【38】クローバー
尚美は夕飯を半分残したまま、自室へ戻った。
母親が心配して「どうしたの?」と訊く。
彼女は笑顔で
「友達の家で、夕方お菓子を食べすぎた」と言った。
尚美はベッドに横たわって空の写真集を眺める。
林完次の夜の宙だ。
宵闇の湖、夜天光の町並み、朝まだ来の海……薄月の星空。
今夜はそんな空を見るのが相応しい。
尚美はふと時計を見る。
そろそろ姉の志美も自室へ戻った頃だろう。何時もは尚美よりも姉のほうが早く自室へ入る。
尚美はベッドから起き上がって部屋を出ると、隣のドアをノックした。
ココッコン。
ノックの音で、それが妹の尚美だと判る。
志美は声で返事をせず、自室のドアを開けた。
「どうした?」
最近元気がなかった妹には気付いていた。
母親に心配をかけまいと気丈に振舞う尚美だが、志美は敏感に妹の様子を感じ取っていた。
志美はベッドに腰掛けると妹を促す。
尚美も隣に腰掛けた。
黒いカバーの羽毛布団に、ふわりと腰が沈み込んだ。
『オネェちゃんは、今好きな人っているの?』
尚美はあえて手話で訊く。
こんな質問、恥ずかしくて声には出せない。
「どうしたの、いきなり」
志美は笑ってから少し間を置くと
「いるよ。あたしは、何時でも好きな人がいるなぁ」
彼女はそう言って天井の明かりを見つめた。
「なに? ナオも好きな男できた?」
少しだけ、わざとおどけた口調で言う。
「わかんない……」
尚美は姉の唇を読んでから俯く。
「でも……」
志美は妹が言いたげな言葉を、黙って待っていた。
小さな液晶テレビから、ミスチルの歌が流れていた。
尚美は姉の心遣いを察して続ける……今度は唇を開いた。
「障害者を、好きになる男なんて、いるのかなぁ」
抑揚は少しおかしかったが、それは彼女が吐き出した言葉だ。
自分の中に溜め込んで、声に出して吐き出したい言葉だった。
志美は黙って立ち上がると、机の前の椅子に腰掛ける。
黙って俯いたままの尚美に消しゴムをちぎってぶつけた。
自分を見た妹に、志美は言う。
「そんな事が心配なの?」
「そ、そんな、事?」
志美は椅子の背もたれに腕を回してそこに顎を乗せる。
妹の顔を見つめた瞳は、ゆっくりと瞬きした。
志美はくるりと椅子を回転させて振り向くと、机の引き出しから小さな手帳を取り出す。
「ナオ、これ見て」
彼女は手帳を広げる。
カラカラに乾いてペッタンコになった深い緑色の葉を、指先で摘んで取り出した。
「クロー、バー?」尚美は声に出した。
志美が手に取ったのは、四葉のクローバーを押して乾燥させた物だった。
「四葉のクローバーはさ、幸せを運んで来るって言うじゃない?」
尚美は小さく頷く。
コクリと、幼さの残る頷きだった。
尚美も小学校の低学年の頃、空き地の隅で四葉のクローバーを探した事が在る。
志美は彼女の表情を確かめるようにして言葉を続けた。
「でもさ、クローバーって本当は三つ葉だよね」
尚美は再び頷く。
「って事はさ、四葉のクローバーって異形なんだよ」
尚美は姉の言葉にピクリと瞬きした。
志美は口角を上げて笑うと
「障害を持ってるんだよね、四葉のクローバーはさ。でも、幸せを運んでくれるんだよ」
尚美はきょとんとして姉を見つめた。
志美はカラカラのクローバーを小さく振って
「障害を持ってるのに、幸せを運ぶんだよ。凄くない?」
「うん……」尚美は小さく頷いた。
「だからさ、ナオが障害を持ってる事は、何のハンディーでもないの。そんな事気にしないの。あんただって、きっと誰かに幸せを運ぶ事ができるんだよ」
志美は妹を諭すように、いかにも年上らしい口調をわざと使った。
「まぁ、誰かがテレビで言ってたんだけどね」
白い歯を見せて笑う。
「いいじゃない。ナオはごく少量にしか存在しない稀少な四葉のクローバーなんだよ。それでいいんだよ」
尚美は複雑な気持ちで「うん」と頷く。
四葉のクローバーが障害を持ってるだなんて、考えた事もなかった。
志美はクローバーを再び手帳の間に挟みこむと
「圭吾君と喧嘩でもした?」
「うん……すこし、だけ」
尚美は顔を上げて志美を見つめると
『でもそれは大丈夫』
目を細めて明るく笑った。
向日葵のような妹の笑みに、志美は安堵した。
お読み頂き有難う御座います。
ここで記載した四つばのクローバーの話しは、福祉活動をしていたある故人が実際に口にした言葉を一部取り込ませていただきました。
私が聴いた言葉を、他の誰かにも知って欲しいという純粋な思いからです。