【36】息切れ
土曜日の午後。
北風は冷たかったが、窓を通り抜ける陽射しは暖かくぽかぽかと室内を照らしていた。
橋通りの商店街から駅前の商店街を横切って続く路地の先に古い住宅街がある。
伊藤誠の家は、その路地を二回ほど曲がった所にあった。
少し古ぼけた一軒家で、ブロック塀に囲まれた庭は広々としていた。
その庭の片隅にプレハブのコンテナハウスが建てられて、それが彼の部屋だった。
尚美は伊藤誠の誘いを断れなかった。
断ろうと思っていたのに、図書室の前で再び誘われて断れ切れなかったのだ。
別に勉強をするだけだし、彼だってなかなか好感度のある男子だ。
知り合って日が浅いという事意外に、尚美には不安はなかった。
彼の家を訪れた時に、彼の母親がジュースを持って来てくれた。
部屋の入り口で伊藤がそれを受け取ると、母親は室内を覗き込む。
尚美は苦笑して、彼女に会釈をしたが、声は出さなかった。
「じゃぁちょっと買い物に出かけて来るからね」
少し煙たがる伊藤の態度に、母親は早々と退散した。
伊藤が塾から貰ってきた数学と英語のプリント問題用紙を一緒にこなしていった。
1時間があっと言う間で、その後の1時間も何時の間にか経過していた。
「これでひと通りやったね」
伊藤が遠慮がちに伸びをして、シャーペンをテーブルに置く。
彼の部屋には小さな冷蔵庫があった。
伊藤はそこからペットボトルのジュースを取り出すと、空いた二人のグラスに注ぐ。
つまり、母親がジュースを持って来たのは一種の偵察だったのだろう。
息子の連れてきた異性の友人がどんな者か、確かめに来たというわけだ。
「疲れた?」
伊藤はオレンジジュースを口にして笑う。
尚美は首を横に振った。
それほど難しい問題でもないし、1時間ごとに休憩も挟んだ。
「テストなんて、結局は傾向と対策がものを言うからな」
塾慣れしていない彼女には、イマひとつぴんと来ない。
ただ頷いて笑ってみせる。
改めて部屋を見渡すと、圭吾の部屋とは大分雰囲気は違っていた。
壁には富士山の大きな写真が飾ってあり、他は殺風景だった。
勉強机には参考書がびっしりと並べられて、整理整頓されている。
コレが男の子の部屋――そんな定義は無いのかもしれない。
影がフッと動いた。
部屋を見渡す尚美の死角から廻り込むように、伊藤は彼女の隣に腰掛ける。
今までは四角いローテーブルを挟んで対面していたのだ。
尚美は反射的に身体を少しずらして、彼との距離を保とうとする。
「付き合ってるヤツとか、いないよね」
伊藤が微かな笑みを交えて言った。
彼女はそれに応える余裕が無い。座ったままさらに後ずさりする。
肩に手が伸びて、尚美を掴んだ。
強くは無いが、彼女が咄嗟に振り払えないくらいの力ではあった。
ほんの少し、胸の内から恐怖が湧く。
「な、なに?」
尚美の声に応える間も無く、伊藤は彼女を引き寄せてキスをしようとした。
伊藤の顔がグンッと寄って来て、尚美は顔を背けてかわす。
彼の顔が頬を掠めると、一瞬鳥肌がたった。
彼が迫る勢いは、そのまま尚美を押し倒す。
今まで座っていた絨毯が、背中では妙に硬く感じた。
「やめて!」
尚美は声を出して伊藤を横に押しのける。
渾身の力だった。
ゴロリと彼が転がって、ガラス戸にぶつかった。
ガラスが一瞬歪んで、注ぎ込む陽射しが揺れた。
伊藤は手をついて半身を起こすと
「どうせそんなにチャンスは無いんだぞ。今俺としたって、損はないだろ」
尚美も半身を起き上がらせる――チャンスがない? どういう意味?
彼女は怪訝に彼を睨んだ。
「耳の聞こえない障害者のお前を好きになるヤツなんて、これからだってそんなにいないだろ。だったら俺と付き合えばいいじゃん」
目を背けたくなるような言葉だった。
しかも、伊藤は尚美を好きだとは言わない。
例えば――好きだという気持ちを最初にはっきりと誇張してくれれば、受け止める側も少しは違っていたかもしれないのに……。
しかし今の尚美を支配するのは、恐怖だった。
目の前の恐怖を払いのけるように、尚美はグラスに入っていたジュースを手に取ると、伊藤に向ってぶちまけた。
急いで筆記用具とカバンを鷲掴みにすると、立ち上がって部屋のドアを開ける。
靴を履いたのは無意識だった。
庭を出て路地を駆け出していた。
――障害者のお前を好きになるヤツなんて、これからだってそんなにいないだろ。
伊藤の言葉が鮮明に蘇える。
息を切らす心臓の鼓動と共に、頭の中に響いた。
恐怖心は暗たんとした未来に呑み込まれてゆく。
いつの間にか頬が冷たい。
冷たい雫が頬を斜めに這っていた。
駅前商店街の外れに出て、自販機の陰で足を止める。
肩で息をしながらカバンに筆記用具をぐちゃぐちゃに詰め込む。
手が震えた。
空いた片手で涙を拭う。
ふき取ってもふき取っても涙が頬を伝う。
伊藤の行動に脅えたからだろうか。
違う……彼の言葉が心に突き刺さった。細い針で貫かれるような痛みが、胸の中を何度も突き刺す。
彼の言葉を思い出す度に……いや、読んだ唇の残像が蘇える度に何度でも胸を突き刺す。
ふと顔を上げると、ペットショップの袋を提げた圭吾が路地に立っていた。
「どうした……」
彼の言葉が終わらないうちに、尚美は再び走っていた。
橋通りの寂れた商店街を夢中で駆け抜けた。
障害者は人に愛されないのだろうか……。
息が苦しい。
呼吸が出来なくて、酸欠状態になる。
酷い耳鳴りだ。
電車で鉄橋を抜ける時のような轟音が、耳の奥で鳴り響いている。
景色がグニャリと歪む……一瞬、涙のせいかと思った。
目の前が眩んだ。
橋を渡りきって直ぐのタバコ屋に自販機が並んでいる。
尚美はひと気を避けるように歩道を横切って自販機に手をつくと、そのまま膝を着いて倒れこんだ。




