【48】こころの隙間
朝起きた時、視界はぼやけている。
視力が極端に悪くなったのは小学校二年の頃だった。
中学の入学を機にレーシックの治療を受けようと、悩んだ事も在る。
彼女はチェックのパジャマを脱いで几帳面にたたむと、制服に着替えた。
寝癖直しのスプレーを髪に散布して丁寧にブラッシングする。
ちょっと癖っけのある毛先は、いつも通りなかなか言う事をきかない。
机の上に置かれたセルフレームのメガネをかけると、窓の外には青空が広がっていた。
「あんたも以外にバカなのね」
由加子はメガネに手を添えると、放課後の陽射しを浴びながら眩しげに眼を細めた。
「勉強以外は自信がないよ」
誠は理科実験室の窓に手をかけて身を乗り出す。
西日が校庭を淡く黄金色に照らしている。
陸上部の練習する笛の音が聞こえてきた。
「で? ナオを襲っちゃったんだ」
「襲ったわけじゃないよ。でも、彼女があんまり無防備だから……つい」
「ばか。それを襲うって言うのよ」
由加子は伊藤誠を睨むでもなくちらりと見ると、彼と並んで窓枠に手を着いた。
風が黒髪を揺らす。
頬にかかった髪を、ゆっくりと指で拭った。
「まぁ、圭吾が怒るのも無理ないよ。いろんな意味で、ナオを大切に思ってるんだもの」
「充分反省してるさ。アイツ、凶暴なんだな」
誠は身体を反転させて、窓に寄りかかった。
黒い大きな机の並ぶ理科実験室は、西日が落とす影の中で時間が静止したように佇んでいる。
廊下に響く足音は、図書室を利用する生徒が昇降口へ向っているのだろう。
「その後は? どうしたの?」
「どうもしないよ。彼女に会わせる顔もない……」
「とうぜんね。酷い事言ったんだもの」
由加子は冷静な口調で外の景色を眺めながら言う。
上階から微かに管楽器の音が聞こえてくる。
吹奏楽部の連中が、部活が始まる前に自主的に音を出しているのだ。
「そろそろあたし、部活行くから」
由加子は窓の淵から手を離すと、振り返って彼に言った。
「ああ、頑張ってな」
二年生のクラス替えで、由加子と伊藤誠は同じクラスになった。
尚美とはクラスが離れた由加子だけれど、未だに交流がある。
何故か彼女は教室で親しい友人を作れない。
親しい友人は、何時も他のクラスにいるのだ。
そんな中で、以前から知り合いだった伊藤誠はどちらかと言えば親しい部類に入るかもしれない。
いや……彼女は自分でも知らないうちに、彼に近づいていたのかもしれない。
誠が尚美に興味を抱いていた事は、去年の話しだった。
それからどうなったか、経緯は知らなかったし、あえて訊きもしなかった。
「織堂は元気?」
誠が急に彼女の名前を出したのは昨日の放課後だった。
今でも時折廊下で尚美と会話らしい何かを交わしている姿を、誠は何処かで見ていたのだろう。
それとも、ごく稀に一緒に帰るところを見たのだろうか。
伊藤誠自身は、あえて尚美の視界に入る位置には行かなかった。
またアイツに殴られでもしたら、シャレにならない。
それでもやっぱり気になっていたから、せめて由加子に尋ねようと思って、結局こんなに時間が過ぎてしまった。
誰かと誰かが怪しいとか、誰が誰を好きだとか、学校の噂は絶え間ないし、どれが本当かも判らない。
由加子は誠から話しを聞くまで、誠と尚美の事も同じように感じていた。
あの頃ちょっと興味があっただけ……ただそれだけだと思っていた。
彼に事情を聞いた時、初めは軽蔑した。
異性として幻滅した。
なのに……。
でもそれは続かない……愚かな行為をした彼もまた、隙の在る同じ人間なのだと逆に親近感さえ沸き起こる。
小学校の時の彼のイメージは、見るからに優等生で隙のない人間。
涼しげな眼差しは、生徒会長としての自信の表れ。
誠とは小学校が別だった由加子にとって、生徒会の合同行事で出逢った時に感じた彼の印象は、そんな完璧な姿だった。
そんな誠も、やっぱり完璧ではないのだ。
完璧な彼に惹かれていたのだと思っていた。
完璧でない彼には幻滅するだけだと思っていたが、それは逆だった。
完璧でない誠は、由加子が抱いていた理想像とは違っていたのに、彼の弱さが見えた途端にその隙間を埋めてあげたくなったのだ。
コレが本当に惹かれるという事なのか、それとも母性的な本能なのか由加子には解らなかった。
由加子は理科実験室の出口で振り返ると、誠に向って小さく手を振った。
「じゃあね」
今まで見せた事の無い、人懐っこい笑みで胸の前に上げた手を振る。
異性に対してそんな仕草を見せた事自体が初めてだった。
「ああ」
誠は窓に寄りかかったまま、彼女を見つめた。
窓から差し込んだ陽射しが届いて、彼女の白い頬を黄金色に染めていた。