【60】窓越し
だいぶ時間が経ちましたが、お話は続きます(^^;
少々多忙で、構成の編集に時間がかかってしまいました。
今回は少し長くなってしまいました。
けっきょく僕は、7月の夏期講習で彼女に声をかけられなかった。
近づくチャンスはあったかもしれない。
でも僕はどうしても、彼女の肩に手の届く距離には入れなかった。
触れたら壊れてしまいそうな華奢な肩は、穢れを知らない真っ白なブラウスにいつも守られていた。
夏期講習の最終日、友達と控えめな挨拶を交わして彼女は塾の入ったビルの外へ出た。
僕はその後を追えずに、わざと少し時間を置いてから建物の外へ出る。
真昼の夏空が眩しくて目を細めた。
並木の向こうの民家の屋根を今にも呑み込むほど、入道雲が立ち昇っていた。
見上げると、トンビが宙を舞っているのが見えた。
茹だった風が頬を撫で上げ、焼けたアスファルトの匂いを運んできた。
翌日は図書館へ行った。
小さな丘の上にある市立図書館で、敷地は緑に囲まれ、建物はレンガ調の外壁がところどころ崩れている。
高校一年の時以来に来たそこは、以前とまったく代わり映えしない長閑な装いだった。
どうしてふと図書館などに来たのか、自分でもよく判らない。
夏期講習で強制的に学問を詰め込まれていたから、何か自分の意思で活字が読みたくなったのかもしれない。
それがタダで……という特権に惹かれたのだろうか。
しかし前に来て思ったが、この図書館はなかなか新しい書籍を借りる事は出来ない。
在庫が少ないのか、借りた人間がなかなか返さないのか、在庫目録に載っていても本当は在庫自体が無いのか――それは定かではないけれど。
高い本棚の間を僕はグルグルと歩き続けた。
何が読みたいというのは無いけれど、古びた在庫が目につく。
ソファの置かれたロビーの隅に低い雑誌用のラックがある。
薄っぺらな雑誌や写真集が差し込み棚に面陳列されていた。
ふと目についたのは夕映えの高原が映った、まるでCDジャケットのような小さな冊子だった。
僕はそれに手を伸ばす。
『空』と大きく書かれたタイトルは、有名な風景写真家の写真集らしい。
ぱらぱらとページを捲ると、タイトル通り様々な『空』の顔がそこにはあった。
ひまわり越しの蒼旻天を僕はしばらく眺めていた。
雲ひとつ無い北海道の空は、まるで南海のグレートバリアリーフのようだ。
石を投げ入れたら、呑み込んでしまいそうなほどの蒼。
窓から注ぐ陽射しが、僕の手元をじりじりと照らしていた。
向いの席で新聞を捲る老人の動作で、僕は写真集を閉じた。
ラックに本を戻そうとして手を伸ばすと、誰かの小さな手が滑り込んでくるのが見える。
白くて細くて、子供のものかと思うくらい小さな手だった。
見上げるとそこには、僕だけが見慣れた少女がいる。
夏の陽を浴びて、黒髪が艶やかに揺れていた。
「あっ」
その声は僕のものだったか、それとも彼女のものだったか……。
背中からせり上がる一瞬の緊張で、僕の記憶はいささか曖昧だ。
彼女は僕が取り出した本の直ぐ下にあった、星空の本を手に取ろうとしていた。
僕は慌てて本を手から離し、両手を空ける。
『こ、こ、こんにちは』両手が絡んで、あたふたした――通じるのか?
大きな窓からは充分すぎるほどの光が満ちて、彼女の頬を白く照らしている。
夏なのにどうしてこんなに白い頬なのだろうと思う。
授業で外に出たりすれば、自然に日焼けするのが学生の日常だ。
瞳が細く弧を描いた。
『こんにちは』
見上げる僕に、彼女は伸ばした手をいちど胸元へ戻して、確かにそう返した。
◆ ◆ ◆
細い雨が降り注いでいた。
秋の訪れを感じさせる果敢無さが、雨音に吸い込まれてゆく。
押し潰されそうなほど低い雲から、次々に冷たいそれは二人の遥か頭上を音も無く叩く。
新幹線のホームは予想以上に寒かった。
アクリルの天井が飴色に滲んで、今にも零れ落ちそうになっていた。
平日のせいか、ビジネススーツの乗客がホームにバラついている。
『また、逢えるかな?』
尚美は困ったような笑顔で、手を動かす。
『解らない』
圭吾は社交辞令が嫌いだった。
解らない事を出来ると約束するのは嫌だった。
口先だけで何かを約束して結局成し遂げられなければ、父親と同じだと思ったから。
時間は静かに流れる。
朝の冷えた静けさは、清々しくもあり何処か空虚で荒涼でもある。
圭吾の耳だけには静かな雨音が響いていた。
沈黙の中に少ない言葉が飛び交う。
それは二人の名残惜しさの表れでもあった。
別れの時間が来なければいい。そんな想いは、ふたりに言葉を飲み込ませる。
冷たい空気が動いた。
チャイムのような音が聞こえて構内放送が流れる。
列車がホームへ入って来る知らせだ。
時間迫っていた。
ふたりの別れの時間が。
周囲の喧騒の気配に、尚美もそれを感じ取った。
小気味よく新幹線がホームへ滑り込んでくる。
聞き慣れないノイズが、構内に響いた。
圭吾の母親はひとつ離れた車両の前に立っていた。
尚美の横顔を、少ない人混みの間から遠く見つめ、ひとつ息をついて車両に乗り込む。
父親は仕事の都合で逸早く現地へ向っていた。
圭吾も目の前の乗降口のデッキに立つ。
ゆっくりと乗り込み、ゆっくりと振り返る。
目の前にいる彼女は、今にも泣き出しそうだ。
でも絶対に泣き出したりしない事は解っていた。
言葉が出なかった。
『またな』とも『じゃあな』とも言いたくなかった。
何時もと同じ言葉で締め括ろうとしても、喉の奥につかえて上手く出てこない。
直ぐに発車のメロディーが流れる。
しなやかな、何処か悲しいメロディーだった。
『行かないで』……。
「行かないで!」
尚美は声に出した。
声に出さずにはいられなかった。
乗降口で、圭吾は尚美を見つめた。小さく肩をすくめる。
『無理だよ……』
そんな事は尚美にだって解っている。
「俺たちはまだ子供だから、親について行くしかないんだ」
圭吾の少しだけ淋しげな眼差しは、大人のものだった。
少なくとも、尚美にはそう見えた。
一瞬の沈黙に、発車メロディーの音だけが構内を満たしてゆく。
「圭吾の声、好き」
「俺の声なんて判んないだろ」
「やさしい音で判るよ。圭吾の声は判るの」
「そう……」――そうかもしれない。
圭吾は肩に掛けていた大きなショルダーバックを床に置くと
「また出逢うさ。お前を理解して、お前を解ってくれるヤツは絶対いるから。だからナオは自分らしさを忘れるなよ」
後半で扉が閉まった。
やさしい音は途切れた……。
しかし、彼の唇を読んでいた尚美には関係なく、最後までその言葉は聞き取る事ができた。
尚美は閉ざされたガラス窓に向って何度も頷いた。
動き出す車体を追いかけながら頷く。
圭吾が手を振った。
尚美も手を振り返す。
泣き出しそうな自分の顔が、ガラスにキラリと映り込んで慌てて笑顔を作った。
新幹線の加速力は、あっと言う間に二人を隔てる。
圭吾の立つ窓は、直ぐに尚美の視界から遠ざかって連なる車両の列に飲み込まれた。
新幹線の先頭車両は優美な姿なのに、遠ざかる最後尾は悲しい顔なんだと思った。
不定期掲載になってしまいました。
お読み頂き有難う御座います。
このまま、ラストまで宜しくお願いいたします。