【44】時間
夕食の後、ココッコンとドアが鳴る。
「今度はどんなお悩みなのかな?」
志美がおどけて尚美を自室へ促した。
「ねぇ、オネェちゃん」
尚美はベッドの上に、志美は机の前の椅子へ腰掛けた。
「なに? また深刻な顔して」
「リタリンって薬、知ってる?」
「知ってるけど」
即答だった。
志美の学校でもひと頃噂になっていた。
誰々が買っているとか、誰々が病院で100錠処方されたとか。
砕いて鼻から吸うと、利きがいい事も話してくれた。
その他にも、一部の睡眠薬を摂取してトリップする輩もいるという。
尚美は姉の唇を一心に読み込んだ。
リタリンは精神科医療で主に使われるが、内科でも処方されるそうだ。ただし、現在その薬を処方する病院はほとんど無いと言う。
服用を続けると副作用が激しく、その中で禁断症状に似た副作用に苦しむ人が増えている為なのだそうだ。
「服むと、どうなるの?」
「どうなるんだろうね」
志美は椅子の背もたれに頬杖を着いて
「元々精神安定剤なんだろうけれど、普通の人が服むと噂では視界がグルグルまわって酔っ払ったみたいになるみたいよ。それが良くて、健康な人間は服むみたいだから」
志美は真顔に戻って瞬きする。
「でもね、服み続けると禁断症状が出て、身体が震えたり吐き気がしたりするみたい」
彼女は絶対に手を出してはいけないと、妹に強く言った。
尚美は頭をブンブンと振って
『そんなの服まないよ』と手を動かす。
――彼女――真穂はどうしてそんな薬を服んでいるのだろう……。
「なんでそんな事、急に訊くの?」
志美は少しだけ心配そうな笑みを浮かべた。
「う、うん……な、んとなく……」
尚美は笑顔を浮かべてみせる。
外は再び雨が降り出して、小さなノイズがカーテン越しに聴こえてきた。
何時もより早く目が覚めた。
尚美は勢いよくカーテンを開け放つ。
久しぶりの陽射しが眩しくて、思わず目を細めた。
二階から見る家並みの向こうに、白い雲が浮かんでいた。
蒼い空がキラキラと輝いている。
キッチンへ降りると、母親が深刻そうな顔で声をかけてきた。
「丁度よかった、ナオ。藤河の叔父さんが亡くなったそうだから、これから出かけるから」
「そう……」
藤河の叔父さんの名を久しぶりに聞いた気がする。
隣町に住んでいる母方の親戚で、小さい頃は大分お世話になったようだが、尚美の記憶には薄っすらと面影が浮かぶだけで顔すら思い出せない。
尚美は椅子に座って食パンに手を伸ばした。
「アンタも早く着替えなさい」
母親はパジャマ姿の尚美に言った。
「えっ?」
「ナオも行くのよ。小さい頃お世話になったでしょ」
『学校は?』手を動かす。
「いま電話したから、アンタは制服でいいからね」
尚美は立ち上がって自室へ向った。
制服に着替えた尚美は、青色の包みを持って考えていた。
自分でラッピングした包みの中身は、空の本だ。
――今日は圭吾の誕生日なのに……。
放課後に渡そうと思っていた。
数日前、プレゼントを購入した日から、勝手な想像の中でカレが満面の笑みを見せる。
他の誰にも見せない、自分だけに見せる優しい微笑み。
ガサリと包み紙が音を立てる。抱かかえる腕に、つい力が入った。
インターホンが鳴って、ランプが点滅している。
母親が階下から呼んでいるのだ。
尚美は窓の外に広がる、久しぶりの光る蒼穹に向かって一つ溜息を零した。
『オネェちゃんは?』
「志美は学校が終わってから来るって」
『あたしは何で朝から?』
「ナオの方がお世話になったからよ」
電車に揺られていた。
窓から降り注ぐ陽射しで、電柱の影が規則的に車内を横切る。
叔父の家まではローカル線で1時間ほど掛かる。
駅を降りると大きなターミナルが在って、そこでバスに乗り換える。
バスに揺られて20分ほどで、到着した。
古い日本家屋の建物は大きく、檜の門扉をくぐると、庭には銀杏の木が一本植えてあった。
それが尚美にとっては、何となく見覚えのある風景だった。
確かにここへ来た事があるのだろう。
「連絡くれれば駅まで迎え出したのに」
玄関で迎えてくれたのは、娘の芳美だった。
彼女には小さい頃に遊んでもらった記憶が微かにある。
久しぶりに会った芳美は、社会に出てすっかり大人になっていた。
「ナオちゃん? 大きくなったね」
母親に話しかける彼女の言葉を読んで、尚美は少し頬を紅くする。
弔問客の出入りは思いの外多くて、尚美もお茶をだしたりビール瓶を片付けたりとなかなか忙しく動かなければならなかった。
気付けばお昼が過ぎている。
「ナオちゃんもお昼にしよ」
芳美が肩を叩いて声を掛けてくれた。
一緒に台所へ行って、店屋物の天丼を箸でつついた。
「あたしが最後に見たナオちゃんは、まだこんなだったよ」
芳美は椅子に座ったまま、屈んで手を床に向って伸ばす。
彼女が示した背丈は、80センチくらいだろうか……。
尚美は彼女の動作に苦笑する。
「確か、まだ幼稚園だったかな」
尚美は笑顔で何度か頷いた。
「こんなふうに一緒に話が出来るようになって嬉しいな」
海老天を齧った芳美が呟く。
――幼稚園児の自分は彼女とどうやってコミュニケーションをとっていたのだろう。
今の尚美にはその時の記憶はほとんどない。
目の前の芳美がおそらく、今の尚美の年頃だったはずだ。
それが何だか不思議な感じがして、尚美は彼女の些細な話しを読み続けては小さく笑った。
場所柄、あまり声を出して笑え無い事は都合がよかった。
再び弔問客が家族で訪れた。
立ち上がろうとした尚美を「いいよ」と制した芳美は、お茶を入れると台所を出て行った。
午後になると、客間が人で埋まってゆく。
午前中の弔問客はわりと直ぐに帰ってしまうが、午後から来る客は長居する人が多いからだ。
8畳を二間繋げた客間には大きなテーブルが三つ並んでいた。
最初のうちは叔母さんの知り合い関係が多くて女性の方が目についたが、次第にスーツ姿の紳士が増え始めた。
尚美の母親は、叔母に代わって来客の話し相手を引き受けていた。
尚美は時折時計を見る。
みるみる時間は過ぎていった。
申し訳御座いません…多忙につき、更新ペースが落ちております。
大分先まで書き終えてはいるのですが、推敲する時間がなくて…少しずつ更新いたします。