4.「急転」
5月14日 木ようび
この日は寝坊することなく起きることが出来た。
いつもの朝と同じように家族4人で朝食をとり、いつもの朝と同じように歯を磨いて髪を整え、いつもの朝と同じように妹のかわいい姿を写真に撮り(今日は三つ編みに髪を結っている最中を撮らせてもらった)、いつもの朝と同じように家を出た。
波乱が起きる日は、得てして「いつも通り」始まるものだ。
鴎のために朝食を買い、クラスでは相変わらず足立が面倒くさいことを言ってきて、昼食は菱川に作ってもらったものを一緒に食べて、午後の授業はちょっと眠くて、今日はバイトがないからそのまま家に帰って、夕食を母と妹と一緒に食べて―――
この日も「いつも通り」終わると思っていたんだ。
菱川から、今日の帰りは夜の8時半~9時頃になるだろうというメッセージが届いた。現在7時45分、「そろそろ行くか」とランニングウェアに着替えると、鴎がそれまでプレイしていたゲームを終わりにしていた。
「オレがいない間も、ゲームやっていてもイイんだぞ?」
「携帯ゲーム機ならともかく、据置ゲーム機はマズイっしょ。」
「どうしてだ?」
そう訊くと、言ってイイものなのか悩んでいるような唸り声が聞こえた。
「ゔ~~~、ショック受けんなよ? 準稀が出てってる間、妹ちゃんが部屋にこそっと入ってくるんだよ。」
「あー、汐乃にはいつでも部屋に入ってイイって言ってるからな。」
「は!? なんで?」
「アイツの部屋、パソコンないからさ。パソコンが必要なときは勝手に入って勝手に使ってイイって言ってるんだよ。」
「兄妹でパソコン共有とかマジかよ……見せられないものとか保存してないの?」
長考する。
ウソはつきたくない。が、正直に言うワケにもいかない。
「汐乃は、オレが見せたくないものをわざわざ暴いたりしないさ。」
「あ、論点すりかえた。」
ソッコーでバレた。
「ということは、準稀は妹に見せられないエロエロ画像をパソコンに保存した上で、妹ちゃんに敢えてパソコンを使わせて興奮してるド変態ってことだな。」
ハリルホジッチ監督時代の日本代表みたいな縦に速いカウンターが炸裂した。
「んで、どうしてゲームやめたんだ?」
「携帯ゲーム機なら“私の所有物”だけど、据置ゲーム機だとテレビは準稀のだから“私の所有物”じゃなくて透明化されないんだよ。」
なるほど、汐乃が部屋に入ってきたときに「誰もいないのにゲーム画面だけ動いている」状態になりかねないってことか。それはマズイ。
「今日はそんな時間かからずに戻ってくると思うから、それまで我慢しててくれ。」
「うぃー、部屋に置いてもらってる身だから文句言いませんよー。」
このタイミングなら訊けるかなと思ったので、思いきって訊いてみた。
「鴎、ヘプタスロンの5人なら誰推し?」
「教えない。」
◇
マンションを出て菱川のマンションまで走って30分ほど。
その間に考えを整理する。
汐乃は「なぎさちゃんのことをキライになれる人間なんて、私には存在するとは思えない」と言っていた。日本中の老若男女から愛される菱川なぎさ―――「ストーカー」というのも言ってしまえば、菱川を愛したが故の暴走だろう。
しかし、最初に「菱川の住むマンションの写真と住所」をインターネット上に流したヤツはどうだろう?
もし菱川の熱心なファンがたまたまそれを知ったからと言って、インターネットで拡散させるとは思えない。どっちかというと、その情報は自分だけで一人占めしたがるんじゃなかろうか。
菱川なぎさへの「悪意」がそこにはあるように思える。
インターネット上に拡散させることで、菱川なぎさがトラブルに巻き込まれることを望んだヤツがいるんだ。
日本中の老若男女から愛されて――――
「キライになれる人間なんて存在しない」と言われる菱川なぎさ――――
だが、「キライになれる人間」にたった一人だけオレには思い当たる人物がいる。彼女がそれをやったという確信はないので、もう少し情報が欲しい。
◇
菱川のマンション周りに着いたのは夜の8時半だった。
まだ菱川は帰っていないみたいだし、オレから見る限り不審人物は見当たらない。「ストーカー」なんて本当はいないんじゃないか、そんなことを思ってしまったのが間違いだった。
自動販売機で缶コーヒーを買ったところで、LINEにメッセージが届く。
菱川からかと思ったら、送り主は鴎だった。急いでいるからか、そのメッセージは途切れ途切れで、少しずつ送られてきた。
―――やっぱりだ
―――尾行されているのは
―――じゅんき、オマエだった
オレは菱川を助けたかった。
本当は「ストーカー」なんていなかったとしても、彼女が安心できればそれでイイと思っていた。浅はかだった。オ レ こ そ が 菱 川 を 窮 地 に 追 い 込 む ことを考えていなかった。
見通しの悪い路地。
決して数の多くない街灯に、一瞬だけ照らされた人影があった。
国民的アイドル:菱川なぎさがこちらに向かって歩いていた。
その暗闇に紛れるようにゆっくりと後ろから追いかけてきているのがワンボックスの車だった。
車の後部ドアが開く。
そこから伸びる二人分の手は、菱川の体全身をつかみとろうと近づいていく。
右手に持っていたスマホを放り投げるように落とす。
左手に持っている缶コーヒーを握り直す。これを投げてぶつければ、なんて考えて、考えていたのに体が、動かない。
スローモーションのようにゆっくりと走る車から伸びる手。それに気づいていない菱川。しかし、オレの体は金縛りにあったかのように動かない。全身から汗が噴き出す。まるで、まるであの暑い夏の日のように。
投げたボールと、倒れた人と、失われた可能性と、罪悪感と、後悔と―――人助けをすることで、逃げたかったのか。過去のことにしたかったのか。オレはまた、オレのせいで、オレなんかがいたから――――!
「後ろからっ来ているぞっ!!!」
その叫び声は鴎だった。
単に車が来ていると言われたと思った菱川はゆっくりと振り返り、自分を飲み込もうとしているその車と手に慌てて後ろに飛び避け、そして尻もちをついた。そのおかげで二人分の手は空振りになって、車は菱川の横を通りすぎた。
「菱川ぁあああああ!」
ようやくオレの声帯と体が動いてくれた。
全速力で駆けるが、車から男が一人降りて菱川の腕をつかみ、そのまま体を持ち上げて車の中にぶちこもうとしている。菱川も必死に抵抗しているが、その体格差では、ダメだ! 間に合わない!!
「っ! うっ! たすけっ、だれか」
菱川の泣きそうな、ようやく絞りだされたような悲鳴。
その瞬間、
菱川をつかんでいた男の胴体が、くの字に折れ曲がり、そして吹っ飛んでいった。右バッターにとって一番打ちごろのベルト付近のど真ん中を振りぬいた位置だ。
筋力の量に差があるとは言っても、体格の差があると言っても、まったく身構えていないところを全力で攻撃されたら苦しいものだ。
鴎、アイツ、オレがあげたバットで変質者をぶっ飛ばしやがったな。
しかし、そのおかげで菱川は男の腕を振り切り、ワンボックスの車は急発進してさっさとどっかに走り去ってくれた。
オレはダッシュの勢いのまま、鴎にぶん殴られてうずくまっている男のみぞおちをそのまま踏んづけた。息ができなくなって苦しんでいる男をうつ伏せにして両腕を後ろにして押さえつける。
狭い路地とは言え、流石に何かがあったことに気付いた周囲の人がザワザワと近づいてきた。
「警察を呼んでください! 早く!」
あまり大ごとにはしたくなかったが、これはもうそんなことを言っていられる状態ではない。菱川の思い過ごしかも知れなかった「ストーカー」が、オレのせいで実際に現れて、危うく車に入れられて拉致される寸前だったのだ。
男を押さえつけたまま菱川の方を見る。
OL風の女性が何人か、彼女の周りに寄り添ってくれて安心したが……菱川は泣いていた。ワンワンと、小さな子供みたいに泣き散らしていた。
そんな菱川を見たのは初めてだった。




