【57】エルモ
僕の家は俗に言う母子家庭だ。
父親は僕が小学校に入学した頃他界したそうだが、記憶は僅かだ。
寂れた卓球場で嫌々ながらにピンポン球を突いた記憶が微かにあるけれど、その他に父母と団欒した記憶は無い。
中学生の頃には少しツッパッて虚勢を張る真似事なんて事もしたけれど、高校に入ると次第にバカらしくなった。
工業高校ではもっと本格的高派な連中がいるから、僕みたいに中途半端なレベルは、ごく普通の一般生徒に押しやられるのがオチだと気付いたから。
喧嘩やカツアゲ、万引きで日々を送る歪みきった高派の仲間にはなりたくは無いのが本音だ。
十六歳になってすぐ原付免許を取ると、行動範囲はずいぶんと広がった。
放課後ぶらりと海へ行ったり、少し遠くのDVDレンタル店へ出向いたり。
結局手話の本も、隣町の本屋へ行って購入した。
手話の本なんて妙に福祉的で、顔見知りにでも見られたら、なんだか恥ずかしい気がしたから。
自転車で行けば20分はかかる塾までだって、スクーターなら5分で行ける。
ただ、仲のいい哲や智明はバイクに興味が無く免許すら取ろうとしないので、彼らと行動を共にする時は僕も自転車を使う。
手話の本をベッドに放り投げて、僕はそのまま横になった。
「ナオ」と呼ばれた彼女の名はきっと、ナオコ、ナオミ……あとは浮かばない。
そう言えば塾の連中も彼女を「ナオ」と呼んでいたかもしれない。
声を出して彼女を呼ぶ光景すらほとんど見た事が無いので、記憶が薄らいでいた。
僕は明日から始まる夏期講習のテキストも開かずに、手話の本ばかり眺めている。
周囲の女子と同様、僕の言葉はきっと彼女に通じるだろう。
しかし、彼女の言葉が、意思が読み取れなければどうしようもない。会話が成り立たない。
手話を覚える事は、僕が話す事よりも彼女の意思、言葉を読み取る事に繋がるのだ。
一歩通行ではコミュニケーションとは言えない。
時計を見るともう直ぐ午前零時になる。
僕は仕方なく夏期講習用のテキストを取り出して、ベッドに寝転がったままただページを捲って文字列を眺めた。
部屋の蛍光灯がやけに眩しく感じて、瞼を閉じるとそのまま朝まで起きる事はなかったけれど……。
夏雲は白く果てしない空間にもくもくと聳え立つ摩天楼のようだ。
あの雲の中はどうなっているのか、ふと虚空を見上げる事がある。
今日から夏季講習が始まった。
普段とは違い、朝の9時から始まる塾に彼女がどのタイミングで来るのか解らなかった。
少し早めに行ったつもりだったが、あの娘は既に来ていたようで入り口で逢う事はできなかった。
そこからはもう、タイミングをつかめなくて結局視線を合わせる事は出来なかったから、当然のように声なんてかけられない。
塾は雑居ビルの3階にあって教室は四つある。
休憩室も在って、休憩中に紙パックのジュースを買いに来た彼女を偶然見かけたけれど、周囲に人がいる中で声をかける事はどうしてもできなかった。
普通の娘なら出来ると思う。
僕は意外と気さくだし、見知らぬ他人に声をかけることにさして抵抗はない。
でも彼女は違う。
後ろから肩を叩けばいいのか、それとも正面から近づいた方がいいのか……振り返った彼女に最初に手で合図する言葉は直ぐに出てくるだろうか……。
何時もとは違う逡巡した気持ちが身体を多い尽くして、僕は純真な中学生のように固まってしまった。
結局初日に声をかける事は出来ないまま、原付バイクに跨って塾を後にした。
塾で親しい康介に「これから何処か遊びに行かないか」と誘われたけれど、何だか気が乗らずに僕は一人で国道を走りだす。
まっすぐ家に帰る気にもなれず、隣街にあるトイザらスへ向った。
大きなオモチャ箱のような店内を特に当ても無くぶらつく。
真っ青なもじゃもじゃのぬいぐるみに目を留めると、それがセサミストリートに出てくるクッキーモンスターだという事を思い出した。
小学生の夏休み、言葉も解らないままよく観たものだ。
当時英語なんてハローとサンキューくらいしか解らなかったのに、とにかく面白かった。
真っ赤なエルモの小さな人形を手に取る。
芯の入っていない手足がぶらりと手から零れ落ちて垂れ下がる。
商品棚の最上段には天井に着く特大のエルモが、満面の笑顔で僕を見下ろしていた。
言葉は解らないのに彼らの楽しさは純分過ぎるほど伝わって、唯一家で見る教育テレビ番組がセサミストリートだった。
言葉が伝わらなくても、それが不完全だとしても気持ちや想いは伝わるのだろうか。
ふと横を見ると、女の子がクッキーモンスターの腕を掴んで笑みを浮かべていた。
中学生かそのくらいの年格好だが、高校生かもしれない。
肩につく黒髪と細い首、白い頬と華奢な出で立ちは何処かあの娘に似ている。
僕はエルモを掴んだまま、思わず傍らの少女を見ていた。
棚の裏側で人の気配を感じて、ふと我に帰る。
おそらく従業員がデカ脚立に乗って、棚の上段の商品整理をしているのだろう。
ガタリと大きな音がした時、一瞬何が起きたのか解らなかった。
天井から吊り下げられた巨大なエルモが僕に、いや隣の少女に向って降って来たのを認識するのに数秒の時間がかかった気がする。
でもそれはほんの、コンマ数秒だったのだろう。僕は隣にいる少女を反射的にかばって、エルモの直撃を受けた。
「大丈夫か?」
聞きなれない声に目を開ける。
リノリウムのタイルが、ぼやけて目の前を塞いでいた。
僕の背中に圧し掛かった重みが、フッと軽くなる。
「すみません。申し訳御座いません。お怪我はありませんか?」
従業員の女性が駆け寄って来て、僕の肩に手を触れた。
あの娘は?
僕は顔を上げて、何事も無く佇む少女を見上げる。
ゆがんだ眉で、心配そうに僕を見下ろしている。
「妹を助けてくれて、ありがとう」
最初に僕に声をかけた声だ。
彼は少女と僕との間に屈んで、頭をかいた。
茶色い髪の毛がくしゃくしゃと揺れる。
「救護室で手当てを……」
従業員の女性が僕を促す。
「大丈夫、ビックリしたけど何でもないよ」
僕は上半身を起こして床に手を着くと、通路に転がった170センチはあるエルモに視線を移して肩をすくめた。
苦笑と溜息が零れる。
「さすがに重いね」