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【6】錆アタマ

「あぶねぇよ。何やってんだ?」

「あっ……」

「車来てるじゃんか。鈍いヤツだな」

 尚美はただ、彼のぶっきら棒な口調を読み取る。

 ――錆アタマ……。

 緩やかな風に、短い茶色の髪がサラサラと揺れていた。

「あれ? お前、今日ウチに来たアレか? クラスメイトってやつ?」

 彼は表情を一定に保ったまま、怒ったように喋る。

 細い眉は、落書きの似顔絵のようだった。

 何かを諭したような切れ長の眼差しが、ジッと尚美を見ていた。

 しかし、尚美の耳に届く彼の声のノイズは、何故だか温かみを含んでいた。

 彼女の二の腕を掴んだ彼の手から、洋服を通して体温を感じたせいかもしれない。

 尚美は彼の口元から目が離せなかった。

「あ……」

 ――ありがとう。

 その言葉は出なかった。

 何時もそうだ。

 ありがとうの言葉さえ、自分の発音や音調を咄嗟に考えて躊躇してしまう。

 自分で自分の声が聞こえない事を怨嗟する瞬間でもある。

 ふざけあった集団が遠ざかると、ガサツなノイズも遠ざかっていった。

「大丈夫か? お前」

 彼を見上げたまま、呆けた顔の尚美に圭吾は言った。

 暖かいノイズは、唇を読まなくても彼の声だと判った。

 優しい音……。


 昔、小学5年の頃父親が山へハイキングに連れて行ってくれた。

 朝靄のかかる緑に囲まれた早朝の奥深い森。

 遠足で出かけた観光地の山とは全く違っていた。

 山々を囲む森の静けさに靡く小鳥の囀り。

 沢の流れ。

 それは不思議な和音を奏でる。

「どうした?」

 周囲をきょろきょろと見渡す尚美に、父が言った。

 尚美の耳には、街の雑踏とは違うやさしいメロディーが幾重にもなって耳に入って来る。

 それは森を囲む山全体を包むようで、別世界を感じた。

 蒼い空が風に囁いていた。

 柔らかな重奏おとの波に、自分が埋もれ行くようにも感じる。

「鳥の声だよ」父が笑う。

 彼女が周囲に視線をめぐらす理由を父は読み取っていた。

「鳥?」

 尚美は上ずった声でたどたどしく言う。

「この山には野鳥が多く棲んでるから、種類も豊富でいろんな声が聞こえる」

 尚美は今まで聞いたこと無い優しい音を堪能するだけで、その山が好きになった。

 幾つにも重なった小さな重奏おとは、フィルターを通したようにクリアで柔らかく、彼女の耳に心地よく響いた。

 それは雑音や騒音ではなかった。

 山が歌っていた。

 そんな音の記憶が、圭吾の声に重なった。


 尚美は小さく何度も頷いて、圭吾から一歩遠ざかる。

 圭吾の手が、彼女の腕から離れた。

「ふざけた奴らだよな。人の事突き飛ばして知らん顔なんてさ」

 圭吾は尚美の頭越しに遠ざかる集団を見た。

 ぶっきら棒な口調で、眉間にシワを寄せると益々怖い顔になる。

 でも、その口から発する音は、やっぱり優しかった。

 尚美も振り返って集団を見るが、直ぐに彼の顔に視線を戻した。

 彼の言葉を読み取りそびれないように。


 緋色の空が深い藍色に変わり始めると、駐車場に立ち並ぶ幾つもの街灯が一斉に燈を灯した。

 それはまるで、シンデレラが深夜12時の鐘を聞いた時のような、一瞬で目の覚める光景だった。

 暮色の近づいた周囲の景色が、パッと銀色に開ける。

 尚美は買い物の事を思い出して、彼に小さく頭を下げると小走りに立ち去る。

 途中、振り返って彼を見たかったけれど、そのままイオンスーパーの入り口へ滑り込んだ。

 二重の自動ドアを抜けて、店内通路で立ち止まる。

 ――舘内圭吾……。

 心の中で、彼の名前を呟いてみた。




「遅かったじゃない。ちょっと心配しちゃったわ」

 尚美が買い物から帰ると、母親が言った。

「うん……」

 尚美はそう言いながら『ちょっとね』と手話を使う。

 そそくさと話したい事は、喋るよりも手話が楽だった。

「どうかしたの?」

 母親の顔が微かに曇る。

「べ、べつに」今度は言葉を発する。

「ジャスコでナンパでもされた?」

 リビングから顔を出したのは、姉の志美ゆきみだ。

 高校生の彼女はあまり家にいないし、いても家族と団欒する事は少ない。

 中学の頃からあまり家族の団欒に加わらなくなった。

 織堂しきどう家は尚美が生まれた時から彼女にかかりきりで、志美は独りにされる事が多かった。

 だからと言って妹を恨んだりはしていない。

 実際姉妹は意外なほど仲はいいし、両親よりも早く手話を覚えたのも志美だった。

 両親の愛情が尚美に片寄っている事も充分に解っているし、妹が大変なハンディを背負って生きている事も理解している。

 だから志美は、風邪で熱を出しても両親に言わない事がよくあった。

 そんな時、妹の尚美が察知して母親に告げるのだった。

「うるさい」

 尚美は声を出すと、片手を突き出して犬を追い払うようなジェスチャーを見せる。

「ナンパくらいされなさいよ」

 志美は悪戯っぽく笑うと、キッチンを通り過ぎて階段を上っていった。

 尚美は買い物袋からケチャップや食パンを取り出すと

「宿題あるから」

 そう言って、自分の部屋へ向かった。

 けれど宿題はない。

 新学期が始まって間もない学校の授業はまだ担当科目の教師の自己紹介やわき道にそれた内容が多く、教科書もほとんど触り程度だった。

 尚美はベッドに横たわって目を閉じる。

 優しい音が、脳裏に蘇える。

 山々に響き渡る小川のせせらぎと、包み込むような小鳥たちの囀り……。

 暖かな陽射しが溶け出して、身体を抱きとめる。

 正確な音を感じる事は出来ないが、だからこそ周波数を通して音質の違いに敏感なのかもしれない。

 そこに、彼の怒ったような眼差しが飛び込んでくる。

 唇の隙間から覗く白い歯と、言葉を発したときに動いていた逞しい喉仏。

 尚美は、胸の中に小さな熱い火種を感じて心がざわついた。

 鼓動が少しだけ高鳴るのを感じる。

 それは高揚するような、心地の良いざわめきだった。







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