【34】夕闇
志美はマンドリン部の部室を出ると、友達に手を振った。
正門を出て少し行くと、好聖館学園高校の生徒がたむろするコンビ二が在った。
女子高生の甲高い笑が立ち込める店内は、何時も華やかだ。
「志美、これからデート?」
コンビ二の入り口で、クラスメイトの沙也香が手を振っていた。
志美は手を振り替えして、舌を出す。ナイショの意味だ。
マンドリン部は好聖館高校でも由緒在る部活動のひとつで、土日も欠かさず練習が在るので有名だ。
もちろん、志美は時々仮病で休むけれど。
彼女は交差点の角を曲がって国道へ出る道を自転車で走った。
三角形の土地を無理やり使った小さな児童公園が見えて、志美は自転車のブレーキをかける。
「遅いよ」
「だって部活だもん、仕方ないじゃん」
ひとつ年上の彼は、阿住雄太。
共学の高校に通う雄太は、部活はやらずにバイトばかりしている。
黒い前髪が風に靡いて眉にかかると、少し目を細める。
一重だけれど長めの睫毛が愛らしくて、志美の一番気に入っている部分だ。
「ユウくんだって、もうバイトの時間でしょ」
「だから遅いって行ったんだよ」
「なんで昼間のシフトにしないの? そしたらこれからゆっくり出来るのに」
志美は家族には絶対に見せない甘えた眼差しで、雄太の腕を叩いた。
「だって夜のほうが時給いいし」
彼はバイクを買う為にバイトを優先する。
そんな彼に志美は「バイク買ったら、一番目はあたしが後ろだからね」と何時も念を押している。
西日がひと気の無い公園に、家並みの長い影を落としていた。
少し話しこんでいる間に、夕闇が迫ってくる。
ふたりの長い影が、重なって頭の部分だけがひとつになった。
志美は少しだけ息をついて、唇をはなした。
「ダメだよこんな所で。学校の娘達が通るから……」
「もう暗くて判んないよ」
雄太はもう一度だけ、彼女の唇を短く塞いだ。
彼女もそれを拒む事は無かった。
好聖館は織堂家から少し遠い位置に在る。
運河を渡って商店街を抜け、国道を暫く行く。
中学までの道のりの3倍以上はあるから、歩いて行ける距離ではない。
志美が駅前の商店街を横切って橋通りまで来ると、微かに見覚えのある姿を見た。
駅前商店街と橋通り商店街は交差して、昔は街一番の繁華街だった。
しかし今は、閉まりきったシャッターと古ぼけた建物ばかりが目につく。
寂れた商店街も、街路灯だけは明るいのがいい。
志美が自転車を進めると、街路灯に照らされた人影がはっきりと浮かんだ。
――やっぱり。
彼女は機嫌が良かったせいか、彼の目の前で自転車を止める。
「こんばんは」
弾むような声で話しかけた。
圭吾は不意に声を掛けられて、ハッと息を飲む。
女子高生がどうして自分に声をかけてくるのか?
その顔に、誰かの面影を感じて再びハッとした。
「この辺に住んでるの?」
「誰、ですか?」
「尚美の友達でしょ? あたし、アイツのアネ」
――やっぱり。圭吾は何故か心の何処かで安堵する。
「名前は?」
「……舘内、舘内圭吾です」
「圭吾くんて言うんだ」
志美はマスカラの着いた目を瞬きさせる。
中学生男子から見たその笑顔は、ずいぶん大人っぽく見えた。
「尚美とは会ってるの?」
「な、何ですか? いきなり」
「アイツ、人付き合いが苦手だからさ、よろしく頼むよ」
耳が不自由だからとか、言葉が不自由だからとは絶対に言わない。
彼女の笑みに、圭吾は困惑する。
「そうでも、無いみたいですけど」
「どうして?」
「けっこう……」
伊藤の事は言うのはよそう。
圭吾は言葉を選んで「けっこう友達いるから……」
「へえ、そうかな」
「そ、そうだと……思います」
「妬いてんの?」
志美は自転車に乗ったまま、身を乗り出して彼に顔を近づける。
圭吾は思わず身を引いた。
フレグランスとファンデーションの香気が微かに漂う。
よく見れば、目元と鼻が尚美にそっくりだ。
笑った時に、横に開く口元も似ている。
圭吾は彼女の言葉にピクリと反応した。
――妬いてる? 俺が? そんなバカな……。そんな事ない。
街路灯の明かりが照らす薄闇の中で、それは誤魔化す事が出来ただろうか。
「だ、誰が……」
彼は近づいた彼女の視線を避けるように俯く。
「とにかくさ、最近ナオの元気がないのよね。まさか、喧嘩でもした?」
図星だ……なんて勘ぐりのいい姉だろう。
圭吾は彼女を警戒するように上目で見つめる。
再び視線を落とすと、紺色のハイソックスが見えた。
革のローファーが、水銀灯の明かりを吸い込むように深い艶を出している。
「べ、別に……」
「じゃあ、よろしくね」
志美は圭吾の肩をポンと叩くと、自転車を再び走らせた。
圭吾は街路灯に照らされた彼女の姿を、薄闇に消えるまで見つめていた。