【40】時間よとまれ
そろそろ……
足早に時間は流れます。
金曜日の放課後は喧騒に満ちている。
放課後の部活や委員会など一見何も変わらない日常の中に、週末の休みに向けてのソワソワした気持ちの高揚が自然に沸き立つのだ。
遊ぶ約束のある者、部活の練習試合がある者、塾のゼミへ出かける予定も、それぞれが何時もと違う日常の前触れを実感して浮き足立つ。
「舘内……」
階段の踊り場の途中、控えめな声で呼ばれて、圭吾は振り返った。
数段上で由加子がメガネに手を当てながら立っていた。
「明日、ナオは伊藤君と勉強だってさ」
「なんだよ、それ?」
圭吾は彼女を見上げて直ぐに、踊場の窓から見える空に視線を移した。
「図書委員の友達に聞いたんだよ。なんかイイカンジだったって」
「なんで俺に言うんだよ」
圭吾は空いている手を、ポケットに突っ込んだ。
数人の生徒が階段を足早に下ってゆく。
「うん……何となく。言っといた方がイイのかなって思って」
「関係ねぇし」
圭吾は足早に階段を下り始めた。
由加子は少しだけ彼を見送ると、部活に向かう為に階段を上に向って歩いて行った。
秋の全国模試が近づいていたあの日の土曜日、尚美は伊藤誠と一緒に勉強をする為に彼の家に行った。
彼の誘いを断れ切れなかった事も在るが、圭吾と喧嘩していたせいもあった。
何処かに心の拠り所を求めていた。
しかし伊藤は勉強のノルマが終了すると、尚美に迫ってきた。
想像もしないシチュエーションに、彼女は驚愕してただ拒むのが精一杯だった。
迂闊に彼のテリトリーに立ち入るべきでは無かったのかもしれない。
中学生とはいえ、やはり男と女なのだ。
それでも間違いが生じなかった事は、不幸中の幸いなのだろうか……。
しかし拒む彼女に、伊藤は衝撃的な言葉を浴びせる。
尚美は彼の家を飛び出して、途中圭吾に出くわす。しかし、再び走りだした。
彼に会わせる顔が無かった。
圭吾と視線を合わせる事が出来なかった……。
自分の軽率な行動が、何故か彼を裏切ってしまったような錯覚さえ覚えさせた。
あの時、彼の顔をまっすぐに見る勇気が無かった。
橋通りを抜けて、橋を渡りきった所で彼女は行き絶えた様に倒れ、追いかけてきた圭吾に助け起こされた。
自分の危機に、彼は何時でも手を差し伸べてくれる。
目を覚ます間際、尚美は久しく聞いていなかった優しい音を聴いた。
夜になって気持ちが落ち着くと、逆に彼女は困惑した。
伊藤の家に自転車を置いてきてしまった――もう彼の家に行く事は無いだろう。
自転車をどうしよう……。
しかし日曜日に彼女の自転車は帰ってきた。
誰かが門扉の外に置いていってくれた。
その後、伊藤から声が掛かる事も無かったし、廊下で何度かすれ違うときは酷く気まずかった。
彼では無い……。
――自転車を取って来てくれたのは、もしかして……。
◆ ◆ ◆
朝から雪がチラついていた。
小さな結晶が、乾燥した上空から音も無く舞い降りていた。
こげ茶色の校庭の地面も、薄っすらと砂糖をまぶしたように白くなっている。
大氣をさ迷うように降り注ぐ粉雪はサラサラと長時間舞い散って、気付けばいつの間にか、民家の屋根も全て白色に染めていた。
「尚美、今日うちらカラオケいくけどあんたも一緒に行く?」
二学期の終業式――放課後、川田真穂が笑顔で声をかける。
わざとらしい微笑みに、尚美は軽く笑顔を返して首を横に振った。
「ナオはこれから用事があるから」
友恵が近づく。
真穂は小さくフンッと鼻で笑うと「そう」
彼女達は直ぐに自分たちの輪の中で高い笑い声を立てた。
二学期の終業式の帰り道、途中で友恵と別れた尚美は運河沿いの小さな公園に向っていた。
入り口まで来た時、白い地面についた足跡は、ひとつだけ奥へ向って続いている。
『待った?』
少し離れていても、それは通じる。
言葉が届かない距離でも、彼には通じるのだ。
『遅いぞ』
圭吾も大きな身振りで返す。
尚美は小走りに彼の傍まで急いだ。
「友恵は? 一緒に帰らなかったのか?」
『途中で別れたよ』
ふたりは公園を少し歩いて、東屋のベンチに腰掛けた。
サラサラと降り注ぐ雪が、運河の水面に落ちては消えて行く。
動いているのは、上から下へ舞い落ちる白い結晶だけ――それ以外は、まるで時間が停まったようだった。
尚美は彼の肩を突いて振り向かせる。
『前から思ってたんだけど、自転車持って来てくれたのは、圭吾なの?』
彼は優しく彼女を見つめ返す。
一瞬、沈黙がふたりを包み込んだ。
運河の流れに顔を向けながら『さあ? 何の事?』
肩をすくめて、知らない素振りのゼスチャーをする。
わざと素っ気無い身振りだった。
尚美はそれで確信した。
ヤッパリ……。
彼女はカバンからキットカットを取り出して、半分に折ると彼に差し出した。
ふたりでそれを齧ると、凍て雲を見上げる。
世界中の時間が止まってしまったような低い旻天
「圭吾……」声を出して彼の名前を呼ぶ。
イントネーションは合っているだろうか――ちゃんと発音できた?
彼が振り返る。
やさしい笑みが彼女を見つめた――いや……少し素っ気無い、何時もの視線だったかもしれない。
風が吹いて、ふたりの傍らに雪が舞い込んできた。
頬が少し冷たい。
名前を呼んでみたかった。
でも……その後の言葉は続かない。
尚美ははにかんで、毛糸の手袋で頬を摩った。
ふと見ると、圭吾の手は何にも包まれていない。
「手、寒く、ないの?」
「ちょっと冷てぇ」
彼は両手を少し擦って、制服の上に着たウインドブレーカのポケットに入れようとする。
尚美はその片手を思わず掴んだ。
圭吾はハッとして彼女を見たが、その視線は直ぐにそれた。
口元は、僅かにはにかんでいた。
毛糸の下の彼女の手の温もりが伝わる。
同じ中学生なのに、ずいぶん小さい手だ。
尚美には、圭吾の素手の温もりが伝わる。
毛糸の編みこみの目を縫って、彼の体温が手のひらに押し寄せる。
それだけで彼女の鼓動は激しく波打った。しかしそれは、心地よい高鳴り。
頬が熱くなった。
雪が触れたら一瞬で溶かしてしまうだろう。
指を絡めると、彼の指は自然に同じ握り方をしてくる。
圭吾は再び空を見上げていた。
尚美もつられて空を見上げる。
静止した時間の中――3羽のカモが飛んできて、運河に舞い降りた。
お読み頂き有難う御座います。
今回は次のエピソードへ向う、ひとつの「まとめ」的なものです。
章の区切りは在りませんが、次回から、実質的な新章に入ります。
宜しくお願いいたします。