【49】黄昏
由加子には五つ上の兄と、二つ下の弟がいる。
父は市役所に勤め、母は信用金庫に勤めている。
厳格な両親の元、一姫として厳しく育てられた由加子は小学校の頃からしばしば夕飯の仕度を手伝ったりした。
小学校二年生からピアノを習っていたが、どうにも曲に感情移入できない事が不満で、五年生の時にあっさりと止めてしまった。
それでも音楽は好きだったから、中学では吹奏楽部に入り、クラリネットを担当している。
音感はいい方だから、初めての楽器でも直ぐに馴染む事ができた。
男兄弟に挟まれて育った割には男性に対しての免疫は少ないようで、今まで恋焦がれた異性と親しくなったためしがなかった。
「加治、またあたしの本持って行ったでしょ」
由加子は弟の部屋のドアを、いきなり開けた。
「ノックぐらいしろよ。もう年頃なんだからさ」
絨毯に寝転がった弟の加治はそう言って、不機嫌そうに姉を見上げる。
小6になった弟は、益々生意気になってきた。
しかし、不機嫌なのは由加子も同じだった。
最近自分の漫画本を弟が勝手に部屋へ持ち去ってしまう。
彼女には密かな趣味があった。
少女マンガが好きで、メジャーどころはみんな読んでいる。
勉強の出来る生真面目な彼女の部屋は、参考書が溢れていそうだが実はそうでもない。
勉強机以外の本棚は、赤川次郎の小説と流行の少女コミックで埋め尽くされていた。
スカートの裾一杯に足を広げると、由加子は寝そべってジャンプを読んでいた加治を跨いで、ベッドの上に放り出された自分のコミック本を手に取った。
「まったく……」肩をすくめてひとつ息をつく。
「姉ちゃん……年頃なんだから、もっと気のきいたパンツはいた方がよくねぇ?」
振り返って由加子は、加治の横っ腹を蹴飛ばした。
「痛っ!」
「ユカ、俺のケイタイそこに在るだろ?」
由二が風呂場に続く脱衣所のドアを開けた。
「きゃっ」
由加子は脱ぎかけたスエットシャツで、慌てて身体を隠す。
「ああ、これこれ」
ズカズカと入って来た由二は、洗濯機の上に置きっ放しだったケイタイを鷲掴みにする。
「ちょ、ちょっと兄さん、ノックしてよね」
今年、市内唯一の大学に受かった兄の由二は、どこか無神経な所が在る。
「ナニ女ぶってんだよ。隠すほどの胸でも無いだろうに」
由二は素っ気無く言うと、妹を見るでもなく脱衣所を出て行った。
「ったくもう……」
由加子はスカートを脱ぐと、脱衣カゴに力いっぱい投げ込んだ。
学校では自分がうまく出せない。
本当はけっこう感情的で喜怒哀楽は激しい方なのに、昇降口をくぐって階段を上って、教室に入る順序で自分の表面に別の表皮が現れる。
メガネをかけてると真面目に見える。
小学校の時にそんな印象を誰かに言われて、それが頭から離れない。
何時の間にか真面目ぶった自分が構築されて、クラスメイトの前では優等生を演じてしまう。
教室では何時も模範的に振舞うから、同性にも何処か煙たがられている感もある。
その為か、クラスでぶっちゃけた話しをする相手は見つからない。
結局クラス委員などに任命されて、面倒な役目を負いなが何となく孤高に振舞うしかないのだ。
そんな中で、伊藤誠とはよく話しをする。
彼の方はと言えば、同性の友達は多くて誰とでも気さくに会話を交わしていた。
意外だった……。
自分よりもむしろ孤高なイメージがあった伊藤誠は、同じクラスで見る限りそんな感じは微塵もない。
勉強が出来る出来ないに関わらず誰とでも気軽に接するタイプらしい。
それでも気がつくとどのグループにも属していないのは、やっぱりこちら側の人間なのだと由加子は思う。
そんな彼から聞かされた尚美との一件は、おそらく自分だけに話してくれた誠なりの懺悔なのだろう。
被害にあった尚美には悪いと思いながらも、誠との距離が途端に近づいたような気がした。
それでも尚美と親しい手前、誠とは何処迄近づけるか自信は無い。
なにより、どうして彼が自分にあんな事を打ち明けてきたのか、どうして自分にだけ罪のカミングアウトをするのか、その真意が判らない。
「ちょっとタンマ」
タンタンっと、指揮棒が机を叩いた。
「ちょっと田中さん。走ってるよ。ちゃんと指揮を見て、周りの音を聞いて」
「す、すいません」
「どうしたの田中さん。さっきから何だか集中できてないみたいだけど。体調悪い?」
すぐ後ろでフルートを吹く、同じ二年生の三上恵奈が小さく声をかける。
「ううん。別に大丈夫」
由加子は慌てて振り返ると、恵奈に笑みを送った。
部活に来る前に誠と話した理科実験室。黄昏に浮かんだ二人だけの空間が、由加子の想いを募らせた。
ゴメンね、ナオ……。
やっぱり尚美に対して罪悪感が湧く。