【4】帰り道
転校生は来なかった。
今日来るはずと言っていた転校生は、学校へ来なかったらしい。
帰りのホームルームで、そう担任の七瀬がクラスのみんなに伝えた。
そして放課後、尚美は職員室へ呼ばれる。
1年生の昇降口からは帰りの雑踏が響いて、彼女はそれを背に職員室のドアをノックした。
「ちょっとお願いがあるのよ」
七瀬は机の前で事務用の椅子をクルリと廻して尚美の方を向いた。
彼女に唇が読みやすいように、七瀬は必ず授業中でも尚美の視界に顔を留める。
「舘内君の家に行って見てくれないかしら?」
尚美は困惑の眼差しを担任へ向ける。
――舘内なんてクラスにいたっけか?
「転校生の舘内君よ」
「て、転校生、の?」
短く声を発した。
思わず声が出たが、何となく彼女になら声を聞かれてもいいと思ったのかもしれない。
七瀬はホッとしたような安堵の笑みを浮かべると
「やっぱり喋れるのね。ご両親からは聞いてたけど」
「でも、自分の声も、よく、聞こえません」
「大丈夫。ちゃんと喋れてるわ」
尚美は頬を紅潮させて、少し俯いた。
「電話が繋がらなくてね。行って見てくれる?」
転校生の家だ。
「本来なら学級委員の仕事なんだろうけど、ほら、まだそうゆう役割が決まってないしね」
七瀬は苦笑しながら、一瞬辺りを見る。
尚美も窓の外を見た。
グラウンドでは2、3年生たちが部活動の準備を始めている。
まだ高い西日が、職員室前の赤松を黄色く照らしていた。
「どうかしら?」
七瀬が尚美の手にポンと触れる。
どうして自分が行くのだろうと疑問も湧いたが、誰かに何かを頼まれるのは自分の存在感が明確になるようで嬉しかった。
「はい」
尚美は七瀬の方を向くと、小さく声に出して頷いた。
職員室を出て教室へ戻ると、もう誰も残っていなかった。
1年生はまだ放課後は部活を選ぶ時間だし、入る気のない連中はさっさと下校している。
独り昇降口へ行くと、友恵が下駄箱で靴を履いていた。
尚美は思わず真穂の姿を探すが、一緒ではないようだ。
「いま帰り?」
尚美の姿に気付いた友恵は、朝と同じように普通に話しかけてくる。
声をだそうか……。
しかし、尚美はコクリと頷いただけだった。
それでも友恵はふっくらとした笑顔を崩すことなく
「じゃあ、一緒に帰ろう」
尚美は再び頷く。
教室では仲のよさそうな真穂や他の連中とは帰らないのだろうか?
尚美は友恵の笑顔に見つめられながら靴を履き替える。
「頷くって事は、やっぱり聞こえるんだよね?」
昇降口を出ると、友恵が言った。
会話が成立する事に、微かな疑問を感じているらしい。
尚美は小さく小首を振る。
「えっ? 聞こえてるわけじゃないの?」
もちろん音として認識は出来る。しかし、話してる言葉は聞き取れない。
尚美は一度逡巡するが、決意したように小さく声を出す。
「唇が……読めるの」
友恵は元々少し大きめの目をパチクリと見開いて、一瞬立ち止まった。
「うそ……」
「ホント」
「唇読める人って、本当にいるんだ」
尚美は友恵の大げさな驚き具合が妙で、思わず笑ってしまう。
そして、自分の声に対して何も言わず自然に会話が行き来した事が嬉しかった。
この喋り方が、自分を少し頭の弱い娘だと思わせる事もしばしばあるのだ。
たどたどしい喋り=知恵遅れ……そんな偏見が一般の人にはある。
でも友恵は尚美の話し方に違和感を見せなかった。
それは些細な事だけれど、彼女にとって心地よい態度だった。
校舎に遮られた日陰を抜けて陽射しの下に出た二人は、正門を抜けて歩道に出た。
小学生が3人、ランドセルを揺らして元気に駆けて行く。
「じゃあ、もしかして授業中は先生の唇を読んでるの?」
尚美は再び頷いて笑う。
友恵はカバンを持ち直すと、クリクリした大きな目を瞬きさせて
「すごぉい。女スパイみたい」
「へぇ、これから転校生の家に行くの」
担任に頼まれ事を言いつけられた話を、尚美は友恵に聞かせた。
いや、正確には話すと長いので、ノートの端っこに文字で書いて説明した。
「あたしも、行こうかな」
尚美の驚く顔を見た彼女は
「だって、なんか面白そうじゃん」
春の放課後は心地よい風が吹いていた。
並んだ二人の真新しいスカートが、ふわりと揺れる。
「うわっ」
尚美よりも裾丈の短いスカートを手で押さえながら友恵は
「転校生って、男でしょ?」
尚美は頷いた。
もちろん、担任から名前を聞いている。
「どんな子かな? イケメンかな?」
好奇心いっぱいの問いに、尚美は困惑した笑みで小首をかしげる。
風貌までは聞いていない。
それでも下校中のこんな会話が、尚美にはすこぶる楽しく感じた。
今まではずっと独りで帰り道を辿っていた。
小学校は家から徒歩10分程度の場所だったが、その10分がやたらと長く感じて、それは6年生になっても変わりはしなかった。
でも、今は違う。
お読みいただき有難う御座います。
お話は意外とゆっくり進みますので、よろしくお願いいたします。
今回作中は、改行を多めにして読み易さを重視しています。