【59】バスケット
夏は瞬く間に通り過ぎようとしていた。
陽射しはまだ夏の残像を残し、旻天は少しずつ高くなって夜風が冷たくなる。
突然の事だった。
圭吾にとってそれは、何時も突然にやってくる。
ただ今回に限っては、あまりに長い時間の同じ生活が、彼の気持ちを油断させていた。
こころの準備を失って、すっかり安堵の枠の中にハマろうとしていた。
夕飯時、珍しく親子三人揃って食卓を囲んだ。
「来月から横浜だ」
父親は昔と変わりなく、何でも無い事のようにごく当たり前に言う。
「転勤?」
圭吾は思わず聞き返す。
口に含んでいた物を、小さくゴクリと飲み込んだ。
父親は味噌汁の椀を口に着けたまま頷いた。
母親は知っていたのだろう。
何処かぎこちなく笑顔を振舞っていた。
「せっかくお友達が出来たのにねぇ」
やり場の無い視線を、圭吾に注ぐ。
父親はサラダのミニトマトを箸でつまむ「そのうち落ち着くさ」
最近耳にしなかった彼の言葉だった。
「そのうち落ち着く」……圭吾はこれまで何度聞いたことだろう。
この1年半の間は聞いていない。
それ以前に聞いたその言葉は、何時の間にかどうでもよくなっていた。
しかし……今夜はその言葉を久しぶりに恨めしく思った。
心の何処かに再び風穴が開いたような寒さが沸き起こる。
まだ転校先で親友と呼べそうな誰かを見つけていた頃の、虚しく切ない気持ち。
――いいさ……判っていたことだ。
自分に言い聞かせた。
早々と食事を終えると、圭吾は自室へ向った。
ベッドへ身体を投げ出して目を閉じる。
上級生に囲まれて殴られた時の雨音が蘇える。その日々さえも切なくて懐かしく沸き沁みる。
いや、その雨音に滲むのは彼女の笑顔だ。
雫に打たれる彼女の黒髪が、瞼の奥で蘇えった。
庭の草むらで、しきりに鈴虫が鳴いている。
「なんで?」
尚美は咄嗟に声に出した。
トーンが裏返って、抑揚がおかしかった。
学校の帰り道、橋を渡って圭吾の家により道した尚美は、チョビを抱かかえたまま硬直した。
「何でって……親父の転勤だから……」
圭吾は週末の予定でも話すように、転校の事を軽く話した。そこに別れの予兆は含んでいない。
尚美は瞳を凝らして、彼の眼差しの奥を見つめる。
視界に入った彼の唇を、無意識で読む。
彼女はチョビを両腕から解放して
『だって、横浜なんて遠いよ』
「ああ……そうだな」
彼は目を細めると「でも、新幹線で2時間だよ」
解っている――二度と逢う事はなくなる事を。
中学生の出逢いと別れなんて、人生の長い道のりで言えばほんの些細な事なのだ。
でも、それを口にする事に何の意味があるのか。
同じ学校、同じ道のりを一緒に歩む生活が失われる。今はそれだけが重要なのだ。
尚美は黙って旻天を見つめた。
顎が上を向いて、襟元から伸びる細い首が艶かしい。
彼女の首筋から華奢な肩を、圭吾は見つめる。
尚美は少しの間虚空を見つめて
『そうだね』
笑って圭吾に向き直る。
「チョビはおいて行くよ。ナオに預ける」
圭吾は芝生にペタリとあぐらをかいて座ると、チョビを抱えて
「コイツ、乗り物に弱くて、かわいそうだから」
尚美はコクリと頷いた。
放課後の陽射しは、芝生の緑とふたりの白いシャツを淡く照らしていた。
夕方、尚美は小さなバスケットを抱えて帰宅した。
麦藁で出来た四角い箱は、時折小さくカタカタと揺れた。
玄関を上がってそっと階段を上がろうとした所で、母親が声をかける。
「ナオ、お帰り」音の方向で彼女は振り返った。
抱えたバスケットに、母の視線が延びる。
「何それ?」
「な、なんでも、ない、けど」
母親は階段の一段目に足をかけた尚美に歩み寄ると、彼女が抱えたバスケットを覗き込んだ。
「何が入ってるの?」
四角い箱は、微かに揺れた。
もともと尚美は、親に秘密を作れる性分ではなかった。
バスケットのフタをそっと開ける。
中には毛がフサフサの小動物が、鼻をヒクヒクさせてつぶらな黒い瞳を揺らしていた。
「あら……これってウサギ?」
尚美は黙って頷く。
「どうしたの? これ」
母親は咎めるつもりは無かった。
少し変わった姿のウサギを、静かに眺める。
「もらったの……」
「だれに?」
母親はゆっくりと手を伸ばして、ウサギの首に触れようとした。
「なんか、ライオンみたいなウサギね」
尚美はその場にしゃがみ込んで、バスケットを抱えたまま声をだして泣き出した。