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【37】優しさの後押し

「おい、大丈夫か? ナオ?」

 声が聞こえる。

 自分を呼んでいる。

 遠くで聴こえる声は、少しずつ近づいてくる。

 優しい声が、暗闇から聴こえた。

 闇の先に小さな明かりが差し込んで、目を開けると誰かの姿があった。

 眩しい……。

 西日を背に、彼の姿が黒く浮かぶ。

 そのシルエットが誰なのか、彼女には直ぐに判った。

 優しい音が、聴覚の奥に響いている。


「だいじょうぶか?」

 彼は尚美が目を虚ろに開けると、少しゆっくりと口を動かした。

 僅かに霞む眼差しで、尚美は彼の唇を読もうと意識を集中させる。

「なにがあった?」

 視線のピントが合うと、黒いシルエットは圭吾の姿に変わった。


 尚美がいたのは、タバコ屋の店先に在るコカコーラの古びた赤いベンチだった。

 角の塗料が剥げ落ちて、木製素材の色が浮き出ている。

 長く横に寝かせられて、彼は地面に膝をついて彼女を覗き込んでいた。

 尚美は上半身を起こそうと手をついて、まだ頭にふらつきを覚える。

 圭吾は彼女の肩を、そっと手で支えた。

 不意にガタガタと戸の開く音がした。

 タバコ屋のぼろい戸は、小刻みに押さないと開かないらしい。

 ふたりは、揺れながら開く戸を振り返った。

「またお前か。タバコは売ってやれんぞ」

 店主の老人が店先に出て来たのだ。

 エンジ色のシャツに、くたびれた茶色のベスト……いや、ちゃんちゃんこを羽織っている。

 老人はベンチに寝そべる尚美を見てハッとすると

「こらこら、それはやっちゃいかん事だぞ。それは見て見ぬふりは出来んぞ」

「違うよ。そんなんじゃねぇよ。なに勘違いしてんだよ」

 圭吾は慌てて老人に言った。

 彼は圭吾が尚美をベンチに寝かせて、よからぬ悪戯をしようとしていたと思ったようだ。

 尚美も慌てて上体を起こすと、首を振って老人の思い違いを正した。

「あんたら中学生なんだから、ほどほどの付き合いにしとけ。こんな所で……」

 状況を飲み込めない老人は、やっぱり真顔だ。

「そんなんじゃねぇって」

 圭吾は怒ったようにそう言ってから

「爺さん、電話借りれ……」

 しかし、尚美は圭吾の言葉を制して首を振る。

 彼はタバコ屋の店主に電話を借りて尚美の家に電話をかけようと思ったのだが、彼女はそれを拒んだのだ。

 ――家族に心配はかけたくない。

「なんだ、娘さんは顔色がよくないな」

 老人が言った。

「だから、ここで休んでるんだろ」

「なんだ、そうか。ワシはてっきり悪さしてると思ったよ」

「だから、してねぇって」

「またお前がこっそりと自販機でタバコを買ってるのかと思って出て来たんだが……」

 皮肉めいた口調で老人は皺くちゃな笑みを浮かべる。

 圭吾は何度かここでタバコを買っている。そして、店主の老人に見つかっては軽い説教を受けていた。

「買ってねぇし。ていうか、タバコはもう吸ってねぇよ」

 店主は少しだけ尚美に近づくと

「お嬢さん、大丈夫かね?」

 尚美は苦笑を浮かべて、何度も頷いた。

「貧血か?」

 尚美は再び頷く。

 とりあえず、この場は頷いてやり過ごそう……そう思った。

「最近の若いもんは、ひ弱でいかん」

 膝を着いていた圭吾は立ち上がって

「もう大丈夫だから、爺さんは引っ込んでくれ」

「本当に大丈夫か?」

 圭吾にではなく、尚美に訊いた。

 尚美はとにかく頷いて、無理に笑顔を浮かべる。

 店主の老人は踵を返して店の中に入って行く。ガタガタと音がして、ぎこちなく戸が閉まった。

「ったく、クソじじい……」

 ボソリと言った圭吾の言葉が、尚美はちょっと可笑しかった。



「何やってんだよ」

 圭吾は彼女を支えて、ベンチに腰掛けさせる。

 尚美はフウッと息をついて、橋のかかる運河を見つめた。

 橋げたの下で小船を浮かべて釣りをしている老人が見えた。

 圭吾は彼女の横に腰掛けて

「様子がおかしいから追いかけてきたら、いきなり倒れやがって」

 尚美は彼の方を向くと『ごめんなさい』

 小さく手を動かす。

『べつに……いいけどさ』

 圭吾も思わず手話で返す。

 尚美の顔に笑みが零れた。

 ――この安堵感はなんだろう……。

 圭吾は尚美の頬に着いた涙の跡に気付いていたけれど、それには触れなかった。

 しかし次の瞬間、再び彼女の頬を涙が伝う。

 それは、さっきのような冷たい涙ではなかった。

 ほろほろと頬を伝う雫は、熱をおびている。

 安堵に満ちた雫が、次々に湧き出てきて、尚美は俯いた。

「なんだよ、どうして泣くんだよ」

 困惑して圭吾は、俯く彼女を覗き込んだ。

 尚美の膝元にポトポトと雫が落ちる。

「泣くなよ……」

 彼女の頭に手を乗せた。

 チョビを撫でるように、そっと尚美の頭をなでる。

「別に、なんでも、ないよ」

 嗚咽を堪えて、途切れ途切れに尚美は声を出す。

 けれど、ぽろぽろ零れる涙は圭吾の手の温もりに後押しされてなかなか止まらなかった。

 彼は困ったように彼女の頭を撫で続ける。

 優しさが涙を後押しする事もあるのだ。

 西に傾いたクリーム色の陽光は、運河の水面をキラキラと光らせていた。

 その陽射しが目に沁みる……。






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