【56】閉じた視線
入道雲が虚空に立ち登り、陽光に照らされた飛行機雲が光の一直線を描く。
夏休みに入ると直ぐに、夏期講習の第一期が始まった。
直前に知ったのだが、夏休み中の夏期講習は7月の後半に一期、8月の前半に第二期があるのだそうだ。
お盆まで、僕らは雁字搦めになるという事だ。
以前の僕なら、速攻で現実逃避に走り、友人たちと遊び歩いてかもしれない。
しかし今は逆にそんな暇は無い。
7月に入って直ぐに期末考査があり、それが終わってから学校は試験休みに入った。
僕は書店で購入した手話の本を片手に机に向い、時には公園をぶらついたりした。
覚えたての言葉を使ってみたくて地元をうろついても、実際耳の聞こえない人がそういるわけでもない。
公園の片隅にリードで繋がれた柴犬に近づいた僕は、左手を握り締め親指を上に向けた。
そしてその左手の甲を右手で二回叩く。
コレは困ったときに協力を頼む手話の前半部分だ。
続きがあるけれど、僕はそこで手を止めた。
犬に協力を頼んでも仕方ない……。
柴犬はペロペロと下を出し、振り返ると、おじいさんが困惑の眼差しで柴犬と僕を見ていた。
夏風が髪をすくい上げるように吹いていた。
終業式の帰り道、友人の智明と買い物へ出かけた。
昔は駅前通りの洋服屋が僕らの先輩たちの行きつけだったそうだが、新しい大通りが反対側へ延びて大型ショップが軒を並べると、至極当然に僕らの行動半径はそちら側へずれ込んだ。
中学の時にできたジャスコはいつも人に溢れ、駅前商店街は滅多に寄り付かない場所となった。
久々に駅前通へ行こうという事になって来てみたが、以前にも増して閉まり切ったシャッターは増えたように感じる。
町おこしと題して閉まりきったシャッターにヘンテコなアニメキャラクターが描かれたけれど、寂れた通りがやけに滑稽に見える。
しかし何故か最近アジア雑貨の店が新しく出来たそうで、智明に引っ張られてそこへ向った。
アジア雑貨の店内は狭く、商品がひしめき合って異国ともいえる香気に満ちていた。
店内には僕らしかいなくて、奥の小さなレジカウンターに異国の衣装を纏った不思議情緒な女性が独り座っている。
「俺いま、お香に凝っててさ」
智明は目の前のカゴに山積になった固形物を掴む。
「へえ……」
僕は目の前に在る、サイババの意味不なバッチを眺めながら頷いた。
床に置かれた大きなゾウの置物に足をつっかえて、思わずよろける。
店内は蛍光灯ではなく赤色球を使っている為、全体が茜色に染まり隅々は見え難かった。
不意に入り口のドアが開いた。
振り返った僕は、天井からじゃらじゃらと釣り下がった木製の首飾りの隙間から来客の姿を見る。
水色のブラウスの胸元で、モスグリーンのリボンが揺れている。
視線を上げると、胸の奥がぎゅっと引っ張られる感じがして息を飲んだ。
――彼女だ……。
塾で小さな会釈を交わすだけの彼女。
驚いた事に、彼女は金髪の女性と一緒にいる。
同じ制服を着ている所を見ると、金髪の彼女も好聖館学園高校の生徒なのだろう。
金髪と言っても、カラーリングやブリーチではない。
完全な白色人種である少女の頬は、葛餅のように澄み切った乳白色だ。
異国の少女は、聴覚の不自由な彼女と親しげに笑みを交わしている。
僕はふたりの異端な少女を、木製の首飾りが揺れる隙間から見入ってしまった。
不意に目があってニッコリと笑みをくれたのは金髪の娘だった。
蒼い瞳が窓際の陽射しに僅かな輝きを見せる。
僕は思わず苦笑しながら、傍らの商品棚に身を隠す。
「コンチワ」
奇妙なイントネーションで声を掛けられた。
腕飾りが山ほど釣り下がったリング状の什器の陰から、金髪の彼女は顔を覗かせる。
「こ、こんにちは」思わず僕は声を発していた。
「白鳳工業高校?」
「えっ?」
市内で未だに黒い詰め襟の学ランはウチの高校だけで、夏服に白い開襟シャツが許されているのもしかり。
金髪を揺らす彼女は、蒼い瞳をチラチラと動かして僕を見つめる。
「あたし、ルーシーだお」
「だお?」
彼女は自分の名を名乗ると、振り返って
「ナオ、この人に聞いてみれば?」
まったく悠長な日本語を話す。
にしても、語尾の「だお」ってなんだ?
腕を引っ張られて顔を出したお下げの彼女は、僕をチラリと見ると小さく会釈をして後ろに引っ込んで行った。
「ナオ、どうしただお」
僕は「ナオ」と呼ばれる彼女に、近づこうと思った。
何かコミュニケーションを取るチャンスかもしれない。
耳の先が熱くなるのを感じた。
彼女は紛れも無く、塾で笑顔の会釈だけを交わす、お下げのあの娘なのだ。
「幸彦、行こうぜ」
買い物を終えた智明が僕を出口で呼んでいた。
僕は流されるように「ああ」と返事をして、結局彼女達から離れる方向へ足を運ぶ。
店のドアを出る瞬間振り返ると、バニラのお香を手にした彼女が確かに僕に視線を向けていた。
せっかく声を掛けられるチャンスだったかもしれないのに、その時僕は何も出来ず、ただそのまま閉じるドアを見つめるだけだった。