【50】アイツ
梅雨が明けると、陽射しは急に眩しくなる。
強い陽光は、夏服のブラウスを真っ白に照らしだす。
期末試験が近づいていた。
試験の5日前から、どの部活も練習は休みになる。
しかも職員会議があって、今日は午前中で授業が終わった。
尚美は久しぶりに由加子に声をかけられて、放課後の教室で彼女を待っていた。
友恵はひと足早く、他の女子と帰って行った。
カラオケに行くらしく、尚美には少々すまなそうにしていたけれど、彼女は全く気にしない。
「ゴメン、今日ちょっとマミたちとさ」
逡巡する友恵に、尚美は首を横に振って「大丈夫、だよ」とだけ笑顔で応えた。
何時も友恵と一緒にいる訳ではない。
しかし彼女は、他の女子と遊びに行く時は必ず尚美に声をかける。
尚美はそんな心遣いがちょっぴりくすぐったい気もする。
部活が無いせいか、放課後のグラウンドは淋しいほどに静寂していた。
窓から外を覗くと、陽射しに照らされたグランドだけが広い空間となって佇んでいる。
整備された野球部のグランドも人影は無い。マウンド周辺は、渦状に土をならした跡がクッキリと見える。
廊下を歩く足音が響いて、遠くの笑い声が微かなノイズとなって小波のように聞こえた。
振り返ると、ちょうど由加子が尚美の教室の前に来た。
「ゴメン、プリントの整理に職員室で足止めされてさ」
尚美は首を横に振って、カバンを手に取ると教室を出た。
階段を下る足音は二つだけ、吹き抜けを満たすように静かに響いていた。
昇降口を出て、校舎の裏手を抜けると、途端に注ぐ陽射しにふたりで同時に眼を細める。
正門を抜けて歩道に出た時、由加子が尚美の二の腕を突いた。
「あのね……聞いたよ」
由加子は口ごもり、尚美は何の事だか判らなかった。
「伊藤に……」
尚美はその名前を彼女の唇から読み取った瞬間、背筋が凍りついた。
それを悟られまいと、薄っすらと笑顔を浮かべる。
由加子の黒髪に、陽射しが艶やかに白い線を作り出す。
「アイツも、悪気は無かったんだ。本当はそんな事思ってないから。だって、アイツ自身、ナオのこと好きだったんだから……」
尚美はただ頷いていた。
「不器用だから、ナオに拒まれたのがアイツなりにショックだったんだと思う。恨まないで。なんて言わないけど、アイツの言った事は気にしないで」
由加子はチラリと尚美を見て、ちょうどさしかかった農協倉庫を見上げた。
尚美も思わず、倉庫の三角屋根を見上げる。
由加子らしい言葉だと思った。
伊藤をかばいながら、自分を気づかっている。
伊藤が言った言葉に自分が傷ついたであろう事を視野に入れた上で、彼を少しでもかばおうとしていた。
尚美は由加子が言う『アイツ』という呼び名に、特別なモノを感じ取った。
由加子の肩を指先で突くと、彼女は振り返る。
首を横に振った尚美の髪が、サラサラと揺れた。
旋毛に注ぐ陽射しが暑かった。
「大丈夫。今は、もう、平気、だから」
尚美は丁寧に、ゆっくりと声を出す。
「伊藤と偶然逢っても、逃げないであげてね」由加子は真顔で尚美に言った。
尚美は再び首を横に振る。
由加子の心配と真顔が少し可笑しくて、自然な笑顔が零れた。
あの時彼が言った『障害者を好きになるヤツなんていない』という言葉は、尚美の心に大きな穴を開けた。
その穴から冷たい風がゴーゴーと吹き荒んで止まなかった。
でもそれは、姉の言葉で埋められた。
四つ葉のクローバーは、三つ葉の障害を持った形態……でも、幸せを運んでくれる。
障害を持っていても、誰かに幸せを運んであげる事はできる。
その言葉に、尚美は救われた。
だから、もう伊藤を恨んではいないし、傷ついた言葉も掻き消えた。
圭吾の誕生日にはプレゼントを渡す事ができたし、彼の笑顔を見た。
息を切らしながら少しはにかんだ、何時もとは違う笑いには至福が含まれていたに違いない。
尚美は由加子の瞳を覗くようにして頷いた。
曇りの無いレンズの奥で、澄んだ瞳の虹彩が陽光を受けている。
伊藤の事を……由加子と伊藤の事をもっと訊こうかと思ったけれど、やっぱり止めた。
彼女がおせっかいを焼く男子は数少ないだろう。
『アイツ』と呼ぶ彼を、彼女はきっと特別な気持ちで見ているに違いない。
尚美は、少し俯いて歩く由加子の腕を再び突いた。
「暑くない?」自分の頭のテッペンをポコポコ叩く。
「暑いよね」
由加子が笑った。
ふたりは同時に旻天を見上げる。
雲の無い青空に、虹色の輪を広げた真っ白な太陽が眩しかった。