【46】救いの声
「ちょっとアンタ、なにやってんの?」
真穂は尚美の肩を突き飛ばす。
尚美は大きくよろめいて後ろに下がった。
「どうして、そんなに、適当に男の人と……」
駅の雑踏に消え入りそうな小さな声だった。
「アンタに関係ないんだよ」
真穂の怒りは尋常じゃなかった。
持っていたカバンを肩から手に持ち替えると、振り回して尚美の身体にぶつけてきた。
「仕方ないんだよ。どうしようもないんだよ。アンタみたいな障害者には解らないんだ!」
カバンを振り回した真穂は3発目を尚美に向けたところで、勝手に足が崩れるようしてその場に倒れた。
尚美は慌てて真穂に近づく。
頭を少しだけ起こすと、自分のカバンを下に敷いた。
辺りを見回す……人通りの視線だけがふたりに注がれている。
――だれか、だれか助けて。誰か手を貸して……。
周囲の視線は、尽く通り過ぎてゆく。
ケイタイを構えて写メを撮る素振りを見せる大人までいた。
尚美は真穂の顔に覆いかぶさり、彼女が撮られるのを遮る。
「どうしました?」
声は聞こえなかった。
それでも彼は、尚美の肩を叩いて再び「どうしました?」
顔を上げた尚美は、こげ茶色の背広を着たオジサンを見上げた。
「た……た、お、れて……」
尚美は動揺しながら、逡巡しながら声を出した。
◇◇ ◇
市立病院のロビーは、ビックリするほど広々としていた。
自分の住んでいる地域の市立病院はこれほど立派ではないし、最近新築した赤十字病院だって、この半分の広さのロビーだ。
尚美はその広いロビーから少し離れた、急患専用口の傍の固い長椅子に腰掛けていた。
隣には救急車を呼んでくれたこげ茶色の背広を着たオジサン。
上下の色が違うから、スーツではなく背広だ。ジャケットと呼ぶほどお洒落でもなかった。
尚美は黙って俯いていた。
オジサンはゴソゴソと何かをしていたかと思うと、尚美の腕を突いた。
振り返る尚美に、オジサンはメモ帳を見せる。
僕は小学校の教師をしています。失礼ですが、あなたはもしかして、耳が不自由ですか?
尚美は視線を上げてオジサンを見ると、小さく頷く。
筆談の方がいいですか?
オジサンは再び、ボールペンをメモ帳に走らせる。
彼がペンをよこしたので、尚美はそれを受け取ると
私は書きますが、唇が読めますのであなたは話してください。と書き記した。
彼は市内の小学校教師で、名を高木と言った。
どうして彼女は倒れたのかな? と言う彼の質問に、尚美は解りません。としか応えられなかった。
真穂が点滴を受ける間、高木と尚美は通路の長椅子に腰掛けていた。
小一時間経っただろうか――点滴が終わる頃、真穂の母親が病院へ現れた。
高木は自分の身分を明かして母親と話しをしていたが、直ぐに帰ってしまった。
彼は尚美の方を一度見たが、一緒に帰ろうとは誘わなかった。
尚美は帰るタイミングを外して、母親が医師の説明を聞いている間通路で待っていた。
ふと隣の部屋に運ばれる真穂が見えた。
入院か日帰りか決まるまでの臨時のベッドが置いて在るらしい。
尚美はそっと部屋を覗いてみる。
目を閉じた真穂が白いベッドに横たわっていた。
小さく胸が上下しているのは、眠っているのだろうか……?
医局の入り口では真穂の母親と担当医が話しをしている。
尚美は臨時の病室へ入って、真穂の傍らに立った。
「薬のせいだよ……薬を買わないとだめなんだ……」
真穂は眠っていなかった。
尚美の気配をずっと感じていたのか、彼女が傍らに立つと小さく声をだして口を動かした。
尚美には声の大きさなんて関係ない。唇さえ動けば、それは通じる。
「薬がないと、あたしはもう駄目なんだよ。やばいよ……」
「治るよ……きっと」
尚美はやっとの事で言葉を発した。
なんと返していいのか判らない。でも、彼女が飲んでいた薬の治療は出来ると、以前姉に聞いていた。
真穂はリタリンの中毒なのだろうか……それとももっと他に薬をのんでいるのだろうか……。
尚美には判らない。
医師と話しを終えた母親が入って来た。
母親は尚美と反対側のベッドサイドに屈んで真穂に声をかける。
「真穂? どうしてこんな所にいるの?」
真穂は沈黙した。
閉じた瞳の左の淵から、小さな雫が零れて横に流れた。
左側に立った尚美にはそれが見えたけれど、母親の位置からは見えなかった。
「貧血らしいから、少ししたら帰れるわね」
彼女は解っていない……娘のイタミが解っていない……。
尚美は無言で真穂に話しかける母親の横顔を見た。
「あの……」上ずった声が出た。
驚いて振り返る母親は「一緒にいたの? どうしてこんな所まで来てたの? 学校はちゃんと行ったの?」
矢継ぎ早に尚美に質問してきた。
同じ制服を着ているから、同級生なのは判っただろう。
尚美は旨く応えられなくて、ただ黙ってしまった。
「帰れるのかしらね」
母親は忙しそうにそう言って「先生!」と呼ぶ。
娘を心配しているのか、自分の予定を心配しているのか定かでない。
尚美の手に何かが触れた。
手元を見ると、真穂が自分の指先を力なく握っている。
初めて感じる彼女の手の感触は、とても冷たくて哀しかった。
真穂を見ると、彼女の唇が音も無く動いた――た・す・け・て。
尚美には、そっと彼女の手を握り返す事しか出来なかった。
再び彼女の目尻から哀しい雫が流れたのを、母親は気付かなかった。