあなたに忠告があるの」と言った。僕は前の模試についてだと言われて、少しひるんで目を伏せた。それを見て、彼女は強者が弱者を諭す口調になって、さらに話を続けた。

 「この前、成績検討委員会というのがあってね、そこであなたもその対象者の一人だったの。どういう人がその検討会の対象かというと、医学部志望で2浪目で、しかも合格圏外の成績の人ね。その人たちは放っておくと、これから何年も浪人を続けて、真の多浪生になりやすいの。

 気を悪くしないでね。あなたが必ずしもそうなると言ってるわけではないの。ただ一般論として聞いて欲しいんだけど、そういう人の中には成績を度外視して、初めから何がなんでも医者になるんだって決めてかかっている人がいて、それ以外に進路が見えない人がいるのは事実でしょ?さらに3浪になると一般の大学を卒業しても一流企業はもう採用してくれないから、医学部以外の道も断たれる。その挙げ句、何年も浪人する羽目になって、本人も苦しいかもしれないけれど、まわりも巻き込んで苦しくして、医学部受験地獄に落ちていくの」この瞬間だけ彼女は何かを思い出すように目を伏せた。

 「…わかるでしょ?そういう人にはそんなふうに取り返しがつかなくなる前に、誰かが悪者になって、諦めろって、強く言ってあげるべきだったのよ。それも一種の愛情だと思うの。だってそうでしょ?そんなこと言うのは、言う側の私自身すごく辛いもの」そう言いながら、彼女は次第に、自分自身の言葉に陶酔していくのを抑え切れないようだった。

 「要するに、僕にもう医学部を受験するなと言っているんですね?」と僕が言葉を挟むと、彼女は少し間を置いてから続けた。

 「まあ、結論から言えば、そういうことかもしれないわ。

 ただ、受けたい者を無理に止める拘束力はないから、予備校サイドとして言えることは、正確には、あなたが、もし来年、さらに浪人する事態になっても、もうこの予備校には入学できませんよということだけ。それ以上でも、それ以下でもないわ。

 でも、あなたの言うように、これは医学部を目指す予備校生にとっては最後通牒になるのかもしれない。なぜなら、うちの予備校を経ずに医学部に合格する可能性は、限りなくゼロに等しいのだから。

 どうしてこんなことになったかというと、これには近年の、予備校を取り巻く様々な厳しい状況が関係しているの。どこの予備校も生き残りを賭けて必死なわけね。合格者数、合格率の悪い予備校は淘汰されていく運命にある。

 詳しいことは省くけど、この予備校としては予備校ずれした多浪生より、荒削りの1浪を採るほうが投資効果が高いと判断したの。そして、この方式が来年度から施行される予定なの」

 「それなら黙って不合格にすれば済むことじゃないですか」

 「そうね。それ以前にこんな所に呼ぶ必要もないわ。だから、ここからあなたに、もう少し深く考えてもらいたいことなんだけど、あなたの成績は決して本当の意味で悪いわけではないわ。国公立の医学部を除けば、今年だって結構な所に合格できたの。

 見方を変えれば、あなたの悩みは贅沢よ。いいえ、贅沢を通り越して不遜ですらあるわ。どうして不遜かは後で説明するとして、ここにあなたの成績で、来年に限ってなら、推薦で入れてくれる大学のパンフレットがあるの」そう言うと、彼女は用意してあったパンフレットの束を差し出した。

 「これをあなたにあげるわ。有名大学の薬学部で、お勧めの所があるわ。そこなら予備校としても実績になるし、あなたも来年こそ、晴れて大学生の仲間入り。

 あなたには、遠回しな言い方は、かえって反発を招くみたいだから、本音をずばり言えば、予備校は、そこそこの実績と引き替えに、あなたを大学生にしてあげるっていうことよ。

 まあ、結論は急がずに、少し医学部以外の進路を考えてみるのもいいじゃない」と彼女は言った。

 僕はテーブルの上に積まれた大学のパンフレットをしばらく呆然と見つめていたが、やがて自分自身に言い聞かせるつもりで「でも、僕はどうしても医学部に行きたいんです」と、低い声でつぶやいた。

 「では、あなたに尋ねるわ。薬学部を出て薬剤師になるのではどうしてだめなの?」僕はその問いに対して答えることができなかった。それを見て、彼女はたたみかけるように続けた。

 「答えなんか聞かなくてもわかっているわ。あなたを含め、どうしても医学部を受けたいと言う人にその理由を聞いてみると、大概が病気で苦しんでいる人の役に立ちたいとか何とか立派なお答えが返ってくるけど、では看護士とか薬剤師、レントゲン技師ではどうなの?と聞くと、明確な答えが返ってきた試しはないもの。

 私が不遜と言った意味は、そういう人は薬剤師や看護士というお仕事を見下しているのよ。そんな人は医療の現場で実際に人の役に立ちたいなんて、本気で思っていないの。あるのは、お医者様の肩書きで偉そうにしたいだけ。他の職業を見下して、俺は医者だ、頭が良いんだって、威張りたいだけじゃないの。

 それでも医者になれれば、まだ、ましな方よ。現実はそんなつまらない見栄のために、青春を無駄に過ごし、挙げ句の果てに何の役にも立たない、夢破れた、ぼろぼろの社会的廃人になるだけじゃない!」

 僕は返す言葉がなくてうつむいていると「あら、ごめんなさい。つい興奮しちゃって。あなたを責めているのではないの。身近にそういう人がいたから、つい、きつく言ってしまって。私もチューターとして、まだ未熟ね。じゃあ、この問題は宿題としておこうかな」そう言うなり、彼女はそのパンフレットの束を僕の鞄に突っ込んで、部屋を出て行った。

 僕は残された部屋でしばらく考えることにした。(どうして、こうまでして僕は医学部にこだわっているんだろう?)いくら考えても、沸き起こる、その思いの源は見つかりそうもなかった。代わりに、佐藤奈津子、君の顔が思い浮かんだ。


 君と僕は神奈川県内の公立の進学校、S高校出身だった。高校時代のクラブは、君は硬式テニスで、僕はラグビー部に所属していた。クラスも違っていたけれども、たまたま家が同じ方角だったことで、クラブが終わった後、よく一緒の電車になったりした。

 初めのうちは話をしたこともなかったけれど、狭い車内で、いつしかお互いを意識するようになって、君がいないと、僕は電車を1本遅らせてみたり、僕が違う車両に乗っていると、次の駅で、君は隣のドアにそっと乗り移って来たりした。君は南側のドアの所に立って、窓から外を眺めているのが好きだったね。そんな君を、僕は北側のドアにもたれて、沈んでいく夕陽が、君の髪の輪郭を金色に染めるのを、そっと遠目に眺めているのが好きだった。

 その頃、ラグビー部の仲間うちでは、君を含めた女子の何人かに、ニックネームを付けて呼ぶのが流行っていて、君は知らないと思うけど、僕らは君を『ひまわり』って呼んでいたんだよ。そして、僕は電車の窓から空を見つめて、しばらく目をつぶれば、僕はいつでも、太陽の光が降り注ぐ南風の草原で、揺れる大きなひまわりたちの中央に、微笑む君を思い浮かべることができた。

 そして、忘れもしないあの日、電車の窓に映っている君の瞳が、僕を見つめて微笑んでいることに気付いたあの時から、僕たちは恋人になった。僕は、あの瞬間を思うと、今も胸の鼓動が抑えられない。僕は仲間からずいぶん冷やかされもしたけれど、やがて僕たちは認められ、そして、祝福されたカップルになったはずだった。

 思えば、切ないくらいに短かかった学園祭や修学旅行…僕が行くところ、いつも傍らには君がいて、そして、それが紛うことなく自然だった、あの日々。しかし、時間よ止まれと祈った、夢のような月日は過ぎ去って、時の風は、残酷なまでに確実に、僕たちの青春のページをめくったのだ。

 それは突然、何の前触れもなく、しかし、当然のごとき顔をした使者の来訪のようだった。高校2年から3年になろうとする冬の日のことだった。

 その日は学校に行くと、全員の机の上に真っ白な紙が配られていた。僕は言いようもない胸騒ぎに見舞われた。何だろう?と、みんなで不思議に思っていると、ふだんより早めに来た先生が、神妙な顔をして、その紙にそれぞれの将来を書いて、翌日、提出するようにと、おっしゃったのだ。

 憶えている。これが今に続く、全ての胸騒ぎの始まりだった。

 その思いは君も同じだったようで、その日、帰り道、君と僕はまっすぐに家には帰らず、どちらからともなく、鎌倉に寄り道しようということになった。

 材木座海岸の静かな夕暮れ。波だけがざわめいていた。砂浜に腰を降ろして、二人で進路希望の紙を広げて、まだ何も記されていない真っ白な紙を穴の開くほど見つめて、僕たちは、しばらく無言だった。そこには子供の頃のたわいもない夢ではなく、現実としての将来を決定する、最初の一歩を記さなければならなかった。

 忘れもしない、その時、君はぽつりと「私、お医者さんになりたいの」と言ったのだ。その瞬間、目の前で、まるで全ての暗号が揃って扉が開いたような瞬間が訪れ、僕は何かに突き動かされるように「僕も、医者になりたい」という言葉を口にしていた。

 君は驚いたように僕の方を向き、僕もその気配に呼応するように頭を上げて、君の瞳を見つめた。

 「もう一度言って」そう言う君の視線に、僕は、僕の心の一つの揺らぎをも見落とすまいとする強い意志を感じた。僕は、その重さに負けないように、今度は意志の全てを凝集するように「僕も、医者になりたい」と繰り返した。

 すると君の瞳の奥で何かが炸裂して…それは意識の核爆発とでも例えようか、その炎が輪を描いて静かに広がったかと思うと、次の瞬間、君は黒い塊となって僕の胸に飛び込んできた。そして、込み上げる感情を抑さえ切れないまま、一気に、こう言った。 

 「私は幼い頃からずっとお医者さんになる夢を持っていた。でも、いつか、その夢を、こうして好きになった人に打ち明けることができなければ、それは叶えられないと思っていたの。なぜか不思議だけれど、そんな気がしていたの。きっと、大切な人に言葉にして言える勇気がなければ、その夢は実現できないのかもしれない。だから、私、さっきまでの沈黙が、とても怖かった。

 でも、こうして打ち明けることができて、しかも、その人が同じ夢を持っていたなんて、こんな偶然があるなんて、私は嬉しくて、嬉しくて、どうしていいかわからない」そして、僕たちは夢中で、何度も、何度も唇を重ねた。

 思えば君は記念すべきこの日のことを、後々まで気にしていたね。僕たちが一番苦しかった1浪の冬、君の口を突いて出る言葉はいつも「ごめんね…」だった。そして、その言葉の意味を補足するならば、この時、君に『誓った』から、僕が、この果てしない底なし沼のような医学部受験の世界に、足を踏み入れたのではないかということ。

 「…本当に私が言ったからではないの?」

 僕は断言する。決して、そんなことはなかった。

 確かに、その瞬間に、初めて明確に医者になりたいと意識したのかもしれない。でも、それはずっと以前から僕自身が、待ち望んでいたことなのだ。意識化は単に最後の瞬間でしかなく、意識下のピラミッドは最後の1ピースを残して、既に誰も崩せない大きさで完成していたのだ。

 だからこそ、あの浜辺で、僕は完成したそのピラミッドのことよりも、むしろ最初に積み始めた石のことに思いを馳せていた。そして、それが正解なのかどうか、今でもわからないけれど、僕には遠い記憶の彼方に、ある花火の夜のことが思い浮かんだのだった。

 それは、ちょうどその海岸で行なわれた花火大会の帰りだった。幼い少年の僕は満員電車の中で家族とはぐれてしまった。そして、電車のドアと座席の端が作る小さな空間に押し込められた僕は、独りぼっちになった不安と、見たこともないラッシュの凄まじさに怯えていた。

 しかし、しばらくして、痛くも苦しくもないのが不思議で、ふと見上げると、ある太い腕が僕を守ってくれていることに気が付いたのだった。電車が揺れて人々の塊が僕を押し潰そうとする度に、その太い腕に渾身の力が込もり、僕の小さな空間を支えてくれていた。

 やがて電車が僕の下りる駅に着いて、ドアが開いて、僕は人垣の隙間からホームへ飛び降りて、その腕の人にお礼をしようと振り返ると、もう、そこには、それらしい太い腕は、跡形もなく消えてしまっていた。

 それでも僕が「ありがとうございました」と、お礼を言うと、何か大きくて暖かなものが、そっと微笑んでくれたような気がしたのだった。まるで夢でも見ているような不思議な気持ちだった。

 その時、僕は初めて人の役に立つ人間になろうと思った。人がそうして与えてくれたものを、いつか僕も与えることのできる人になろうと思った。

 それは子供にありがちな、安っぽい正義への、たわいもない憧れでしかないのかもしれないけれど、その時に植え付けられた、太い腕のイメージは、僕の心の中で成長を続け、やがてどのような身体を持てばいいのかを模索し、悶々とするまでになっていた。

 そして僕は君と出会い、君が医者になりたいと言ったその瞬間、それは、あたかも全ての遺伝子が発現して形となるように、医師という姿で実体化したのだ。僕は今でもそう考えている。

 だがしかし、困難な入試を突破しなければならないという、現実的な問題に立ち返ってみると、僕には確固たる自信があったわけではなく、その準備もしていなかった。

 冬の海は冷たい波がすぐ足元に打ち寄せ、あたりはいつしか夜になっていた。そして、その闇の中で、僕は不意に言いようもない不安に襲われた。それは、まるで僕たちが、黒い河を漂流し始めたような不安だった。隣で息突く君のぬくもりが、かつてないほど近く感じられれば感じられるほど、その不安は大きくなり、やがて全てを被い尽くす闇のようにのしかかってきた。僕は支えきれないその不安を打ち消すように、南の空に架かったオリオン座のかすかな光に目を凝らし、僕たちの夢が叶えられるようにと願ったのだった。それはほとんど祈りに近かったことは本当だけれど。



 しかしながら、現役の時の受験は、無知と茶番のお遊びだった。僕はその不遜を今、受験の神様に懺悔したい。僕は大学に受かるかどうかなんてことは二の次で、むしろ予備校の入試の合否だけが気掛かりで、首尾良くそこの医学部受験コースに潜り込めると、それだけで悦に入っていた。後はどうせ落ちるのなら記念にと、誰が落ちても恥ずかしくないT大の医学部を受けて、不合格の通知すら待っていなかった。

 今思えば、僕が2浪した原因の一つが、この現役での不遜な受験にあったに違いない。運命は、真摯にそれを掴み取ろうとする者にだけ微笑むものらしい。僕はせめて経験を翌年に生かせるような、自分のレベルに合った医学部を受験し、現実的な不合格を喰らって、その悔しさを実感するべきだった。僕はそのまたとない機会を、いとも簡単に棒に振ってしまったのだ。

 さすがの君も、現役ではT大の医学部に合格することはできなかった。そして君は高校の成績が特Aで、推薦で既にその予備校の席が確保されていて、僕たちは二人で同じ予備校に通うことになった。それは、ほぼ、僕の希望したとおりの現実だった。

 どこかで、ほんの少しだけ、君が一人だけT大医学部に合格してしまうのではという不安が頭をかすめたが、そんな不安も笑って一蹴できるくらい、T大医学部の難易度は絶対的だった。

 それにしても、これは今でも説明が付かないことなのだけど、君はどうしてそんな最難関のT大医学部を受けたのだろう。他のもう少し簡単な医学部だったら、君は現役で合格していたのではないだろうか。そう思うと背筋が凍る思いがするけど、いずれにしても現実でないことをあれこれ想像して不安がるのは無駄なので、僕はそれ以上深く考えないことにした。何しろ予備校のクラスが一緒でさえあれば、現実は完璧に僕の希望どおりだったのだから。

 現役の受験そのものは不遜であったものの、僕は浪人生活はそれなりに気持ちを入れ替えて開始したつもりだった。初めは、少し苦しい程度に努力していれば、そのうちに実力が付いて、夏くらいまでには通常の医学部の合格圏内に入れるだろうという、甘い見通しの図式を思い描いていた。高校時代を、ほとんどラグビーで過ごした僕は、勉強らしい勉強をしなくとも、学内テストではそれなりの成績を収めていたので、勉強だけしかしてこなかった青白い連中に追い付くことなど、それほど困難なことには思えなかったのだ。

 しかし、そんな自分勝手な希望的図式どおりに、ことが運んでくれるはずはなかった。現実は、秋の声を聞いても合格ラインは遥か上で、一向に手が届く気配すらなかったのだ。

 僕は次第に焦りを覚え始めていた。こんなはずじゃなかったと、自分にとっては嘘であって欲しいような惨憺たる模試の結果を、何度も飲み込まねばならなかった。

 そして、秋の最後の模試が失敗に終わった時、ついに僕の中で何かが切れてしまった。 それからの受験勉強の記憶は、まるで霧の中の風景のようにはっきりしなくなっていった。僕はまるで近所の自動車教習所にでも行くような感覚で、予備校に通っていたような気がする。そこは本当は鋭利なカミソリが突き立ち、それが足の裏に刺さるような厳しい世界であったに違いないのだけど、僕は流れる血を振り向いて見る勇気がなかった。代わりに僕は現実逃避という麻酔によって、痛みから逃れる術をおぼえた。

 今思えば、僕は現実の近未来というものに目を向けることができなかったのである。その先に待っているもの…それは、君を失うという確実な未来だった。なぜなら、よしんば翌年、大学に合格できたとして、ほとんどの場合は、君と違う大学で、別々の生活を送るということであったからである。

 そして、僕たちは二人の間では成績や勉強の話を一切しなくなった。それは今から思えば、僕は君を取り巻いているであろう、成績が優秀な男子学生たちのことや、僕たちの間の残酷なまでの学力の差という現実に触れることを、無意識に避けていたのだ。また君は僕を気遣って遠慮してくれたのだと思う。僕は君が医学部受験コースの上のクラスにいるらしいことはわかっていたが、驚いたことに、それ以上のことは、例えば、クラスは、席はどこにあるかすら知らなかった。

 そして、意地悪な現実は、1浪の間は、さすがの君をも、成績優秀者の名簿に載せることをしなかった。 そうすることで、僕の虚無の繭作りに、側面から協力し続けたのだ。

 そして、僕はいつの間にか、君の偶像を空想の繭の中に封じ込め、通せんぼし続けた。その繭の中で、美しく卑猥な君を作り上げ、嘘の毒を飲ませて育んだ。

「君は医学部には受からない運命だ。それに医学部なんて行ったって、ろくなもんじゃない。僕とこのまま一緒に居よう…」

 しかし、注意深く避けてきたはずの現実は、意外な所から僕の繭に穴を穿った。ある寒い朝だった。何気なく僕たちが投函しようと、鞄から出した封筒の色が違うのに気付いた、あの時、初めは小さな針の穴だったものが、みるみる大きく広がって、現実の外気が僕の心を凍らしたのだ。

 僕たちは、同じ日に、同じポストに、別々の医学部に願書を出したのだった。

 ポストの前で、お互いの健闘を祈ったけれど、なぜか言葉が空振りしていた。考えてみれば、それは、さよならということと同じだったのだ。僕たちはお互い、一所懸命、頑張ろうって言いながら、それは、さよならという言葉を心の裏側に刻み込むことだった。

 差し込む光に、融けていく幻想の繭の残骸を見ながら思った…僕たちはこれで終わりになると。僕はさらに最悪のことを想像していた…君が受かって僕が落ちる、そして別れると。この最悪の結末に傾斜していく運命の予感に、それもいいかもしれないと、もう一人の僕がうそぶいた。

 

  唯一、僕が1浪を経て成長したことは、この繭につつまれた虚無的な世界から、血を流せば痛む、現実の空間へ飛び出せたことである。現実は、こちらが立ち止まっていようといまいと、そんなことにはお構いなく、確実に、冷酷に物事を押し進めていってしまうのである。僕はとりあえず、歩み始めねばならないことを自覚したのだ。 

 1浪の時の受験は、その意味では成功だった。僕は君との数少ない志望校に関する会話の中で、昔、一度だけ君が口にした憶えのある隣県のH医科大学を受験したものの、何十倍もの競争率を勝ち抜かなければならない医学部入試の本当の困難さを、いやというほど思い知らされる結果となったのだった。合否発表など聞かなくとも結果はわかっていた。

 鳩が舞う、聳え建つ大学病院の偉容を後にして、帰りの電車では、試験会場の出口で配っていた予備校のパンフレットを見ていた。そのいかがわしいパンフレットには合格体験記が載っていたが、その黒縁眼鏡のやけに勝ち誇った合格者の顔写真と、慇懃無礼な文章が鼻に付いて、とても最後まで読むことができなかった。

 車窓からの田園の風景は、ゆっくりと翳りを帯び、やがて日も差し込まない漆黒の闇に沈んでいった。そして、僕自身が沼に投げ捨てられた小石のように、多浪という何の取柄もない存在に落ちていくのを感じていた。

 灰色の夢を見た。それは場末の劇場で売れない役者が、まばらな観客席に向かって、よくあるオーバーな声色で、悲壮な芝居を演じている劇で始まった。いつ果てるとも知れない人生の闇に向かって、その才能のない役者は叫び続けていた。彼の熱演は空回りし、パラパラという気のぬけた拍手のうちに幕が下り、疲れ果てた彼は舞台裏に降りた。そこには、彼の全財産のつまった、古ぼけたスーツケースが一つだけ横たわっていて、その中には故郷の母親の励ましの手紙や、音信の途切れたままの恋人が、かつて贈ってくれた詩集が入れてあった。そして何やら古い新聞の切り抜きのような紙が1枚大事にたたんであって、彼はそれを広げて読み始めた。

 それは若き日の彼の舞台を讃め称えた記事だった。その記事で称賛された役者は将来必ず成功するという言伝えがあった。しかし、今の彼はそのいい加減な記事が、彼の人生を狂わしてしまったことに、薄々気付いていた。読んでいる途中で、不意にその紙を破ろうとしたが、どうしても破ることができずに、諦めて最後まで読むと、元どおりに折りたたんでしまうのだった。それはもう何度も繰り返された行為だった。

 彼は疲れていた。しかし、もはや止ることすらできない所まで来ていた。錆びてキィキィ啼く自転車、止ると倒れてしまう自転車を、いつまでもこぎ続けていかねばならなかった。

 芝居はいつしか医学部受験に舞台を移し、売れない役者は受験生を演じていた。何年も何年も医学部を落ち続けている男の舞台では、頭上に吊り下げられた監督席から、視線は常にその後姿を追い回すようにして、その男の失敗を叱りつける役回りだった。

 しかし、この芝居だけはなぜか好評で、彼が、考えられないような滑稽な失敗をするたびに、観客たちは口を開けて大笑いするのだった。視線の位置にいる僕も窮屈な監督椅子から身を乗り出して「やれば、できるじゃないか」と言いながら、すっかり一人前の演出家気取りでいた。

 やがて、みすぼらしい男の後ろ姿や、皺くちゃな手に抱えられた使いふるしのデル単に、どこか見覚えがあるような胸騒ぎが生じ、ふと、その役者が誰なのか気になったかと思うと、突然、振り向いた彼と目が合った。それは老人の姿をした紛れもない僕だった。その瞬間、僕は汗びっしょりになりながら飛び起きた。

 気が付いてみると、そこは電車の中の窮屈なボックスシートだった。電車はまばらな乗客を乗せて、何事もなく夜の都会を走っていた。コトーン、コトーンという、車輪がレールの継ぎ目を通過する音だけがメトロノームのように響いていた。しかし、その静かで平和な夜の片隅で、僕はたった一人で震えていたのである。  


 それにしても運命とはわからない。君は1浪の時も、T大学医学部を受けて、不合格だった。その意外な知らせを聞いた時、僕は正直に告白すればほっとした。それで終わりにはならなかった。少なくとも後1年は、君と一緒に予備校に通うことができる。露骨にそう思ったことを、僕は今でも恥じている。

 しかし、そんな僕にしても、その喜びが、病気に例えて言うならば、薬で痛みを止めただけの一時的な退院の喜びでしかないことを充分にわかっていたつもりだった。そして、そのままでは幻想の繭作りに戻ってしまうことも。それだけはどうしても避けたかった。僕は苦しくとも、まったく新しい道を切り拓かなければならないと思った。そして、そのために出した結論は、まず君と恋人同士と呼ばれる関係を、一度、解消しなければならないということだった。失うことを恐れて、現実逃避していたのなら、いっそのこと自ら手放して、それを再び掴み取る方にかけてみようと思ったのだ。

 君はその提案に、曖昧にだが頷いた。

 …僕は何か大きな間違いを犯したのだろうか。しかし、その時は、そうは思わなかった。飼っていた篭の鳥を放して自由にしてあげるのに似た感覚とでもいうのだろうか。

 僕は、空の彼方へ飛び去って行く君の後ろ姿を見つめて思った。手に掴んでいるものは近過ぎて見えない。手を放して捕まえようとすればもっと良く見えるはずだと。僕はいつかまた君を捕まえてみせる。そう誓ったはずだった。

 いずれにせよ、僕たちは別々に再出発した。それは、僕たちの本当の喜びに満ちた未来に向けての再出発のはずだった。

 春はいつも光に満ちている。しかし、それにしても、やけにしらっとした門出だった。僕は、やがて襲い来る激痛の嵐の不安を胸に、病院の玄関口に降り注ぐ、やけに眩しい光の中を歩き始めた気がした。


 予備校は、こと成績というものに関しては、容赦のない冷酷な世界である。1万人の予備校生は大きく文系と理系の5千人ずつに分けられ、さらに理系は医学部受験コースと理工学部受験コースに2分され、それぞれA〜Eの5クラスに細分されていた。そして文系と理系でそれぞれに、通し番号で、1番から5千番まで成績順にその席があてがわれ、学期ごとにその順番が入れ替わった。

 剥き出しのままの競争原理がそこにはあった。卵から孵ったばかりの稚魚の群れのように、同じ流れに乗って、同じ方向を向いて一斉に泳ぐ受験生。核爆弾の放たれた後の、静かで殺伐とした空間を、ほんの少しだけ速く泳ぐこつを掴んだ者、あるいは流れの抵抗が僅かに少ない位置に偶然いた者だけが生き残れる世界。その他の大多数は、何者の記憶にも留まることなく知らない間に消えてしまう不毛の世界。我々には対峙する好敵手どころか、襲いかかってくる天敵すら存在しないのだ。

 予備校では、左右隣り合った者同士は、同点か1点差であった。僕の右隣は武見哲也という九州出身の5浪の人だった。年上ということで、一応、みんなは「哲也さん」と、さん付けで呼んでいた。

 彼は、いかにも多浪という感じで、不精髭で、くすんだジャケットを着ており、いつも律儀に参考書の1ページ目から定規で線を引いて読んでいた。彼は予備校の寮に住んでいて、春の初めはいつも成績優秀だった。しかし、夏にもなれば1浪が追い付いて、秋には追い越されてしまうことを、もう何年も繰り返してきたのだった。それは現役や1浪が時間不足で、春先は、ともすれば手薄になりがちな、理科社会の重箱の隅のような問題を、彼はそれなりに得点できるからに他ならないことは明瞭だったが、彼にはその理由がわからないらしかった。

 彼はよく、授業の合間の休み時間になると、まわりの数人の予備校生を捕まえて、自分が、いかに医者に向いているかということを力説していた。彼は幼い時に重い病気だか怪我だかをして云々という、彼の個人的体験に基づいた、いかにも、お涙ちょうだいの秘話から始めて、医者という職業が、いかに神聖で、滅私奉公で、患者のために尽くさねばならないかということを、繰り返し繰り返し説いて回った。そして、自分がそのために、どれだけのものを犠牲にしてきたかを、とくとくと並べ立てるのだった。

 彼は、その垂れ流しのヒューマニズムの講釈の合間に、他の者にも時々意見を言わせたが、冗談でも金のために医者になりたいなどと言おうものなら、その後は休み時間ごとに、彼独特のしつこい総括を受ける羽目になった。

 ある時、親が医者で成績が良いから、何となく医者になりたいと言った奴がいたが「お前みたいな奴がいるから、医者の適性があっても、なかなか医者になれない人(もちろん彼自身がその代表)が出る。今からでも志望を変更しろ」と脅されて、そいつは本当に理工学部受験コースに移っていってしまった。

 追求の手はもちろん僕にも及び、僕がとっさに思い浮かんだ「恋人のために医者になりたい」という理由を冗談めかして口にすると、彼はそんな理由に対する説教のレパートリーを持ち合わせていなかったのか、それとも呆れたのか、「君は大甘だな…」と言ったきり、しばらく絶句してしまった。その様子を見ていたまわりの予備校生たちの中には、なかなかうまいあしらい方を思いついたなとでも言いたげに、にやにやする者もいた。しかし、最後に、哲也さんが「…それに、そんなことをされて、もし失敗に終わったら、君の恋人にとっては、いい迷惑だろうな」と言った言葉が、なぜか、いつまでも僕の心の中に引っかかっていた。

 しかし、また、別のある時、それまで全くこの雑談に加わったことのなかった、ある予備校生に向かって、哲也さんがしつこく意見を求めたところ、初めは無視していた彼が突然「うるせえ、多浪。あんたを見ていると目障りなんだよ。客観的に見て受かりっこない医学部を受け続けて、老醜を晒している。えせヒューマニズムを振りかざして、まわりの全うな忠告者を糾弾する。本当はみんな哀れで仕方がないのさ。俺たちくらいの、ボーダーラインすれすれの者は誰だって、ほんの僅かの可能性にかけて一所懸命なのさ。1浪で偏差値70の奴だって、受かるかどうか不安でしようがないと言うぜ。それほど難しいんだよ、医学部という所は。だのに、あんたの乗っている舟は、どう見たって泥舟じゃないか。夢だか何だか知らないが、そんなものはとっとと醒めちまいな」そう言うや否や、激しい取っ組み合いのけんかになったのだった。

 止めに入ったまわりの僕らも、どうにもならないくらい激しく掴み合って、やがてその予備校生に組み伏せられて、床に仰向けになった哲也さんは、息も絶え絶えに「わかったよ。わかった。どけよ。そうまで言われたらしようがない。俺の舟が泥舟でない証拠を見せてやる」と言うと、立ち上がって、胸の内ポケットから、丁寧に折りたたんだ紙を出して、広げて、僕らの前にかざした。

 それは何年か前の、全国模試の成績優秀者名簿の縮刷版だった。それは僕らのクラスからは、ほとんど名前を載せることのできない紙だった。そこに1箇所、赤い線が引いてあって、見るとそれは彼の名前だった。

 彼が言うには「この成績優秀者の名簿に一度でも名前が載った者は、過去に全員がT大か国公立大学医学部に合格している。これは統計学的には説明がつかないが、まぎれもない事実なのだ。だから僕はいつか必ず医学部に合格できる」とのことだった。

 そう言う彼の語り口は、何かにとりつかれたように微熱を帯び、確信に満ちていた。そして、最後にその予備校生に向かって、勝ち誇ったように「君も医学部に受かりたかったら、一度は何としてでも、ここに名前を載せなければだめだな」と言い放った。

 その言葉の前に、というより、その紙の前に、その予備校生は反論する言葉を失って、うつむいて黙ってしまった。

 誰もが武見さんの勝ちを認めていた。まわりのみんなは、どこかでその予備校生のように思っていた者も含めて、その瞬間は羨望の眼差しで武見さんを見ていた。そして医学部を目指す限り、無理とわかっていても、そこに名前を載せるくらいでなくてはだめなんだと、その場にいた誰もが思ったのだった。

 しかし僕はさらに別のことも考えていた。…それは君のことだった。もし成績優秀者に僕の名前が載れば、そうすれば君の気持ちが、どれほど軽くなるだろうということだった。決して僕が、君に巻き込まれる形で、医学部という風車に挑まざるを得なくなった、ドンキホーテではないことが証明されるのではないかと思ったのだ。そしてその時になって初めて、君と同じ立場で、何のわだかまりもなく、医学部という夢を語れるのではないかという気がした。あえて言うならば、その紙に名前が載れば、医学部に受からなくてもいいとさえ思えた。

 いずれにせよ、その場にいた誰よりも、僕ほど強く成績優秀者の紙に名前を載せたいと思った者はいなかったに違いない。しかし、その思いとは裏腹に、気持ちが焦れば焦るほど、勉強は空回りして、成績は低迷を続けるばかりだった。


 神田の書店街の、ある大きな書店は、古いモルタル造りのワンフロアーの建物で、天井が高く、目を上げると、店内は、隅の方までかすんで、薄暗い蛍光燈の群れを見渡せた。一方、目を下ろすと、そこは、入り組んで配置された本棚のドミノのために、まるで複雑な迷路に入り込んだような錯覚をもたらした。

 僕は予備校の授業が終わると、よく、その書店に立ち寄った。僕は、その古めかしい建物の中に、一歩、足を踏み入れる時の、まるで時代を遡って過去の世界に足を踏み入れるような気分にさせられる、一瞬が気に入っていた。そして、僕は時間の流れが止まった博物館のような店内を、およそ一回りして、いつも最後に医学書のコーナーへ立ち寄った。

 僕は自分が本当に医学の道に進みたいのか、迷いが生じた時、そこに来ていたような気がする。両側に天井いっぱいまで積み上げられた医学書の壁面から、解剖学の教科書などの適当な1冊を手に取って、パラパラとめくったりした。そこには、未だ見ぬ知識の宝庫が、山のように、眠って僕を待っているような気がした。そうしているうちに、心の片隅に静かに憧憬が生じ、やがて、それが心全体に満たされると、それまでの不安が嘘のように消えて、それから帰って、勉強に打ち込む気力が生じたのだった。

 テストの成績が思わしくなかったその日も、やはり、そこに来てしまっていた。

 しかし、医者でも、医学生でもない者が、医学書を物色することは、どこか不思議に抵抗感があるものだ。そうでなくとも前に一度、女医の卵だという人に、医学生と間違われて質問され、いやな思いをしたことがあったのだ。僕が生物学の知識でその質問に何とか答えると、彼女は「あなたはどこの医大に通っているの?マンションはどこ?」みたいなことを聞いてきて、僕が予備校生だと答えると、急に蔑むような眼差しになって「こんな所で、うろうろしないで!」と、捨てゼリフを浴びせたのだった。

 それ以来、なるべく人に話しかけられないように、一番奥の迷路の突き当たりで、自分だけの世界に浸れるようにしていた。その日も、いつもどおり定位置について、適当な本に手を伸ばしかけたところ、ふと、すぐ横に先客がいることに気が付いた。それは黒っぽい服を着た、小柄な少年のようだった。

 (少年?)ひどく場違いな気がして、もう一度よく見てみると、それは確かに中学生くらいの少年だった。彼は全くこちらには気が付かない様子で、何やら真剣に、手にした本に見入っていた。僕は別に気にすることはなさそうだと、自分の手元に意識を戻しかけた瞬間、彼はボロボロと涙をこぼして泣き出した。

 それは唐突で、まるで塔が崩れていくみたいな泣き方だった。嗚咽がまわりに響き渡った。そして、雑踏の意識が、にわかに、このコーナーの奥に集中した。僕はまわりの目が気になり、その場を立ち去りたくなったものの、そうもいかず、ようやく「どうしたんだい?」と、声をかけてあげるのが精一杯だった。

 彼はその時に、やっと僕の存在に気付いたようで「お父さんが…」と、一言、言って、それ以上なかなか言葉が出なかった。やがて意を決したように、読んでいた本を、震える両手で広げたまま僕に向かって差し出した。 それは脳神経外科の教科書で、何か脳腫瘍について書いてあるページのようだった。

 手に取ってその項目を見てみると、多形性髄芽細胞腫medulloblastoma multiformeとあった。そして書き出しには『我々脳神経外科医にとって、これほど無力を味わう疾患は他にない。手術して完全に取り切れたと思っても、必ず再発し、やがて死の転機をたどる。放射線の全脳脊髄照射によって、若干の延命効果がある…。』とあった。僕には、これ以上読まなくても、全てが飲み込めたような気がした。

 もう一度少年の方を見ると、彼は不安げな眼差しで僕を見上げて、恐る恐る「先生ですか?」と尋ねた。「先生なら僕のお父さんを助けてください…」

 僕は急に医者と思われて、戸惑いながら「違うよ。まだお医者さんの学校にも入れない、予備校生っていうんだ」と答えていた。

 「君の力になれなくてごめん…」僕は、そう言いながら、その少年に何かしてあげたいと、強く思った。遠い記憶の彼方に、あの花火の夜、満員電車の片隅で、僕をを守ってくれた太い腕の巨大な幻影が、心の空にのしかかってきた。だがしかし、何もできない空っぽの自分が、そこに立っているだけだった。

 本をたたんで少年に返す際に、彼は不思議そうな眼差しでもう一度僕を見て、やがて医者でないことを納得したのか「すみませんでした」と言って、ぺこりと頭を下げた。そして本を元の場所に戻すと、まっすぐに出口の方へと、その場を立ち去って行った。 物珍しそうに、その少年の涙を窺っていた雑踏は、すぐにまた元の無関心に戻ってざわめき始めた。僕は何だか急にその少年と、もう少し話がしたくなって、彼を追いかけるようにして書店を後にした。

 夕闇の雑踏の中でその少年に追い付いた。並んで歩きながら話しかけると、少年は少し驚いたような顔をして「先ほどはどうもすみませんでした」と小さな声で言った。

 「謝る必要なんかないさ。少し一緒に歩いていいかな。良ければさっきの話の続きを聞かせて欲しいんだ。君のお父さんは重い病気なのかな?」と僕は言った。

 「はい」とその少年は答えた。「あの本に載っていたmedulloblastoma multiformeっていう脳腫瘍らしいんです。放射線治療というのをやって、元気になって、昨日退院したんです。でも…」

 少年の話では父親の入院していた大学病院では、ベッドの柵に貼ってあるプレートに、患者の名前と一緒に病名も原語で書いてあり、それを知ったとのことだった。さらに少年は、主治医と母親が何か深刻な顔で話し込んでいたこと、「お父さんは大丈夫よ」と言った母親の手が小刻みに震えていたことなどを、とつとつと話した。そして、彼の父親は、近くでラーメンの屋台を引いており、退院するや否や、まだ完全に癒えていない体に鞭打って、仕事を始めたとのことであった。

 少年は屋台を手伝いに行く途中で、父親の病名が気になって、先ほどの書店に寄ったのだった。

 「何か、僕が力になれることはないかな?」と言おうとして、その言葉のあまりの空虚さに気付いて、それを飲み込んで「付いて来て余計なお世話だったね。つらい話をさせてごめんね」と言うと、少年は「いえ、僕の方こそ、こんな話を聞いてくれてありがとうございました。とても気持が楽になりました」と言ってくれた。

 それから僕は自分の名前や、医学部を目指す予備校生であること、医学書を時々覗いては、医学に対する憧れの情をかき立てていることなどを話した。少年は医学部を受けるという僕の話を、もう少し聞きたそうな様子だった。ほどなく、その少年のお父さんが引いているという、ラーメンの屋台の所に着いたので、成り行きにまかせて僕は食べていくことにした。

 屋台ののれんを分けて椅子に腰掛けると、他に客は誰もいない様子で、気さくな感じの主人が「いらっしゃい」と迎えてくれた。ラーメンを注文しながら窺い見た主人の様子は、確かに病み上がりと言われれば少し顔色が悪いようにも見えるが、それほど重病感がないのは、正直に言って、ほっとした思いであった。

 少年はいつの間にか裏に回って、洗い残したどんぶりを片付け始めた。主人はそれに気付いて「憶康、来たのか。いいんだぞ、手伝ったりしなくて。それより勉強はいいのか?」と、少し迷惑そうに言った。

 「お父さんの方こそ、お医者さんが、後1週間ぐらい安静にしてなくてはだめだって言ってたじゃないか」と少年は答えて、てきぱきとどんぶりを洗い始めた。

 「父さんは大丈夫だよ。病気だって、ちょっとめまいがして体がふらついただけだ。疲れからきたっていう医者の説明からすれば、病院で1か月も寝ていた上に、後1週間もごろごろしていたら、体がなまっちまうよ。それにお客さんの前で病気の話はするな。食い物を売っている者の常識だぞ」そう言われて少年は黙ってしまった。

 「はいラーメンお待ち。すまないね。感染るような病気じゃないから」と主人は申しわけなさそうに、どんぶりを差し出した。

 「いえ、いいんです。今、憶康君と一緒に来た者ですから…」

 「おや、知り合いかね。大学生さんかい?」

 「いえ、予備校生です」

 「そうかい、それは大変だね。早く大学合格して、親御さん、喜ばしてあげなくちゃ」そう言って、にっこりと笑った。さらに屋台の裏に向かって「憶康、お前もこんなことしてくれるよりも、勉強していてくれたほうが、父さん嬉しいぞ。医者になるのは並大抵のことじゃないんだから」と言った。

 少年は医者志望と言われて少し迷惑そうな、恥ずかしそうな顔をして僕の方を見た。僕はその視線に答えて(そうか、君もいつか医学部を受験するんだな)という気持ちを込めて頷いた。

 その時、ふと、心の中で、いつか満員電車で少年の僕を守ってくれた、あの太い腕の人が微笑んでくれたような気がした。(そうか、君の立派なお手本になることが、今の僕にできる唯一のことなんだ)僕はまた大きく頷いて、勢いよくラーメンをかきこんだ。

 屋台から出て、大きく伸びをして息を吸い込むと、雨上がりのアスファルトの匂いがまだかすかに残っていた。ふと、目を上げると、ついさっきまで、一面にのっぺりと、低く垂れ込めていた雨雲が割れて、その隙間から、まだら模様の積乱雲がその姿を覗かせていた。その淡く紫色に染まった積乱雲は、まるで巨人の姿をして、その太い腕を広げて空を支えているかのようだった。僕は思わず両腕を広げて輪を作り、そのまねをしてみると、少しだけ誇らしい気持ちがこみ上げてくるのだった。太陽の光は、今まさに消えようとしていたけれど、僕の心は、もはや夜に負けない強さで燃え始めていた。


 チューターからの呼び出しの紙が、また掲示板に貼ってあった。前回、なかなか行かなかったためか、『至急』と書いてあって、時間を指定してあった。例の宿題に対する答えを聞かれるのだろうか。もう既に僕の心は決まっていたので、もちろん医学部を受けるのだが、その日はそれを言いに行くつもりだった。

 予備校のチューター面談室に行くと、先客がいて、チューターと何かを話し中だった。ドアを開けかけて、そのことに気付いた僕は「失礼しました」と言ってドアを閉めようとすると「いいのよ、どうぞ」と呼び止められて、中に入った。先客はゆっくり立ち上がった。僕は彼が出て行くと思っていたけれど、そのままチューターの前のテーブルの縁に腰を降ろし、僕を見て笑いかけた。その男はスーツを着て、年齢は23、4歳といったところなので、僕は予備校の関係者だろうと思った。

 チューターはそのまま話を切り出して、少し緊張した面持ちで「どう、結論は出た?」と尋ねた。

 僕は反対されることは百も承知で「やはり、医学部を受けようと思います」と答えた。すると彼女は意外なことに「そう、それは良かった。前回、私、ちょっときつく言い過ぎちゃって、私の言ったことであなたが医学部を諦めることになったら、どうしようと思っていたの」と、逆に安心したように言って、先客と何か目配せを交わした。 そして、なぜか既に広げてあった僕のファイルを前に差し出して「今、この人と一緒に、あなたの成績を検討していたの。もちろんあなたが医学部を受けるって言うことを前提にね。あなたの成績表を見ると、数学が問題なの。これさえ何とかすれば医学部に手が届くかもしれないわ。でも口で言うほど易しくないことは百も承知ね。浪人で最も伸びが期待できない教科だから」と言った。

 僕はチューターが言っていることが、前回とまるで違うことや、知らない人が勝手に人のファイルを覗いて、成績を検討していたと聞いて、少し気分を害した。それに、さっきからテーブルの横でにやにやしているその男が誰なのか、気になって仕方がなかった。そんな僕の気持ちを見抜いてか、チューターは「言い忘れたわ。この人は氷室雅之さん。名前くらいは知っているわよね?」と言ってその男を紹介した。

 その名は予備校では有名だった。医学部受験コースAクラスのトップで、常に成績優秀者名簿の上位にランクされる伝説の人だった。にもかかわらず、確か5年くらい、T大の医学部に合格できないでいる悲運の予備校生だった。

 「今日はね、この人は例の来年度から始まる多浪生の締め出し問題について抗議しに来ていて、たまたま、あなたのことが引き合いに出て、あなたに興味を持ったそうなの。そして、あなたにアドバイスしたいことがあるからって、わざわざ残ってくれたの」そう言うと、彼女はうっとりと、その男の方を見た。

 僕は一瞬何が何だかわからずに呆然としていると、彼は「氷室雅之です。初めまして。僕は日頃、受験生の権利を守るために闘っているんですが、橋爪さんから、君のことを聞いて、是非、君の役に立ちたいと思いました。僕は君の役に立てると思うんです。それはそうと、僕のこと知ってますよね?」と少し当て付けがましく聞いてきた。

 僕が「ええ、お名前はいつも…」と答えると、彼はさらに饒舌になって話し始めた。「それは光栄です。いや、まずは君が医学部を諦めないと聞いて安心しました。

 それにしても、推薦で他の学部に入学させようとする予備校の態度はとんでもないですよね。実は先刻から僕は君の医学部受験を強く推していたんですよ。何しろ僕もT大の医学部には蹴られっぱなしで、来年からは、そんな多浪生の締め出しでしょ。こんなことで人の進路を曲げさせようとする予備校サイドの圧力には本当に腹が立っているんです。

 まあ、僕にとっては、毎年、僕より成績の悪い奴等が何十人と、T大の医学部に入っていくのを見ていて、むしろ神様に対して、僕にこれ以上どうしろというのですかと、恨み言の一つも言ってみたくなりますがね。おっと、これは私事で失礼しました」   通常の医学部の偏差値すらなかなか大変な僕に対し、このセリフは充分に嫌味には違いないが、僕はそのとおりだと思った。僕などは点が取れなくてこんなに苦しんでいるのに、この人は充分過ぎるくらいの成績を上げていながら、目指す大学に5年も合格できないでいる。僕など想像もできない苦しみが、この人にはあるのだろうと思った。

 僕が黙っていると、彼は続けて「僕はこうして受験生の権利を守る活動をする一方で、君のように学力に少し問題のある人に、具体的に勉強の仕方をアドバイスすることもやっているんですよ。実際、過去に何人か、僕のお陰で飛躍的に学力が伸びて、目指す医学部に合格できた人もいますしね。そんな時は僕も人のお役に立てた気がして、嬉しいものでした。君は数学が苦手のようですが、僕からそのアドバイスを受けますか? ただし、これには少し条件があるんですが、どうでしょう」と言った。

 僕は、彼が受験生の権利を守る活動をしていて、僕の医学部受験を推してくれたということに感謝したかったのと、偏差値が常に70を越える人がどうやって数学の勉強をしているのか、強く興味を引かれたので、内心どんな条件でも飲むつもりでいた。

 彼は続けて「条件は簡単です。来年、T大学の医学部を受けないこと。そして、それをここで『宣誓』すること。ついでに、宣誓する時の、君の写真を撮らせて下さい。何ね、これは言質といった意味も多少ありますが、むしろ僕の趣味のようなもので、僕は、僕と関わり合った全ての人を、アルバムに飾っているんですよ。よろしいでしょうか?」と言った。

 この条件言われた時、僕はほんの一瞬、躊躇した。君の顔が浮かんだのだ。君は来年もT大学を受けるのだろうか。しかし、本当のところ、君には申しわけないけれど、ここでわざわざ宣誓するまでもなく、僕自身、既にT大学を受けるつもりは、全くと言っていいほどなかった。それに、その条件は氷室さんにとっては、もっともな条件に思えた。

 僕は一呼吸置いて「わかりました。どうかアドバイスしてください」と答えた。

 すると彼は、にやりと笑って話し始めた。

 「では、数学の勉強について、誰でもができるようになる方法を君に特別にお話ししますので、聞いていてください。

 まず、基本的な問題を疎かにしないことです。基礎的な問題集をやるんです。よく過去の入試問題がそのまま出ている赤本なんてやっている人がいますが、あれは愚の骨頂です。偏った難問ですし、前年の問題なんてやったって、それがそのまま翌年も出るはずないんですから。

 次に、実際に数学の問題を解く場合は、いくつも解き方を考えて、その全てに精通しなければ応用問題は解けません。よく数学の問題を山登りに例えて言われますが、山の登り方にはいくつもルートがあるように、数学の問題にもいくつも解き方があるのです…」

 彼はその後もいくつか、数学の勉強の仕方のポイントとやらを説明したが、どれも荒唐無稽な言葉の羅列で、僕には何のことだかとらえようもないままに、時間が無駄に流れていった。

 最後に「…でも、正直言って数学は生まれ持った能力の差なんです。こればかりはいくら僕が君にアドバイスしても如何ともしがたいことは理解してください。君に数学の才能があることを祈っています。」と彼は言った。

 この『生まれ持った能力の差』という言葉だけが、虚しく僕の頭蓋骨の中で共鳴していた。


 氷室雅之はアタッシュケースから三脚と、ストロボ付きのカメラを取り出し、それをチューターのテーブルに設置した。僕はその様子を丸椅子に腰掛けたまま、ぼうっと眺めていた。

 準備が整い、部屋の明かりを消すと、彼は「では、宣誓して下さい。宣誓の文句は『T大医学部を受験する奴は阿呆だ。』です。このセリフを3回繰り返して下さい。よろしいですか?」と言った。

 僕はそんなふうには思っていなかったので「ただ『T大医学部を受験しません。』ではだめなのですか?」と聞いたが、彼は強い口調で「だめだ!」と言った。

 僕は、その語気に圧倒されて、そうせざるを得なかった。

 不気味な魚眼レンズに向かって「T大医学部を受験する奴は阿呆だ」「T大医学部を受験する奴は阿呆だ…」「T大医学部を受験する奴は阿呆だ!」と宣誓すると、その度、僕は心と言葉が解離し、その裂け目が軋んで悲鳴をあげるのを聴いた。白い閃光が3回焚かれて、僕と、恍惚に歪んだ氷室雅之の横顔を照らした。そして、閃光の中を、なぜか君を犯しているような映像がよぎったかと思うと、視野の中央に、黒いシミの残像を残して消えた。闇の中で、しばらく頭の芯が疼いた。

 明かりを点けたチューターが「良かったわね。これで林君も数学ができるようになるのね」と軽い口調で付け加えた。そして、彼女は氷室雅之と何か目配せして「最後にもう一つだけ聞きたいことがあるんだけど、いい?」と言った。僕が疲れてうつむいたまま返事をしないでいると、彼女は「あなた、ところでT大医学部を受けた恋人、いるんでしょ?」と言った。僕は頭を上げて「それはどういう意味でしょうか?」と言うと、彼女は意味ありげな笑いを口元に漂わせて、「チューターには何でもお見通しなのよ」と言った。僕は「失礼します」と言い残して、チューター室を出た。 

 後ろから男女の噛み殺したような笑い声が響いてきた。僕は砂を口に含んだような苦い後味を味わいながらその場を立ち去った。


 梅雨が明けて、都会の空にも真っ白な積雲が昇る夏になった。一般の学校と違って、夏休みを遊ぶというわけにはいかない予備校は、夏期講習の季節である。それでも夏期講習は普段の学期の講習とは異なり、一般の高校生や他の予備校の学生などにも開放されていて、少し華やいでいる。

 夏期講習は学科ごとにコースが分れていて、受験生は自分でそれを選択して取ることができた。その日は、ちょうど夏期講習のコース選択を申し込む日で、久しぶりに君と予備校の近くの喫茶店で待ち合わせて、一緒に帰ることにしていた。少し早く着いた僕は窓際の席に腰掛けて、白く眩しい通りを見つめていた。テーブルの上のアイスコーヒーの氷が崩れ、カランと転がった。ほどなく、その白い通りを、君が小走りにこちらへ向かって来るのが見えた。

 僕は「数学のコースどうだった、取れた?」と、アイスティーを注文して腰掛けた君に聞いた。夏期講習のコースは各コースごとに定員があって、必ずしも自分の希望どおりにはいかないのだ。僕は一番人気のある医系数学コースを、どうにか取ることができた。

 君は伏せ目がちに、少し答えにくそうにして「ううん、だめだったの…と言うより、取るのを止めにしたの」と言った。君は同じコースを選択したかったのだが、直前になって気が変わり、抽選もれで不本意なコースに回されるよりも、第2選択でも確実に取れる物理のコースを選択したのだと言った。

 「すごく迷ったんだけど、そうすることにしたの」と言う君に、僕は「そうか…」と、一言、言っただけだった。君も「そうなの…」と、一言、答えただけだった。そして、しばらく沈黙が続いた。

 数学のコースと物理のコースは時間や校舎も離れていて、これから1か月間、お互いに行き会える機会はほとんどないことは、言わなくともわかっていた。それに、僕たちの関係は、あえて待ち合わせて一緒に帰るといった、恋人のような関係でないことは無論のことだった。これらの暗黙の了解の全てを飲み込むのに、しばらくの沈黙が必要なだけだった。

 「ごめんね…」最初に口を開いたのは君だった。僕は「どうして謝るんだい?」と聞き返した。いつもならそんな時、君は枕詞になってしまったその言葉を「口癖っ」て言って顔を上げて僕に微笑みかけるはずだったが、その時は終始うつむき加減で「ごめんなさい」と、もう一度繰り返した。

 この時の2回目の「ごめんなさい」が君の中の、小さな嘘に対してであったことに、それとなく気が付いたのはだいぶ後のことだった。(君は別の男に誘われて物理のコースを選んだのだった)しかし、そんなことを責めるつもりもないし、また、そんな資格も、僕にはないことは充分承知していた。いずれにせよ、その時、二人の関係は受験を闘う同士でしかなく、僕が頑張れば、またいつか一緒になれる日もくるのだと、ただひたすら念ずるしかなかった。

 物理のコースの手続きが残っていると言う君と、お茶の水の駅で別れて、僕は一人で帰ることになった。気怠い午後の通勤電車の車窓から覗く夏の空は、それでも青く輝いていた。それは都会の空にしてはひときわ青く、僕はそれを穴の開くほど見つめていた。そして、僕は、その青い空を網膜に焼き付けて、目をつぶり、その中央に一輪のひまわりをイメージした。その数をどんどん増やしていくと、やがて、幻想のひまわりの草原が、僕の目の前に出現した。そして、その世界で君を探した。しかし、いつもその中央で微笑んでいるはずの君の姿が、なぜかその時は見つからなかった。僕は急に不安に襲われ、意識が、その幻想の草原を走り出した。やがて、草原の彼方に、少女が走り去って行く後姿が見えて、消えた。そして、いくら追いすがっても、もはやその姿は再び見えることはなかった。取り残された草原で、僕のまわりを、風が恐いくらいの音をたてて舞い始めた。


 医系数学コースは哲也さんに頼まれて、彼の分も一緒に予約し、二人とも幸運なことに抽選に当たったので、僕たちは1学期と同じように席を並べることになった。

 3か月も一緒にいた僕たちは、いかに殺伐とした予備校とはいえ、気心の知れた仲になっていた。初めは多浪で、性格が悪くて、うるさい人と思っていた哲也さんのイメージも、根は優しくて力なしといった感じくらいまで、回復していた。彼の最初の傲慢な態度は、弱者の悲しい虚勢に過ぎないことが、徐々にわかってきたのだ。

 最初のころは、哲也さんも、例の尋問で「恋人のために医者になりたい」と答えた僕を、軟弱者のレッテルを貼って軽んじる態度を取ったりしていたが、いつしか他のまわりの者が彼の相手をしなくなっていくにつれ、隣の僕だけが唯一の窓口として、彼の質問に答えてあげるので、それなりに仲良くしたいと考え直したようだ。

 もっとも、それが例年の彼のパターンみたいで、彼は時々、彼の歴代の『相棒』の話をしてくれた。そんな時、彼はいつも懐かしむような、愛しむような表情を浮かべた。彼は、彼の相棒は1浪目の時の一人を除いて、他は全て医学部に合格していると言って、僕を励ましてくれた。そんな彼を見ていると、僕もいつか彼の思い出の中の一人になるのも悪くないなと、思うようになった。

 ところで、予備校の机は大抵、狭い三人掛けになっており、夏期講習でもそれは同じだった。そして、僕たちの机の場合、残りの一つの席は意外なことに女性だった。

 彼女は美しい顔立ちをした黒い髪が印象的な女性だった。彼女はその黒い髪を後ろで束ね、広い額を露わにしていた。そのことが彼女の幼い顔の造りを理知的なものに見せていた。ほとんど化粧らしい化粧もせず、服装も白いシャツに、洗い晒しのジーパンを履いただけのものだったけれど、それがブランドで着飾った女子高生より、一回り大人の女性の雰囲気を醸し出していた。

 夏期講習の初日に会って、長椅子の真ん中に座った哲也さんは気になるらしく、しきりに彼女の方を窺っていた。そして、とうとう例の挨拶代わりの『尋問』を始めてしまったのだ。

 僕はとっさに哲也さんの腕を掴んで止めにかかったけれど、既に遅かった。哲也さんは「ねえ君、ここは何を勉強する所かわかってる?君みたいなお嬢さんがこのコースにいるなんて、これはいわゆる一つの洒落だよね」と言った。これは僕が翻訳すれば「君のような理知的な人がまた一人、医学部を受験しようとしているなんてかなわないな。できれば他のコースへ行ってくれないかな」という歪んだ尊敬の表現なのだが、初対面でいきなりそう言われると、言われた方は大抵、敵意しか抱かない。

 でも、彼女の反応は少し違っていた。「ごめんなさい。でも私も一緒に混ぜてください」と言って微笑んだのだ。彼女にしてみたらこのくらいな手荒な挨拶は、ここに来ると決めた時点から、織り込み済みの状況であったのだろうか。いや、予め想定していたというのは当たっていないかもしれない。むしろ、無防備とも思えるその天真爛漫な笑顔は、予め用意してできるものには見えなかった。

 この意外な返事と彼女の無垢な笑顔に対して、哲也さんの方が、まるで調子が出ず「べ、別に構わないけれど…。こ、これは要するに混ぜる、混ぜないといった問題ではなくて、あくまでも一つの、ちゅ、忠告として聞いて欲しいのだけど、国立の医学部を受験するということは…」と、いつもの説教を始めたのだが、最後には「…というわけで、非常に大変であるということがわかっていただければ幸いです」と尻すぼみの、ですます調になってしまったくらいであった。そして、彼女はそれに答える形で自己紹介を簡単に述べたのだった。

 彼女は長野県出身で、速水莉恵子、四谷にあるJ大学の英文科の学生で、この春から医学部を目指して、いわゆる仮面浪人を始めたとのことだった。期間は1年だけ、数学は夏期講習から本格的に始めるとのことだった。そして最後に、彼女はまた例の天真爛漫な笑顔を浮かべて、こともあろうに僕たちに、勉強会を開いて、数学を教えて欲しいと申し出たのだ。

 そう言われた哲也さんは、またも全く予想していなかった、この話に対して「か、仮面浪人だなんて…。す、数学をこれから始めるだなんて…。やはり、少し、医学部受験をなめているとしか…」と言ったきり、しばらく黙り込んでしまった。

 後で語ったところでは、生涯初めて人から数学を教えて欲しいと言われて、頭が混乱して、どう言って良いのかわからなくなってしまったということ、そして、それ以上に、そんなに簡単に医学部を受験する人が存在するという事実が、彼には全く理解できなかったのだと。…彼に言わせると、全生涯を賭してかかるくらいの心構えが当然と思っていたのだ。しかし、彼女がいいかげんだという感じはさらさらしない。むしろ真剣でさえあると思われるから、より不思議な気がしたのだった。

 ともあれ、ことの成り行きで僕らは夏期講習の間だけ、お昼過ぎに、三人だけの勉強会を開いて、一緒に数学を勉強することになった。哲也さんは、数学を教えてその難しさをとことん叩き込んで医学部受験を諦めさせると息巻いていたが、どこか嬉しそうでもあった。彼女が美しい女性だからだろうか。それもきっと大きい理由なのだろうけれど、人に頼まれて苦手な数学を教えるなんて、彼はもちろん、僕にとってもコペルニクス的発想の大転換でもあったのだ。

 

 一般に、こうした勉強会は、ともすれば低きに流れがちで、役に立たないことがほとんどだ。しかしながら、僕たちのこの勉強会はそんな懸念を吹き飛ばすほどの大成功だった。その大きな要素は何と言っても速水さんが、ずば抜けて聡明だったからに他ならないが、それ以上に、異質な者同士がそれぞれの欠点を補い合って、見事な調和と、すさまじい効率を生み出したのだった。

 彼女の思考パターンは僕や哲也さんとは本質的な部分で違っていた。もっと的確に表現すれば、彼女のそれは非常に現実的なのだ。

 ともすれば僕などは数学の世界は無限大と捉えがちで、あたかも遥か彼方に聳える高い山脈のように思ってしまい、それを征服するために必要とするであろう膨大な努力…それはあくまでも幻想でしかないのだが、その前に初めから圧倒されがちである。その道の先人である哲也さんに至っては、さながら幻想のヒマラヤを遥か彼方に頂いたまま、手前の原生林の中で何年もさ迷い続けた探検家のような存在なのだろう。

 しかし、彼女にとって数学とは、紙っぺら1枚の世界でしかないのだ。受験科目が5教科必要でその合計点が500点だとすれば、そのうちの100点分でしかなく、さらに合格するのに60点必要なら60点分の容量でしかないのだ。

 その考えは徹底していて、極端な話、彼女の持っている問題集は、夏期講習のそれと、彼女の受けようとしているS大学の赤本しかないのである。彼女に言わせれば、一般的な数学の問題で必ずしも60点取れる必要はなく、その大学の入試で60点取れることが目標なのだそうだ。もし夏休みの最後に、その大学の過去の数学の問題を解いてみて、平均して60点取れればそれで充分で、それを70点にしようとすることは、全くの徒労に過ぎないと考えていた。

 彼女に数学の裾野から案内しようとしていた哲也さんは、こうした彼女の考え方を知るに至っては大きな溜息をもらした。しかし、それは決して蔑みといった悪い意味でのそれではなく、むしろ驚きと賞賛の溜息だった。彼は、100点を目指す努力が、何年も彼に無駄なことを続けさせてきたのではあるまいか、僕や哲也さんは取れる点はいくらでも取りたいと思うところに、完璧主義者の、遥かなる幻想を見てしまうのではないか、という考えに行き当たったのだ。さらに、なまじ時間が無限にあるような錯覚が、その完璧主義に拍車をかけていることに気付いたのだ。

 彼女の筆記用具の使い方も独特だった。彼女は鉛筆と消しゴムを使わないのだ。ノートに万年筆で直に書くのだ。それも練習用にメモのように雑に書くといったことを一切せず、考えがまとまると、直接それが解答用紙に書かれていても充分通用するように、綺麗に、一気に書き上げてしまうのだ。それは見事としか形容のしようもなく、彼女の計算式はいつも過不足なく解答用紙にぴったりと収まった。

 僕たちが普通やるように、鉛筆で書いて、間違えては直し、直しては間違えるようなこと、そうした試行錯誤は言ってみれば1枚の紙を無限に使うような行為だけれど、そんなことは一切しなかった。彼女にとって1枚の紙は1枚の紙、1文字はあくまでも1文字だった。

 彼女が刻む一瞬一瞬は決して後戻りしてダブることはないのだ。彼女はリハーサルなしに、常にタイトロープを渡っている。このことに気付いた時、僕は彼女にある種の尊敬の念を抱かざるを得なかった。

 しかし、迷える探検家の経験というのも、まるで無駄だったというわけではなく、僕や哲也さんには記憶の蓄積があった。哲也さんに至っては、実際、どうしてこの人は数学が苦手なんだろうと思われるほど、様々な解法のパターンを憶えていた。だがその記憶は混沌とした闇の中に、雑然と放り込まれたがらくたさながらに、簡単には引き出せない代物であったのだ。

 逆に彼女は記憶こそないに等しいものの、それを引き出す術に驚くほど長けていた。限られた時間の中で、それだけに意識が集中していたのかもしれない。僕にとっては魔法のように思える術も、彼女に言わせれば簡単なことで、それは出題者の『意図を感じることだ』と言う。彼女はその意図に向けて鋭敏なまでに研ぎ澄まされたアンテナを張るのだ。そして彼女は哲也さんの、混沌とした闇に葬られているがらくたの山の中から、いとも簡単に光る宝石を見つけ出してきた。

 こうして彼女は最も効率の良い的確な解法を一つだけ選択し、その解法を憶えた。哲也さんは彼女がどうしてその解法を選択したのか、その思考パターンを注意深く吟味してアンテナの張り方を修得し、それ以外の無駄な解法を忘れた。

 僕たちは、まるで取り憑かれたみたいに時を忘れて、この作業に没頭した。そして、いつしか僕たちはこの作業を『宝探し』って呼ぶようになった。哲也さんだけは最後まで『ゴミさらい』って言っていたけれど。午前の講習が終わると、僕たちはいつも昼食もそこそこに問題集を開いていた。

 こうして1か月の夏の講習会のシーズンも、瞬く間に過ぎ去っていった。それは僕にとって、学力が向上することにおいて、後にも先にもこれ以上のものはない、最高に充実した夏だった。それは、おそらく他の二人にとっても、同様だったと思う。僕たちは三人が三人なりに、数学ができるようになっていく自分自身の変化を、まさに体感できたのだ。


 夏休みの勉強会も最後となった日の夕方、僕たちは記念に、どこかでささやかな夕食会を持とうということになった。僕たちは偶然にも出会えて、短くも充実した日々を送れたことに祝杯を挙げたかった。そして、僕たちはその日で別れ別れになってしまうことを心のどこか片隅で意識していた。速水さんは大学を中退して仮面浪人をやめ、秋からは実家の方で勉強を続けることになっていた。そして、僕と哲也さんは、2学期から例の席換えで、おそらく会う機会もめったになくなってしまうのだ。

 地元出身の僕の提案で、横浜港の花火を見て、中華街で食事をすることになった。「わあ、素敵だわ」「そりゃ、ずいぶんとささやかだね」なんておどけて、速水さんも、哲也さんも賛成してくれた。

 東京から京浜東北線に乗って、僕たちは横浜へ向かった。夕陽がビルの谷間に沈んでいく都会の光景を、僕たちはドアにもたれて眺めていた。

 哲也さんは「こんなに綺麗な夕陽は何年ぶりだろう。そして、こんなに気分が良いのも、もう何年前にあったか忘れてしまった。考えてみればこの5年間、ただひたすら寮と予備校の間を、行ったり来たりすることを繰り返していただけだった。それが今は花火を見に行こうだなんて、いったい、どういう風の吹き回しなんだろうね」と言った。

 最後の言葉が少し自嘲気味に聞こえた僕が、心配そうな眼差しを向けると、そんな不安をかき消すように、哲也さんは「泰宏君、すべてがオーケーだ。何の不安も今の僕にはない。それどころか、僕は子供みたいに花火が見たくて、見たくて、心が踊るのを抑え切れないほどだよ」と言って笑った。

 速水さんが「私も早く花火が見てみたいわ。それから中華料理もね」と付け加えた。 そんな二人を見ていると、僕も何だか嬉しくなって「本当に君たちは子供みたいだ」なんて生意気なことを口にするほどだった。

 僕たちを乗せた京浜東北線の電車は、川崎駅あたりから混み始め、横浜駅からは、さらに多くの花火の見物客を乗せて、寿司詰め状態になった。僕たちはいつまでも窓の外の夕暮れの景色にこだわったため、最後には、三人とも、ドアにへばりついたヤモリみたいになってしまった。

 その時、ふと、僕には遥か昔の懐かしい思い出が蘇った。あの太い腕で僕を守ってくれた人の暖かい思い出である。僕は、まわりを見回して、見つかるはずのない彼を探してみた。案の定、振り返ると、そこには、脂ぎった中年のサラリーマンの、大粒の汗を額から流し、苦虫を噛み潰したような顔があった。

 僕たちは石川町の駅で下りて、元町の通りを目指して、港の方に歩き出した。通りは花火を見物に来た若者たちで溢れて、中には横須賀のネイビーの集団や、外国の船員たちの集団も見られて、エキゾティックな雰囲気でいっぱいだった。

 およそ横浜ほど浪人生のイメージからかけ離れた都市は他にないかもしれない。そんな所を、青白い顔をした、おまけに無精髭の、いかにも浪人生である男二人が行くのは不似合いだし、ましてや、清楚な身なりで、気品漂うお嬢様が一人、連れだって歩いて行く姿は、端から見れば、きっと、不釣り合いで様にならなかっただろう。まわりを行く花火客の若者たちから盛んに冷やかされた。でも、僕たちは少しも気にならなかった。その頃の僕たちのトライアッドは強い連帯感で結ばれていたのだ。

 僕たちは元町から外人墓地の坂を登り、横浜港が一望できる小高い丘陵地の上にある、港の見える丘公園に登って花火を見ることにした。

 そこは思えば1年前は、君と二人で花火を見た場所だった。その時は、夏期講習を一緒に受けていた君が、帰り道に突然、僕を誘ってくれたのだった。時間の無駄だと言って、不機嫌だった僕をなだめるようにして、君は「見ないと、損するわ。ちょっとだけだから」と言って引っ張って行ってくれた。僕たちはベンチに腰掛けて、すぐ前の柵に群がった人垣の隙間から花火を覗くようにして見たのだった。人垣の隙間が狭いので、僕らは頬を寄せ合うようにして、代わる代わる花火を覗いた。君の薄化粧の香りがした。僕は(誘ってくれて、ありがとう…)って、心の中でつぶやいた。

 花火が始まり、哲也さんも、速水さんも夜空に打ち上がる一つ一つの光の花に手を叩いて喜んでいた。僕は夜空に広がる大輪のひまわりに、ひときわ大きな歓声を送った。

 あれから1年が過ぎ去ってしまったなんて、まるでそれが嘘のように、まわりの見物客の様子や、花火が打ち上がるごとに沸く歓声も、そっくりそのままだった。違うのは、君が僕のそばにいないことぐらいだった。(君は今どこで何をしているのだろう。)僕はひょっとして、君もこの群衆のどこかで花火を見ているような気がして、まわりを見回してみた。しかし、そこには、歓声を上げる知らない群衆のドミノがどこまでも続いているだけだった。

 

 中華テーブルのまわりに腰掛けて、僕たちは、中華料理のコースを食べながら会話を楽しんだ。最初は、見てきたばかりの花火のことや、夏休みの初めに出会った頃の哲也さんの失礼な質問の本当の意味を解説したりして盛り上がった。楽しい夕食会だった。

 僕たちは料理をあらかた食べ終わって、いよいよ最後に残ったビールの栓を抜くと、それまで、はしゃしでいた哲也さんが、急に真面目な顔になって「速水さんに前から聞きたいと思っていたんだけど、どうして医学部を受験しようと思い立ったのかな?

 あっ、これは、その、何て言うか、例の悪い癖で聞くんじゃなくて、本当の意味で君がどうして医学部に行きたいのか、良ければ教えて欲しいんだ」と言った。

 そう聞かれて、彼女は笑いながらも少し困った顔をして「びっくりした。改まって何を聞かれるのかと思った。それは私が医学部を受けると言い出してから、みんなによく聞かれる質問ね。そんな時はいつも『秘密』って言って、煙に巻いて逃げるけど、どうしましょう。武見さんと泰宏君のも教えてくれれば、少しだけ思うところを話してもいいって気がするわ」と言うと、彼女は、いたずらっぽく僕と哲也さんを見た。

 哲也さんは「僕は一向に構わないけど、泰宏君はどうかな?」と言って僕に振った。 そう聞かれて僕が拒否するわけにもいかなかった。それに本当のところ、速水さんがどうして医学部を受ける気になったのか、僕も聞いてみたいと思っていたのだ。

 「じゃ、誰からいこうか。じゃんけんで決めるっていう手もあるけれど、やはり言い出した僕からだろうね。ちょうど最後のビールが僕の前にあるし…」と言うと、哲也さんはビールを三つの新しいコップに注いで、二つを中華テーブルに乗せて回し、速水さんと僕に配った。そして、彼自身のコップを取って一気に飲み干すと、覚悟を決めたように話し始めた。

 「この話は今まで誰にも話したことがないんだけれど、僕もついこの前までわからなかったことなんだ。何年もの間ずっと考えてわからずに、そのままほったらかしておいた問題で、やっと、この前、その答えらしきものに到達したんだ。

 恥ずかしいから、思い切って最初に言ってしまうけれど、僕はお母さんのために医者になろうとしているんだと思う。いい歳してお母さんじゃ、様にならないけど…」こう言うと哲也さんは本当に恥ずかしそうにうつむいて、しかし、更に意を決っしたように続けた。

 「僕の家は九州の片田舎で、両親は小さな文房具なんかを売ってる商店をやっているんだ。親父は学問をした人で、昔、学校の先生をしていたらしいんだけど、病気がちで、家に居てもやっていられる店を始めたんだ。でも、おとなしい人で、商売には向いていなかった。だから実際、店は気の強いお袋が切り盛りしていたんだ。

 僕の母さんは無学な上に、それはそれは粗野で、いつも稼ぎの悪い父さんに愚痴ばかりこぼしている人だった。幼い頃から父さんを好きだった僕は、そんな母さんを憎んでいた。さらに、僕は4人兄弟の長男なんだけれど、母さんは、兄弟の中で一番父親似でひ弱な僕を、いつもきつくしかっているように思っていたんだ。

 でも、ある日、僕がちょっとした足の傷から細菌感染し、骨髄炎になりかかった時、毎日5キロの道のりを僕をおぶって隣町の診療所に通院してくれたのは母さんだった。

 骨を削って洗うような痛い処置をしている間、母さん、みっともないのに念仏なんか唱えて…、処置が終わって、暗い夜道を、また母さんの背におぶさって帰った。母さんは優しかった。

 僕はその頃のことを思い出すと、決まって思い浮かぶのが、足が腐って死んでしまうのではないかという恐怖と、それ以上に、優しい母さんの背中なんだ。

 今思えば、母さん、病気の時は優しかった。怪我が治って僕が元気になると、また粗野できついくそばばあに戻っちゃうんだけどね。

 でも、わかるんだ。家族のうち、誰が病気になっても、一番心配してくれたのは母さんだった。

 その母さんは単純に医学というか、医者を尊敬していた。だから僕は医者になろうと思ったに違いないんだ。

 僕はつい最近まで医者になろうと決めたのは、僕の足を治してくれたその診療所のお医者さんを尊敬して、そう思い始めたんだろうって、考えていたけれど、そして、これまでも人にはそう言って通してきたけれど、正直言って、いつもどこか違うなって感じてた。

 その母さんが、最近、甲状腺の病気で手術を受けたんだ。

 手術の当日、僕は、不安で、いたたまれなくて、こんな遠く離れた東京で、気が付いたら、あのみっともない念仏を唱えていた。そんなことしか僕は母さんにしてあげられなかったんだよ。だのに、母さん、麻酔から醒めて病室に戻る際、繰り返し、繰り返し言ったんだって、哲也に治してもらったって。僕はそれが現実だったら、どんなに嬉しかっただろうって、そう思ったんだ。

 僕はその時に気が付いたんだよ。僕は母さんのために医者になりたかったんだって。そうだ、僕は今まで誰に聞いてもわからず、自分でも無駄にしか思えなかった僕だけの医学部受験の本当の意味を遂に見つけたんだ。

 こんなことを考えたのは何年ぶりだろう。自分でも青臭いなって思うよ。でも、僕は君たちに会って、一緒に勉強して、そして一所懸命考えてみたんだ。この夏は本当に良かった。こんなすばらしい夏は今までになかった。

 それに僕は自分がこの歳になって伸びるなんて、正直思ってもみなかった。僕はそれが実感できただけでも、充分おつりが来るくらい幸せな気分だよ。僕はそれだけでもこれからの人生を、胸を張って生きていけるような気がするんだ。

 そうだ、僕は決めた。僕も速水さんのように来年の医学部受験に最後の全力を尽くす。そして、もし、それでも受からなかったら、すっぱり諦めることにする。いや諦めるっていう言い方は合っていない。僕は晴れて医学部受験生を『卒業』するんだ。

 それにしても、もし面接試験か何かで聞かれて、いい歳して、お母さんのために医者になりたいなんて、恥ずかしいことを真顔で答えたら、絶対に受からないね」こう言うと照れ臭そうに笑ってうつむいた。

 「いいえ、全然恥ずかしいことだとは思わないわ。私、今、とても感動しているの」横で哲也さんの話をじっと聞いていた速水さんが、中華テーブルに乗せられた彼女の前のビールのコップを取って一気に飲もうとして、それでも半分ぐらい残して話し始めた。

 「私の話こそ、どこか異様で、こうして誰かにお話しする機会があるなんて、思ってもみなかった。でも、お約束だから、お話しします。

 嫌味に聞こえるかもしれないけれど、私は、長野県の軽井沢にある旧家の、世に言う箱入り娘なの。そんなのお話だけの世界だと思うでしょ?でも、ある所にはあるの。…広いお庭と古い大きなお屋敷の奥で、兄弟がいなかったから、私はたった一人で育てられた。学校も私立のエスカレーター式に高校まで上がれる学校に、毎日車で送り迎えしてもらってた。

 きっと、何事もなければ、親の言うままに進路を決めて、親の言うままの人と結婚して、それなりに幸せな一生を過ごせたと思うわ。でも、何事もなくはなかった…。

 こんなお食事の席でごめんなさい。でも、必要なことだからお話します。私、小学校の低学年の時、お尻から虫が出たの。笑わないで下さいね。朝起きて、お腹が痛いから、トイレに行くといつもと違う感じがして、下で何か跳ねる音がするの。見ると便器の中で肌色の紐のようなものが動いていた。今思えばそれは蛔虫だったわ。私は死ぬほど恐かった。誰にも話せなかった。そんな子は気味悪がられて、親に捨てられると思ったの。 私は便を出さなければ虫も出ないだろうと思って、その時から全く何も食べないことにしたの。親には食べた振りをしてごまかして、お弁当は全部捨ててしまった。でも、みるみる痩せて、親は心配して、お医者様の所へ、いやがる私を連れて行ったわ。私、虫のことは一言も話さずに、ただ食欲がないから食べないと嘘をついた。でもさすがにお医者様は私が蛔虫に寄生されていることを診断してくださった。「かわいそうに、つらかったね、心配はいらないからね」って、笑って薬を下さったわ。神様みたいに見えた。安心して薬を飲んで眠ったら翌朝、たくさんの死んだ蛔虫がさらさらと流れていった。

 私の蛔虫にまつわる記憶はそこでぷっつりと途切れているの。そして、今まで話したことは全て夢だと思うことにしていた。再び何事もない平和な生活がずっと続いて、悪夢の記憶もだんだん薄れ、あれは本当に夢だったのではと、思えるようになったわ。

 大学は親も賛成してくれたJ大学の英文科に入学して、英文学を専攻することになったの。というのも、どうやら私には決められた許嫁の人がいて、その方が商社にお勤めで、語学の勉強を勧めたらしいの。本当の自分はきっとどこかで医学部に行きたかったはずなのだけど、無意識のうちに、悪夢の記憶に近付くのを避けていたのね。だから、そのままだったら私、医学部に挑戦してみようなんて思わなかったな。

 実は去年の暮れ、その許嫁の方がいらして、私、お見合みたいなことがあったの。それが終わると、その方がどこかドライブに連れて行ってくれるとおっしゃって、私、即座に『S大学の医学部附属病院が見たい』って言って、松本へ連れて行ってもらったの。 こんなリクエストにも私の医学部に対する無意識のこだわりが表れていたのね。でも、その時は、きっと私はそのこだわりにサヨナラするつもりで、最後に一度だけ大学病院を見てみたかったんだと思うの。初めは、その方も何か訝しんでいらしたけど、私があまりにも強くせがむものだから、結局、上高地にも寄るというお約束で、連れて行ってもらうことになった。

 綺麗な車で、美しい山道を、とても紳士的なその方とドライブした。そして、彼は、私が行ったこともないような、外国のおもしろいお話をいっぱい聞かせてくれた。そして、いつかその方と外国での平和で夢のような生活を思い描き始めてた。

 あのことがなければね…。思い出したくないけれど、今でもはっきりと思い出すわ。松本に着いて、大学病院の前の交差点の所で、私たち…犬をひいたの」ここまで話して、彼女は息を呑んで、コップに残っていたビールを飲み干した。

 「私たち、大学病院の建物に気を取られていたんだわ。急に左から白い犬が交差点に飛び出してきて道を横切ろうとしたの。彼はあわててブレーキを踏んだけど間に合わなかった。ズン、と鈍い感触が左の前のタイヤから響いて、車は急停止した。そして皮肉なことにスピードが出ていなかったのが災いして、車は犬の首を車輪に巻き込んだまま停止してしまったの。しかも、もっと悲惨なことにその犬は死ねなかった。

 車に挟まってもがきながら、潰れた首で悲鳴をあげているの。私はもちろんだけど、彼は青い顔をして食べた物を吐いて、放心したまま何もできなかった。何も知らない後ろの車からのクラクションの嵐と、それ以上にその犬の悲鳴が私の心をかきむしった。悪夢なら早く醒めて欲しかった。『ごめんね、ごめんね』って心で謝りながら、私たち何もできなかった。

 そこへ自転車で通りかかった医学部の学生がいて、私たちの状況を一瞥すると、すぐにやって来て、犬を素手で優しく引き出してあげて…、彼の手や袖の所は犬の血で汚れてたけれど、彼はそんなことには目もくれず、少しの動揺も見せず犬の状況を観察していた。そして、何かを決断し、鞄から解剖用のメスを取り出して、一瞬で犬の首を切断したの。

 私にははっきりと見えたわ、犬が微笑むのが。本当よ。その後、その医学生は犬の屍体を医学部の実験動物の焼却炉の所へ持って行ってくれた。ちゃんと慰霊祭で弔ってくれると言い残して。

 この事故があってから、私にはわかったの。蛔虫のことも、犬のことも全てが夢なんかじゃないってこと。私たちが生きていく限りにおいて、いつかは避けて通れないことが必ずあるの。その究極的なものが死だとすれば、それをいつまでもないものとしてどこかに押しやり、やがて夢のうちに後ろから追い付かれて殺されていくのがそれまでの私。そして正面から最後まで見据えようとしているのが今の私。私、医学部に合格することそのものが目的じゃないの。私は私の力で運命に正面から向き合って生きていこうと決めたの」こう言って彼女は静かに話を終えた。

 僕はもう、既にかなり酔っていたけれど、自分の前にある最後のビールを一気に飲んで、話し始めた。

 「僕は哲也さんや、速水さんの話を聞いて、こんなすばらしい人たちが僕の友達で、一緒に医学部を目指しているのを、とても頼もしく思います。と同時に、同じくらい熱い思いが胸の内にあるのに、それを明確な言葉で言い表せない自分がもどかしい。 でも、あえて一つだけそれらしいことを言わせてもらえば、僕はこれまで、幼い頃から、いつも誰かに支えられ、守ってもらっている気がしていたってことなんです。感覚的なもので、明確には言えないのですが、それは僕の中では『太い腕』として象徴されているんです…」


 僕は幼い頃の花火の日の満員電車での出来事を話した。


 「…僕は、いつか自分に守る側の順番が回ってきた時には、全力を尽くしたいと思ってきました。それが、いつなのか僕には未だわからないけれど、そうすることがその実体のないものに対する、僕のせめてもの恩返しなのだと思っています。

 ただ、みんなの話を聞いても、依然、わからないことが一つあって、では、どうして僕は医学部なんだということです。

 人を守る、人の役に立つという観点だけなら、他にだって、いくらでも道はあると思う。でも、僕には他の道は考えられない。ということは人に役立ちたいという純粋に肯定される理由からだけではなくて、医者はお金が儲かるからとか、医学部は偏差値が高くて、そんな所に合格すればさぞかし鼻が高くて爽快だろうとかいう、不純とされる動機が、きっと僕にはあるのだと思う。そういうふうに考え出すと、僕は自己嫌悪の袋小路に入り込んでしまうんです。

 だから僕は医学部を受けようと思う動機は、単純な憧れでいいんじゃないかって思うことにしたんです。ほら、きっと、誰でもが小さい頃は、一度は憧れるでしょう『お医者さんになりたい』って。その気持ちをこの歳になるまで持ち続けているのが僕なんだと、そう思うことにしたんです。

 でも、何年も受け続けるのには、きっとそれなりに、別の理由が必要なんだと思う。僕は、哲也さんが、どうして医学部を受け続けているかを、本当は聞いてみたい」こう言って僕は哲也さんを見た。

 哲也さんはしばらく、目を閉じて、考えていた。そして「申しわけない。もう少し考えさせてくれ。もし、よければ君はどうなのか、先に話してくれないか」と言った。 僕は話を続けた。「…それは、彼女のためです。僕は昔、哲也さんに照れ隠しで、彼女のために医学部を受けるって、言ったけど、正確には彼女のために医学部を受け続けているって言うべきでした。僕は彼女のために、医学部を受け続けている」

 ここで、僕は速水さんを見た。彼女は静かに耳を傾けていた。

 「僕には昔の恋人って呼べる人がいて、彼女はどこの医学部に受かっても当然と言われるくらい、できる人なんだけれど、でも、なぜか合格できないでいるんです。しかし、どんなに優秀な人だって、医学部受験生で、多浪で、しかも女性だったら、誰もが不安で、つらくて寂しいと思うんだ。

 それは言ってみれば、暗くて冷たい、行き着く先も知れない、大きな河をずっと流されて行くようなものでしょう。僕は彼女に何もしてあげられないから、せめてその河を一緒に、どこまでも、どこまでも、流されて行ってあげようと決めたんです…」

 僕はお酒以上に、美化された言葉に酔っていく自分が疎ましかった。そして、僕はいつの間にか速水さんと君とが区別できなくなって、彼女に自分の思いのたけを吐露していた。そんな僕をたしなめるように彼女は静かに微笑んでいた。


 僕たちは、中華街を出て、涼しくなった港街を関内の駅に向かって歩いていた。まだまわりには、花火の余韻が残っていて、見物客が連れだって、それぞれの帰路に就き始めた頃合だった。

 「やあ、武見君じゃないですか。久しぶりですね。その後、お勉強の調子はどうですか?君が花火を見に来るなんて、珍しいこともあるもんですね」そう言って、誰かが話しかけてきた。その声には僕も聞き覚えがあった。振り返ると、そこに氷室雅之がいた。哲也さんは何かに怯えるようにその場に立ち尽くしてしまった。そして、次の瞬間、僕の心も凍り付いてしまった。氷室雅之の後ろに、寄り添うようにしていた女性は、紛れもなく君だったのだ。

 君も僕に気付いて、一瞬、息を呑んだ表情を見せたけど、すぐに会釈して、ほんの少しだけ彼との距離を置いて目を伏せた。

 そう、確かに僕たちはその時、恋人でも何でもなかった。君が誰とどうしていようと僕に何かを言われる筋合いはなかった。僕たちはいつか再び一緒になれる。その時まで君も一人でいて欲しいなんて、僕の身勝手な願望に過ぎないのだ。

 僕も君にぎこちない会釈を返した。その素振りを横目で観察していた氷室雅之は「おや、君たちも知り合いですか?こりゃ、奇遇ですね。いつか食事でもご一緒しましょう。確か、林君って言いましたよね。誤解しないでください。僕はまた例によってチューターからの依頼で、受験勉強のアドバイザーをやってましてね、彼女に物理を教えているだけです。ただ、それだけです」そう言うと彼は、また、哲也さんを見て「そうそう、チューターといえば武見君、橋爪さんが心配していましたよ。君も、もう、そろそろ、いい歳なんだから、彼女とのよりを戻して、二人で田舎にでも帰って、将来のことを考えたらどうでしょう。医学部だけが人生でもないでしょう。お二人の共通の友人として、僕もずいぶん心を痛めているんです。何だったら、仲直りの仲介をしてもいいんですよ」 こう言われて哲也さんは「彼女とのことは、ほっておいてください。ぼ、僕は確かにあの時、あなたのお世話になりました。か、感謝しているんです」と震えながら答えた。

 それに対し氷室は「何をそんなに固くなっているんです?それじゃまるで僕が何か悪いことでもしたみたいじゃないですか。ひょっとして、あのことをまだ気にしているんですか?いいんですよ。僕にとってはあれはほんのサービスです。1浪時代の相棒としては当然のね。友情の証ですから」と言った。

 そこで彼は初めて速水さんに気付いて「おや、こんなお連れの方がいらっしゃったんですか。なるほど、それじゃ、過去の話はまずいですね」と言いながら、速水さんに会釈して、「申し遅れました。氷室雅之と言います。名前くらいは、ご存知ですよね?」と例の当てつけがましい質問をした。

 速水さんは「いいえ、初めてお聞きします。でも初めまして。速水莉恵子です。武見さんと林君とは夏期講習の数学のコースでご一緒させていただいています。皆さんは、お知り合いですか?」と言った。

 名を知らないと言われて、少しむっとした表情をして「ええ、お二人の友人です。あなた方同士もご友人でしたら、僕もまたその友達ということで、以後よろしくお見知り置き下さい」と言って、哲也さんの方に近付いて、他の人に聞こえないように「ねえ、武見君、僕を彼女に紹介してくれよ。そういうことも気が利かないから、君はいつまで経ってもDクラスあたりをうろうろしているんだよ」と耳打ちした。

 そう言われて、哲也さんはまるで鞭で打たれたみたいに「ひ、氷室雅之さんは、医学部受験コースAクラスのトップで、全ての教科において、へ、偏差値70以上を維持している伝説の人です…」と紹介した。

 そう言われて、氷室雅之はいかにも大げさに眉をひそめて「伝説だなんて、巷で噂されているようなオーバーな表現は止めて下さい。誤解されるじゃないですか。人は自分の手に届かない遥かなる存在を、いとも簡単に天才呼ばわりして、崇め奉ってそれで済ましているようですけど、それじゃ、まるで、僕が何か楽をして今の地位にいるみたいに聞こえますよね。それは全くの誤解だ。ああ、僕はこれでも努力の人だと自分では思っているんです。この苦しみをどうして君たちは理解できないんだ」とまるで一人芝居のように言うと、君の肩を抱いて「さあ、奈津子さん、行きましょう」と言い残して、花火の興奮の醒めやらぬ群衆の闇に消えていった。

 残された僕らは、冷や水を浴びせかけられた捨て犬のように、しばらく黙って立ち尽くしてしまった。僕たちの酔いと、ついさっきまでの心地よい高揚した気持ちは、いっぺんに、どこかに吹き飛んでしまっていた。

 僕は、今あったばかりのことの事実関係、君と氷室のこと、チューターと哲也さんのことなどなどが、一気に頭の中になだれ込み、混乱してショートしてしまった。哲也さんは、何か心の古傷を触られたのか、悄然として、うなだれていた。速水さんはそんな僕らの急な変化を目の当たりにして、おろおろするばかりだった。

 僕たちは力なく、とぼとぼと関内の駅に向かって歩き始めた。誰も何も言わなかった。僕の脳裏には氷室と一緒に去っていった君の姿が、残像のようにまつわり付いて離れなかった。僕と君はもう恋人でも何でもないのだから、君が誰と一緒にいようが、構わないはずだった。それに僕だって、速水さんと一緒にいたじゃないか。そう思っても、どこか心の床が歪んで、大きく傾いてしまうのだった。

 それでも、哲也さんも、速水さんも、そして僕も、記念すべきその日の最後を、何とか持ち直そうと懸命だった。そして、そんな僕らの中で、一番初めに口を開いたのは、意外にも哲也さんだった。

 「いやな奴に会ってしまったと!」その暖かな、どこか抜けた熊本弁の響きは、エンストを起こした僕たちの心のイグニッションキーの役割を果たした。

 (そうだ、そうすればいいんだ。)僕も力いっぱい心のイグニッションを回してみた。「いやな奴に会っちまったじゃん!」と横浜弁で大きく叫んでみた。すると心のエンジンが少しずつ、やがて力強く回転し始めてくれたのだった。そんな僕らの復活を見て、最後に「いやな奴に会ってしまっただ!」と、速水さんが嬉しそうに信州弁で付け加えた頃には、僕たちは何とかもう一度笑い合うことができたのだった。

 関内の駅で、上り電車に乗って帰る哲也さんと、速水さんを、下り電車に乗る僕が見送ることになった。駅の待合いで、ベンチに腰掛け、それぞれの電車を待っていた。

 「泰宏君、さっきの君の質問に対する答えだけど、僕が医学部を受け続けていたのは、1浪目までは、君も既にお察しだと思うけれど『彼女』のためだった。でもそれから先は、単なる迷信を信じていたからなんだ。君も知っていると思うけど、例の成績優秀者名簿に一度でも名前が載った者は、いつか必ず医学部に合格できるっていう迷信さ」そう言って、胸の内ポケットにしまってあった1枚の紙を取り出した。そして、それをしばらく見つめていたが、次の瞬間、何を思ったか、一気に破り捨ててしまった。

 「いいんだよ。こんなものが今まで、僕をだめにしていた。もう僕には、これは必要のないものだから」そう言って笑うと、次に真剣な眼差しで僕を見て「それから、最後に一つだけ僕の言うことを聞いてくれ。これは僕の杞憂だといいんだけど、いつか近い将来、氷室は君にある提案をしてくるかもしれない。でもその時は、その提案を受け入れちゃ、いけないよ。これは最後に君にしてあげられる僕からの唯一のアドバイスだ。それじゃ、また元気で」そう言って、最後にもう一度笑うと、彼は先に上りのホームに向かって歩き始めた。

 「泰宏君、あなたはさっき最後に、彼女は黒い河を流されていて、かわいそうだって、言っていたわね。でも、私は、それは少し違うと思うの。彼女は、冷たい黒い河などを流されてはいない。河に例えるなら、私たちはみんな、自分の運命に向かって、輝く河を遡行しているのよ。私が、彼女だったら、あなたに、あなた自身のために、強い水しぶきを上げて泳いで欲しいと思うわ。私たち、みんなで頑張りましょう。さようなら」僕はそう言われて、はっと、我に返るような気がして、速水さんを見たが、既に彼女の後ろ姿は、哲也さんの後を追って、上りのホームへ小走りに去って行くところだった。

 「ありがとう、みんな。そして、さようなら」僕はそうつぶやくと、下りのホームへと向かった。

 

 夏休みが明けた直後の、秋の全国模試は大成功だった。何と言っても数学が解けた実感があったし、他の教科も全てこれまで以上に手応えがあったのだ。その日はその結果が発表される日だった。僕は、朝から何度も何度も休み時間ごとに、1階のフロアーに成績優秀者の名簿が貼り出されていないか覗きに行き、その度、まだ貼り出されていないので、がっかりして席に戻った。そう、ひょっとして、僕は成績優秀者名簿に名前が載るのではないかとさえ思っていたのだ。

 そして、ついに昼休みに、それは発表された。僕は本番の合格発表を見に来た受験生さながらに、群衆の一番前で目を皿のようにして自分の名前を探した。上位300人の名の、一番下から探し始め、一番上に行き、そして下まで戻ったけれど、そこに自分の名前はなかった。よもや見落としたのではと、もう一度繰り返したが、同じことだった。そこに僕の名前はなかった。

 あれほどの手応えがありながら名前を載せることができないなんて…静かな無力感が僕を支配し始めていた。上位300人の世界は、近寄れば近寄るだけせり上がって、最後は目も眩む垂壁となった断崖の向こう側に浮かぶ、天空の頂なのだ。僕はその垂壁の途中で力つきた惨めなクライマーのような気分で、もう一度、その頂を見上げた。

 頂上にはあの忌々しい氷室雅之の名前が、燦然と輝いていた。悔しいけど、あいつはすごい。本当にすごい。性格はあんないやな奴はいないけど、こればかりは認めざるを得なかった。

 そして、その少し下に『佐藤奈津子』…君の名が載っていた。僕はしばらくその名を見つめた。しかし、今回は君の名が載っていることに、なぜか、ある種のほっとした安心感を覚えた。…君はもう大丈夫だ。僕などがそばにいなくても充分君はやっていける。

 しかし、次の瞬間、僕は心のザイルが切れ、谷底に墜落した。つまり、そのことは、逆に君から見れば、この僕が名簿に載らないということは、君にとって不安なのではあるまいか。君がどういう気持ちでこの名簿を見上げるのか、「ごめんね」って、うつむいて謝るようにしている君の姿を思い浮かべ、僕はいたたまれない気分になって、その場を後にした。

 君と一緒に黒い河を流れているのなら、僕は単に君の重荷でしかないのではなかろうか。

 しかし、教室に戻って、配布された、答案用紙と個人の成績表を見た時、僕のいたたまれない気分は悔しさに変化した。何と、僕は1点足りない308番だったのだ。個人用に配布される成績優秀者名簿の縮刷版の名も、やはり300番で途切れてしまっていた。僕はあまりの悔しさに、返却された答案用紙を穴を開くほど見つめていた。

 そして、次の瞬間、その悔しさは怒りに変化した。数学の解答の何箇所かが消されて、1点足りなくなるように改竄されていたのだ。僕の怒りは爆発し、教室を飛び出し、そのままチューター室に駆け込んだ。

 丁度良く、そこにはチューターがいた。彼女は一瞬、僕の剣幕に狼狽を見せたが、僕はそれを無視して、ことの次第を早口で説明し、僕の名を成績優秀者に訂正して、書き加えるべきだと主張した。

 彼女は答案用紙を手に取って、僕の指摘した箇所を見ていた。そして「あなたは、誰かに消されたと言っているけど、これだけじゃ、はっきりしないわね。確かに一度書いたものを消したような痕跡はあるけれど、訂正しようと思って消して、後で書くつもりが忘れてしまったということだってあるでしょ?それに、あなたみたいに、ぎりぎりでだめだった人の、採点に関係した苦情はよくあるのよ。たいていが勘違いか、思いこみね。もっと冷静になって考えてみてね」と言った。

 その言葉を遮るように「これは誰かに絶対に消されたんです」と僕は断言した。

 それに対して、チューターは「どうして絶対だと言えるの?」と半分怒ったように聞き返した。

 僕は一呼吸、間を置いて「なぜなら、僕は、この夏から消しゴムを使わないことにしたんです」と答えた。

 チューターは一瞬狼狽し、もう一度答案用紙を見つめ直して、消しゴムの痕跡が明らかに残った解答欄を指で擦りながら、うつろな感じで「では、ここには初めから何も書かれていなかった。私には消しゴムで消した痕なんて見えない…そうよ、何も書かれてなどいなかったの」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

 しかし、次の瞬間、何かを確信したように眼を上げて、低い声で「嘘をつくのなら、もっとましな嘘をつくことね。あなたが試験中に消しゴムを使わなかったなんて証拠がどこにあるのよ。あなたはいつでも自由に消しゴムを使うことができたはずだわ。危うく引っかかるところだった。私もこんな嘘をつかれたのは初めてだわ」と言って答案用紙をテーブルの上に投げて返した。

 僕はもう何も言わなかった。言っても無駄だと思った。散らばった答案用紙を拾い集めて、部屋を出ようとする僕にチューターが言った。「あなたに、もう一つだけ忠告するけど、本番の入試の時、あなたは、自分の採点された答案を見ることはできないのよ。それが入試というものじゃない。あなたにとっては、発表された結果だけが全てで、それが運命だと、受け入れるしかないの。ぎりぎりで名簿に載れなかった悔しさはわかるけど、こうして歪んだ形で発散させないで、本番では充分過ぎるくらい、点を取るように努力することね」

 僕には返す言葉がなかった。確かにそのとおりだった。それに、僕自身も、その前の数分間、怒りで自分が何をしているのか、わからないほどだった。1点欲しさになら、でっちあげでも何でもしかねない気分だったのだ。怒って我を忘れた自分の態度をチューターに詫びると、力なく部屋を出た。部屋を出てすぐの所で、扉の陰にいた氷室雅之とすれ違った。わざと肩をぶつけてきた彼は、よろめく僕を見下ろして「気を付けたまえ」と言った。そして、彼はほくそ笑みながら、チューター室に消えた。


 それでも僕は君に今度のテストの結果をすぐにも報告しようと思った。成績優秀者名簿には載れなかったけれど、308番なら、君もいくらかは安心してくれるに違いなかった。伝言板に、『いつもの場所で待ってる。ヤスヒロ』と書き記し、君が気付いてくれることに望みを託して、君とよく待ち合わせをした喫茶店で待っていた。コーヒーを頼んで、外の通りを眺めて、1時間が経った。しかし、行き交う雑踏に、君の姿はいつまでも現れなかった。

 君はいつ来たとも知れず、僕の座っていたテーブルの前に立っていた。服の感じが僕が抱いていたイメージと違っていたので、きっと外にいる時は気が付かなかったのだ。君は黒っぽい派手な柄のワンピースを着て、白いハイヒールを履いていた。そして鈍く光る銀色のハンドバッグを下げていた。それは一瞬、僕に氷室雅之をイメージさせた。服だけではなかった。君から発するイメージそのものがどこか以前と違ってしまったような気がした。

 僕は挨拶も忘れて、唐突に「君は…、君は変わってしまったね」という言葉を口にしてしまった。

 「そう、少しは変わったかもしれないわ。前の私とは違うもの…」と、君は意味ありげな返事をして、テーブルの向かいの席に腰掛け、じっと僕を見つめた。そして「それはそうと今日は何?何か用でもあるの?」と事務的な調子で聞いてきた。

 僕はその雰囲気に、ぎりぎりで載りそびれた成績優秀者名簿のことを言い出せず「特別に用はないんだ。最近、会ってなかったし、どうしたかなって思って」と、その場の気まずさを取り繕うような返事をした。そう言いながらも、思考が、君と氷室との関係について傾斜していくのを抑えるのに必死だった。

 君は「そう。じゃあ、私の方から一つ聞いてみていいかしら?」と切り出して「林君、もし私が、私と一緒に来年T大の医学部を受けてって頼んだら、どうする?」と聞いてきた。それは、突然の、思ってもみなかった質問だった。

 「どうするって。…考えたこともないよ、そんなこと」と僕は答えた。

 それに対し「もちろん、仮の話よ。でも、しっかりと言葉にして、答えて欲しいの」と言って、君は何かを探るような眼差しで僕の瞳を覗き込んだ。

 僕はしばらく考えて「…そうだな。断るよ」と答えた。

 「どうして?」

 「どうしてって、難しいからさ」

 「それだけ?」

 そう受け答えしながら僕はいつか以前に氷室に約束させられたことを思い出していた。心の歯車に物が挟まって軋んだ。(ああ、君はそのことをあいつから聞いて、僕を試しているんだ。)

 僕は「理由はそれだけじゃない。でも、僕にはそれ以上は言えない」と答えるのがやっとだった。

 君は「そう、言葉にはできないことがあるのね。『ある人』が言っていたわ、林君は初めからT大医学部なんて、眼中になかったって。それどころか、T大を受けて落ち続けている人を馬鹿にしているって」と非難するように言った。

 僕は「それは誤解だ。馬鹿になんかしていない」と言った。

 「そう、それじゃ少し質問を変えるわ。あなたはこのまま私が一人でT大学を受けて平気なの?」

 「平気なんかじゃない。ただ…T大学だけは僕には受けられないんだ」心の歯車がまた軋んだ。

 「知っているわ。約束したんでしょ。でもそれは、その人に言わせれば、林君は深層心理で、自分だけ行ける大学にさっさと受かって、私にだけT大を受けさせ、落ち続けるのを見てみたいからだって」

 「そんなことを、僕が思うはずないじゃないか」僕はあまりにもひどい言われ方だと思った。

 「では、どうして私に、あなたが受けようとする大学のことを、教えてくれないの?

私があなたの受けようとする大学を一緒に受けちゃ、だめなの?」

 「もちろん、構わない。僕は君といつも一緒にいたいと思っている。ただ、大学はまだ決めていないんだ…」僕は君の質問に、嘘を言ってはいないが、どれ一つとして、まともに答えられた気がしなかった。

 「私には信じられないわ。あなたは私が一人でT大を受ける気持ちを考えたことがあるの?あなたは自分だけが苦しいと思いこんで、勝手に恋人関係を解消しようとか言い出して、それが二人のためだとか言って、そう言われたら私はどうしたらいいの?」

 後は君の独白だった。そんな痛々しい君を見るのは初めてだった。

 「あの人は違うわ。私とT大を一緒に受けてくれるって。自分は5年も落ち続けているから一緒に合格できるかどうかわからないけどって。それでも私は嬉しかった。あなたは口では一緒にいたいって言いながら、いつも、さよならすることばかり考えているじゃない」そう言い残して君は走るように去っていった。

 僕には返す言葉が一つも見つからなかった。それは考えてもみなかったことだった。君が言うように、僕は僕たちのことを君の視点で見たことが、ただの一度もなかった。けれども、それは『君は僕の世界では絶対の存在で、君が落ちるなんて想像もできなかったからなんだ』と、言いわけを考えてみても虚しかった。

 事実としては、君は誰からも励まされず独りで闘っていたのだ。そして今、君は枯れかかったひまわりのように荒んでしまっている。

 僕はこの2年間いったい何をやってきたのだろう。僕は二人のために、君のためにって思いながら、その実、自分だけのために生きてきてしまったのではなかったか。

 砂が崩れていくような無為な時間が流れた。口も付けずに残していった冷めた紅茶のカップをウエイトレスが運び去った。

 …黒い河を流されて来たのはむしろ僕の方だった。そんな僕に付いてきてくれたのが君だった。思えば、君は唯一落ちるかもしれないT大の医学部を受け続けることで、こんな僕に付いてきてくれたのだ。ああ、僕はどうしたらいいのだろう。僕はこれから君のために何をしたらいいのだろう。黒い河の渦に巻き込まれながら、僕は必死にその答えを探してもがいていた。

 しかし、その流れのすぐ先に、さらに地響きを発てて待ち受ける滝壷の存在に、その時の僕はまだ気付いていなかった。


 秋も深まって、2学期の最後の試験が近付いてきたある日の午後だった。予備校の門から氷室雅之が付けてきて、僕を呼び止めた。僕は彼とは話したくなかったが、君に関係したことでもあると言うので、彼の話に付き合った。

 「いやあ、林君、この前の試験は残念でしたね。聞きましたよ。1点差で名簿から洩れてしまうとはね。本当に残念でした。

 君もご存知でしょ?その紙に名前が載ればいつかは必ずT大か、国公立の医学部に合格できるっていう言い伝えを。僕は正直言って、その言い伝えがあるから、こうして5年も浪人してこれたようなものですよ。いつかは必ず受かると約束されているようなものだもの。両親にだって浪人を続けさせてもらえる口実になりますしね。

 しかも、最近おまけが付きましてね。僕の抗議が実って、予備校サイドが折れて、もし来年、多浪生が不幸にして医学部に不合格だった場合でも、その人が過去に一度でも名簿に名前が載ったことさえあれば、この予備校に通うことができるようになったんですよ。そうでなければ、もうこの予備校に入学すらできない。

 しかし、名簿に載ることの本当の意味は、そんなんじゃない。それは人間関係を支配するんです。例えば人から羨望の眼差しで見られる。おっと、言い方が嫌味でしたね。人から一目置かれると言い換えましょう…」

 「そんなことなら…(聞きたくない。)」と、僕が言いかけたのを遮るように彼は続けた。

 「…それと、恋人からは尊敬される」一瞬、僕が黙ったのを彼は見逃さなかった。

 「名簿に載ることによって得るもの、それは個人の域を越えた、ある種の社会的な力なのです。全ての人間関係において、もちろん恋人関係も含めてですが、それは大きな力を持つんです。それは決して大袈裟でなく、運命すら変えることができる力なんです。まあ、その言い伝え自体は迷信のようなもので、信じる、信じないは自由と、言ってしまえばそれまでですがね。でも、人がそれを信じる限りにおいて、その力は発生するんです。そして、事実は…ほとんどの人がそれを信じるんです。

 いやあ、返す返すも惜しかった。1点差なんて、運だけで実力の差はないに等しいものね。でも、この名簿に載るのと載らないのとでは、得る者と得られない者とに雲泥の差が生じるわけだ」こう言って、彼は僕の反応を見た。

 僕は黙ってうなだれていた。君の顔が浮かんだのである。その顔はいつも「ごめんね」って言っているように見えた。そう、僕の名前が成績優秀者に載って、一番喜んで安心してくれるのは、やはり君なのではないだろうか。そうすれば、君と行きたい大学について、対等の立場で、何の気兼ねもなく相談できて、場合によれば一緒に受験することも夢ではないかもしれないのだ。僕は居ても立ってもいられない気分になった。

 「そこでだ。ここからが本題ですが、僕はそんな君がかわいそうで仕方がないんだ。君にも是非この名簿に名前を載せてもらいたいんですよ。なあに、僕が手伝えばそれは簡単で確実なことなんですよ」

 「手伝うって、何をですか?」僕は聞き返した。

 「まさか君にこれから家庭教師をするなんて言うはずないでしょう」彼は声をひそめて続けた。

 「それは、次のテストで、君と僕の名前を交換するんですよ」

 その時、僕には、夏休みの最後に哲也さんが言っていた氷室からの提案のことが頭をよぎった。訝る僕の表情を見て、意味がわからないと思ったのか彼は繰り返した。

 「いいですか。つまりですね。テストの名前を書く欄に、僕が君の名を書き、君は僕の名を書くんです。具体的には学籍番号のコードの交換も必要なんですがね。全教科でもいいけど、君がいきなりトップに躍り出るのは、さすがにまずいですよね。君の実力なら、苦手な数学だけ交換すればそれでいいんじゃないかな。次のテストは全部マークシートだから、採点はコンピューターまかせで、ばれる心配はありません」 

 それは、何という提案だろう。そう、それは確かに、確実に名簿に名前を載せる方法に思えた。数学ができるようになったといっても僕の場合、コンスタントに得点できる自信はなかった。それに対し、常に偏差値75をキープしている氷室雅之の数学なら点数的には疑う余地は全くなかった。しかし、もう一つ解せないことが僕の頭に浮かんだ。 「どうして、僕にそんなことをしてくれようという気になったんですか?」

 「それはさっきも言ったように君が哀れだからですよ。というのはもちろん、冗談です。君のためじゃない。本当は、けなげな奈津子さんがかわいそうだからです。彼女はいつも君のことを心配していました」そう言われて僕は電撃で打たれたような衝撃を感じた。やはり、僕は君の足を引っ張っていた最低の奴だった。

 「彼女は、彼女は僕のことを何か言っていましたか?」

 「もちろん、素敵ないい人ですってね。正直言って、僕は君に嫉妬しましたよ。でもそんなけなげな彼女を安心させるのに、ベストな方法はこれしかないって、僕は判断したんです。名簿に君の名前が載れば、彼女も安心するんじゃないかな。どうでしょう」

 僕は急所を突かれたように、返す言葉もなくうなだれた。既に、哲也さんのアドバイスは頭から消えてしまっていた。そして、その瞬間を待ち構えていたかのように、彼は最後の一言を付け加えた。

 「でも、一つだけ条件があるんです。実は、僕に彼女を譲ってもらいたいんですよ」 「まあ、譲るも何も、君たちはもう既に恋人同士でも何でもないと、君は形式的には、そう答えるつもりでしょうが。そんな逃げは許さない」

 「いやね、僕が聞きたいのは君の口から発せられる生の言葉だ。君がその名簿に載りたいために、『彼女を譲る』というそのセリフだ」

 「まあ、まだ時間はあります。ゆっくりと考えてください」

こう言い残すと、彼は勝ち誇ったように笑みを浮かべて立ち去った。 

 

 瑠璃色の夢を見た。銀色のアタッシュケースにサイケデリックなスーツを着こなした俺、林泰宏。その名は受験界では知らぬ者のないS予備校の医A-0001。毎日が羨望の眼差しに晒されながらも、どこかに悲運の貴公子の面影を漂わせ、女子学生の間ではファンクラブまである御身分さ。T大医学部を受け続けて、はや5年の歳月が経つ。

 この悲劇のヒーローは最近、被害妄想で、多少ヒステリック気味。予備校で、解剖学の教科書をこれ見よがしに広げ、ラテン語の勉強する振りもそろそろ飽きてきた。ふと気が付くと、まわりは4歳も下のガキどもばかり。中には廊下で抱き合って、いちゃつく恋人までいて、むかつくが、もっと気に食わないのは純愛してる奴らだ。大学入るまでの打算に過ぎないくせに、いいかっこして、清く正しくご交際か。そんなポーズには虫酸が走る。

 中でも、最近、学力の伸びてきた氷室雅之とかいう2浪のガキには反吐が出そうだ。この前も、危うく奴が自分自身で名簿に名前を載せてしまうところだったが、消しゴム使って、うまく阻止してやったぜ。ざまあみろ。だが、それだけじゃ許せない。なにしろ奴の彼女は俺のクラスの佐藤奈津子じゃないか。俺のクラスの女子学生は全て俺のものだということを思い知らせてやる。

 もうじきだ。そう、もうじきこのゲームの最後のパーツが手に入る。奴のセリフというパーツがね。そうつぶやいて鏡を見た。そこには昨夜寝た女子学生が出て行った後の、乱れたベッドが映っていた。

 …力ずくなんて、野暮なことはしないよ。俺の方法はね。俺はもっとスマートに花を摘み採る。そう、甘い餌と引き替えに、奴の方から献上させるように仕向けるんだ。『彼女を譲ります。さあ、どうぞ』ってね。…そのセリフを吐いた瞬間に、今まで純愛面してた奴の、微熱を帯びた、心の性器が射精するんだ。いやだねえ。

 俺はかつて、女とヤルために、苦労して医者になろうと決めた。医者ってのは、もてるらしいからね。でも、もっと手っ取り早く、ものにする方法があるじゃないかって、気が付いたのさ。

 このままでいいんだよ。偏差値75の医学部受験生で。成績さえ良ければ、それでいいんだ。今、俺はいつでも、思いのままに好きな女とヤレる。佐藤奈津子とだって…アルバムを開くと、そこには校舎の屋上から望遠レンズで撮影したクラスの女子学生の写真が載っていた。そのうちの一人に目を止めた。

 …佐藤奈津子か。彼女は処女だろうか。情熱的な瞳。小麦色の肌。花に例えるなら、そう…それはまるで『ひまわり』だ。でも、ひまわりって花は、摘めるんだろうか?…ははは。ベッドの上に身を投げ、笑い転げた。そう考えると、しばらくは愉快な気分に浸れた。が、それも長くは続かなかった。

 俺の退屈はあまりに長過ぎたからな。たばこに火を点けて、上っていく紫の煙をしばらく眺めていた。その行く手の、淡い闇の中央に、ほの白く、壁が浮かび上がった。

 そうだ、あの壁に氷室雅之の例の写真を飾って、その下でヤルんだ。


 誰もいない午前11時の公園、働く人々は仕事に、学校の生徒たちは勉強に、皆それぞれが集中している時間帯、僕はベンチに腰掛け、両腕を広げてのけぞったまま動かない。今、この時間に止まっている者は僕以外にない。気分が悪くて、予備校を抜け出してきたのだ。お日様が真上にあって、白い砂場には、何の影を落とすものもない。じっとその風景を見つめていると、やがて網膜がやられて、あたりは、白い闇に紛れていく。

 いつかも、これと似たことがあったな。あれは確か、小学校の低学年の頃だった。学校で、熱が出た僕は、保健室でしばらく横になった後、早退で家に帰されたのだった。いつも学校帰りの放課後に遊んでいた公園を通り抜ける途中で、ベンチに腰掛けて、一休みしたことがあったっけ。あの時は熱で頭がぼうっとしていたな。それでも僕は寂しくて、みんなのいる学校に戻りたかった。

 誰もいない、独りぼっちの公園。取り残された午前11時の公園。白い闇が、やけに眩しくて、目を閉じれば、そこは、赤い闇が続いていた。


 赤黒い闇の中を、息を殺して、足音を忍ばせ尾行する。足の裏は、こわばりと充血でむず痒い。両手は汗にまみれて、握った拳がポケットの中で滑った。君の後を尾行して行く。首を潰され声の出ない僕。君のすぐ横には、銀色のアタッシュケースを下げ、やけにひょろっとした男の影が行く。雑踏の合間を抜け、迷路の街角を曲がり、君は、ややうつむき加減に、しかし、しっかりとした足どりで、躊躇なく付いて行く。それは既にその行動が、君の意志と化していることを証明しているかのように、残酷に、その足音は乱れることはなかった。

 やがて二つの影は一つに重なり、とあるアパートに吸い込まれていった。一つの部屋に明かりが灯った。それはまるで黒い壁面に飾られた黄色い背景の絵のようだ。時折、影絵の様に何かが揺れている。

 凍り付く視線。

 これから起こること…物理のお勉強に、決まっているよね。

 僕がE=mc2 …と祈り終わりもしないのに、

 絵は突然、

 音もなく消えた。

 闇。

 心臓の鼓動が側頸部に立ち籠めて、耳に獣が息を吹きかけてくる音がする。

 耳鳴りが長く続いた。

 

 黒い闇の中で、突然、人の声がした。見るといつの間にか、女が傍らに立っていた。その女が語りかけた。

 「林君ね」やけに馴れ馴れしい口調で、どこか聞き覚えがあった。闇に目を凝らして見ると、それはチューターの橋爪だった。

 「どうしてあなたがここに?」僕は声にならない声を絞って聞いた。

 「偶然よ。私はいつもここに来るの。そしたら、あなたが少し先に来ていただけ」  「あ、あなたは、氷室雅之の何なんですか?」

 「そうね。私は彼の女よ。一応はね」

 「い、一応って、彼があんなことしてて、平気なんですか?」

 「あんなことって、どんなこと?」

 「そ、それは…」僕は足が震えだした。

 「何を、怯えているのよ。今さら。全て、あなたが承諾したことじゃない。チューターには全てがお見通し。…あなたは紙っぺら1枚のために、彼女を売ったんだ」

 「僕は、僕は売ったんじゃない。彼女のために…、彼女が僕を心配するから、安心させようと思って」

 「随分としょっているのね。自分に都合良く理屈をこねてごまかすのもいい加減にしたら。」

 僕には返す言葉はなかった。

 「だから…ああ…僕は何てことをしてしまったんだ」狼狽する僕の様子を見て、彼女は続けた。

 「いいのよ。自分だけを責めなくても。あなただけじゃないもの。あいつはこの時期になると毎年、同じことをしてきたの。去年も、一昨年も、そして、その前も…私を初めにね。あいつは言った。哲也がこうしろって言ったのだと。壁には醜い哲也の写真が貼ってあった。私は涙も出なかった。そうよ、4年前のこの時、ここに立っていたのは武見哲也だった」

 「ああ、本当は私、君がここに来てくれたことが嬉しいの。少しは傷が癒えるの。哲也だけじゃないんだってね。人間の心は弱いもの…」そう言うと、その女は目を閉じて涙を浮かべた。

 次の瞬間、闇の中で、彼女の横顔に、恍惚の炎がめらめらと燃え上がったかと思うと、彼女は僕の胸に飛び込んできた。

 「ねえ、これから私を抱いてくれる?」

 低い獣の声がした。

 

 今は何時だろう。ここはどこだろう。気が付くと都会の小さな公園のベンチで、僕は眠っていたようだ。頭の芯が疼いて、軽い吐き気もあった。服は汗でぐっしょりと濡れて冷たかった。夕陽が沈み、ビル街は帰宅を急ぐ、雑踏のざわめきで溢れていた。

 僕は大きく伸びをし、今、見ていたばかりの夢の尻尾を懸命に捕まえようとしてみたが、無駄だった。まあ、所詮、夢なんてそんなものさ。

 氷室雅之から例の申し出があってからというもの、全くと言っていいほど、集中力が落ちてしまっていた。体調も最悪だった。

 公園にある水道の蛇口で火照った頭を冷やした。髪の毛から滴る冷たい水滴を見ていると、ふと、こんな所で、貴重な時間を潰してしまった自分自身に嫌悪が沸き起こった。「どうしたんだ泰宏…」そうつぶやいて、鉛のように重くなった体に闊を入れ、帰り支度をして公園を出た。

 しばらく行くと、そこには、どこか見覚えのあるラーメンの屋台が出ていた。僕は懐かしさで思わず足を止めた。その懐かしさは、どこかあの太い腕の巨人のイメージにつながっていた。

 (ああ、この屋台は確か、憶康君の…、親父さんは元気かな?)立ち寄ろうとして、はっと、息を呑んだ。のれんの隙間から裸電球に照らされた、主人の横顔が見えたのだ。

 それはまだ少年の横顔だった。少年は一人だった。一所懸命、客の注文を取り、慣れない手つきで麺をゆでている。将来は医者になりたいと言っていた君。君は暖かい部屋でぬくぬくと勉強だけをしていればいい僕などと違って、これからも幾多の困難を乗り越えていかねばならないに違いなかった。そんな黙々と働く少年の横顔に、僕は申しわけなさに胸が張り裂けそうだった。

 「頑張れよ!憶康君。僕も、頑張るからな!」

僕は心に強く、そう言い聞かせるようにして、その場を走り去った。


 予備校の校舎の6階、最上階のフロアーには医学部受験コースAクラスがあった。僕は500人を収容する、その大教室の前の入り口から、一番左前の席を凝視した。そして、その席に座っている長身の男に廊下に出て来るよう目配せした。男は僕に気付いて、含み笑いを見せながらゆっくりと出て来た。

 「やあ、林君。例の件の返事ですね?それだったら、またチューター室で写真を撮りながら、お願いしたいのですが…」

 「ええ、そのことですけど、今、ここではっきり、お断りします。僕は自分のテストには自分の名前を書きます。ですから、あなたもそうしてください」

 氷室雅之は一瞬、耳を疑って「でも、それじゃ君の名は永遠に名簿に載らないと思いますよ。下手をすると、来年は宅浪ですよ。僕も、もう、2度とこんな気まぐれは起こさないだろうし、これは、千載一遇のチャンスなんですよ」

 「いえ、僕にとっては来年が最後の医学部受験です。僕はそれに向かって全力を尽くせれば、それでいいんです。ですから、そんな名簿に名前を載せる必要はありません。」

 「では僕の好意を踏みにじるっていうことですか。それに彼女にこのまま、心配をかけたままじゃ、申しわけないでしょう。ほら、あそこをご覧なさい。彼女、沈んでいるでしょう?君は彼女を安心させるためにも、名簿に名前を載せるんじゃなかったんですか?」そう言うと、彼は君の席を指差した。

 僕はそれを無視し、「いえ、彼女のためと言うのなら、僕は彼女に心から好きだと言ってあげられることの方が大切だと思うんです。あなたに助けてもらって名前が名簿に載ってしまったら、僕は永遠に彼女にそう言えなくなってしまう。

 彼女は今でも僕の大切な恋人です。彼女を譲りたいとは思わない。そんなセリフは口にしない。

 でも、あなたは、情けない僕に代わって半年間、彼女を支えてくれました。僕はそのことを感謝しています。ですから、彼女があなたを選ぶのなら、その時は潔く、僕はそれを祝福します。」こう言って僕は笑った。

 「そうかなあ、君はいつかきっと後悔しますよ」

 「いえ、それはむしろ逆だと思います。じゃあ、失礼します」そう言い残して立ち去った。

 「おい、ちょっと待ってくれないかな…」後ろから氷室雅之が呼び止めたが、僕は2度と振り向かなかった。

 この時の彼の予言は、一つだけ当たっていた。僕はついに名簿に名前を載せることができなかった。


 年が明けて、1月某日の夕暮れ、その日は、前日と、前々日にあった大学共通試験の自己採点の結果を予備校に報告する日で、その帰りだった。下りの電車の中は、休日にも関わらず、折からのラッシュと重なって混雑していた。

 僕の傍らには君がいた。予備校のコンピューター室に自己採点の結果を報告して、例の喫茶店の前で、偶然、君と出会い、一緒に帰ろうということになったのだった。

 久しぶりで会った君は幾分やつれて見えた。君はそれを意識してか、つとめて明るく振る舞おうとしていた。君とそういうふうに帰るのは、本当に久しぶりだった。試験は君はもちろんできたに違いなかったし、僕の方にも手応えがあった。でも、二人ともなぜかその話題には触れようとしなかった。テストというものが氷室雅之を連想させるからだろうか。 

 …彼にまつわる事件の噂が、その時の僕たちに微妙な影を落としていたことは否定できなかった。それは、事実であろうとなかろうと、僕たちにとって、衝撃的な噂には違いなかった。 

 氷室雅之は暮れの12月に忽然と姿を消した。

 噂では、彼はカンニングの常習犯だったのだ。その方法は、模擬試験の前日に、チューターの橋爪富由子が、金庫にしまってある模範解答を1部盗み出し、それを彼が受け取って憶えてから、試験を受けるといったものだった。

 氷室雅之の成績は統計的にも、あまりにも有意に良過ぎて不自然だった。不信に思った予備校の成績検討委員会が、一部で、極秘に調査を進めていたのだ。そこで、試験の数日前に、金庫の前に隠しカメラを設置し、模範解答にちょっとした細工をして、事前に模範解答を見た者にしか絶対にマークできない、罠の問題を1問作成しておいた。すると、隠しカメラには橋爪富由子が映り、罠の問題に落ちたのは、誰あろう、氷室雅之だったのだ。彼女は懲戒免職され、彼は放校処分となった。

 予備校当局はこの事件を秘密裏に処理しようとしたものの、暮れに、その噂は予備校中でアッと言う間に広まった。そのきっかけは、武見哲也さんが氷室雅之と橋爪富由子をチューター室に拉致して、半日、出て来なかった事件が続発したからだった。

 職員がチューター室の扉をこじ開け、哲也さんを取り押さえた時には、顔を腫らした氷室雅之が、放心状態で丸椅子に腰掛けていた。その脇で、泣き潰れた橋爪富由子が手首を切って倒れていたのだ…。


 電車の中は成人式の帰りで、美しい和服姿の女性も目立っていた。時折、屈託のない彼女たちの笑い声が車内に響いたりした。

 そんな同い歳の彼女たちと、君を対比することは残酷なことだった。そのつもりもなかったのに、僕が何気なく「僕たちも本当は今日、成人式だったんだね。君の振り袖姿を見てみたかったな」ってつぶやくと、君は「お化粧もしてこないで、ごめんね」と言って、前夜、うたた寝してストーブで焦がしたというコートの裾を指して、少し寂しそうに笑った。

 「そんな、こと…」って僕は言いかけて、次の言葉は胸の中にそっとしまい込んだ。(君はそのままで、とても綺麗だよ。)

 しばらく目をつぶれば、遠くひまわりの草原に、君の姿が映った気がした。

(君のこと、好きだよ。)

 僕はいつでも、そう言える気がした。

 電車は更に混雑してきて、僕たちはドアと座席の作る狭い空間に押し込められていった。君は僕の胸の前で後ろ向きになって、二人で暗くなっていく窓の外を眺めていた。僕は、いつまでもそうしていたいと思ったその時、ふと、窓に映った君の頬に、涙がつたうのを見た。

 (ああ、僕は君に何もしてあげられない。守ってもあげられない。)

 僕は君を抱きしめたいのを必死でこらえながら、ただひたすら腕で君の空間を支えていた。電車が揺れる度に、渾身の力を込めて…。


 林 泰宏  昭和64年 S大学医学部 合格

 速水莉恵子 昭和64年 S大学医学部 合格

 武見哲也  昭和64年 K大学医学部 合格

 佐藤奈津子 昭和65年 H医科大学  合格

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― 新着の感想 ―
[一言] 序盤の浪人生を取り巻く環境への描写はとてもリアルで説得力があるもので、ぐいぐい引き込まれて読みました。 小説への期待が前半部分で高くなり過ぎたため、後半はやや失速しているように残念ながら感じ…
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