【3】誹謗
「尚美ちゃん」
後から誰かが声をかけてきたが、彼女は気付かなかった。
ポンッと肩に触れられて、ビックリして振り返る。
「あっ」
ビックリして声が出た。
「怖かったね。喧嘩」
藤本友恵だった。
彼女もさっきの喧嘩を見ていたのだ。
「でもさ、あの1年の茶髪だれだろうね」
声を出したいけれど、尚美は躊躇して笑顔を零す。
小首を傾げるだけで応えた。
「尚美ちゃんって、けっこう無口?」
フフッと笑う。
友恵に悪気はないだろう。
その屈託無い笑顔が、それを物語っていた。
尚美は少し困ったような笑みを友恵に送って、肯定も否定もしなかった。
「あれ、1年生だよね。きっと」
友恵は尚美の仕草をさほど気にする様子も無く話し続ける。
「でも、あんなヤツいたかなぁ。昨日は1年生の中に茶髪なんていなかったよね」
――1年生……やっぱりそうなのかな。そう言えば、あんな茶髪いたっけか?
「あっ、でも、入学式だけ良い子ちゃんだったのかもね。それで3年生に掴まったのかなぁ」
少しふっくらとした笑顔が、春の優しい陽射しを浴びていた。
尚美は、ちょっとお喋りだけれど自分にこんなに話しかけてくれる友恵に好感を抱いた。
笑顔で彼女の言葉に頷きながら、校門を一緒に潜って教室まで行った。
それだけで、なんだか胸が躍る。
教室へ入ると、一瞬尚美を見るみんなの視線が刺さった。
そして、その視線はあっと言う間に散り散りになって宙をさ迷う。
「友恵ちょっと」
昨日の髪の長い娘が、友恵の腕を引っ張って自分の輪の中に引き寄せる。
「あの娘、耳が聞こえないんだってよ」
ヒソヒソ声ではなかった。
確かに尚美には言葉は聞こえない。
しかし、彼女の唇はしっかり読めた。
友恵は一瞬尚美を振り返る。
少し困った笑みを見せた。
何を困っているのか……どうして急にそんな笑顔になるのか。
さっきまでのふっくらとした優しい笑顔は、どこかに消えていた。
髪の長いほっそりとした娘が、川田真穂という名だと知った。
彼女は聴覚の不自由な尚美を、別の生き物のように見た。
そして、だれかれ構わずその事を話題に友達の輪を広げて行った。
差別的な視線が教室の中で終始、何処からか注がれてくる。
「耳が聞こえなくて、授業受けられるの? ねぇ、それって無くない?」
「耳が聞こえないって事は、言葉が話せないんだよね。あたし、前にテレビで観たよ」
「あれじゃあ、先生が何を言っても聞こえないじゃん。勉強なんてできんの?」
「ていうか、誰か手話できる? どうやって彼女とコミュニケーションとるの?」
――聞こえなくても見えるもん。何を話してるか、解るもん。
尚美は自分の席について周囲を見渡していたが、何時の間にか俯いてしまい誰の唇も読まなくなった。
唇をぎゅっと噤んで、ただ机の木目を見つめていた。
自分を中傷する言葉を読むのが辛かった。
それは声で聞くよりもずっと。
周囲の雑踏が、文字通りただの雑音として中耳の奥に微かに届くだけだった。
担任教師はあえて尚美の障害の事をクラスに伝えてはいなかった。
それは差別しないという現われなのだろうが、それが逆にクラスに差別の視線、珍しいものを見て哀れむような慈悲の視線を作り出してしまった。
「でも、普通に話してる事は解るんじゃないかな」
友恵が真穂に言う。
「なんで解んのよ。聞こえないのに」
「うぅん……なんとなく」
友恵は困惑しながらも、再びふっくらとした笑みを見せる。
「ねぇ」
尚美の方を振り返った。
彼女はその気配と視線を感じて顔を上げる。
真穂たちのグループが全員視線を向けていた。
「話してる事、わかる?」
友恵は少しゆっくりと言う。
尚美はコクリと頷いた。
「適当な当てずっぽうでしょ。雰囲気とか、表情とか」
真穂がそう言って笑いながら
「まさか、テレパシーで心読んでたりして」
「それウケルゥ。ていうか、超怖くない」
誰かが言った。
周囲がドッと笑う。
――バカじゃないの。
尚美は再び困ったように笑うだけだ。