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【32】誤解

 家に帰ると、母親に買い物を頼まれた。

 珍しい事ではなく、母親はよく尚美に買い物を頼む。

 聴覚に障害の在る彼女に自転車で買い物を頼むのは少々危険がある。しかし、だからと言って家で大事に引き篭もらせる事はできない。

 一人で何処へでも行き、何でもできるようにならなければいけない。

 だから彼女は自分の娘に遠慮はしない。

 尚美も遠慮がない家族に満足している。

 普通に扱ってもらう事は、障害者と健常者を隔てない平等性を重んじている事を彼女は知っている。

 それが、織堂家のモラルでもあるのだ。

 自転車をこいで、運河の端を渡る。

 イオンへ行く手前の食品スーパーで事足りる買い物だった。

 もちろん気が向けばイオンまで足を運ぶのだけれど、今日は手前の食品スーパーの特売日だ。


 スーパーのレジを抜けて買い物袋に商品を詰め込んでいると、隣の人が気になった。

 何処かで見覚えのあるほっそりとした出で立ち。

 私服だから気がつくのに遅れたが、それは向こうも同じだった。

「あっ……」

 一瞬目が合って声を出したのは、尚美よりも頭ひとつ分背の高い伊藤誠だった。

 尚美は目を細めて苦笑すると、遠慮の在る会釈をする。

 つられて伊藤も会釈した。

 しかし、その拍子に途中まで詰め込んだ買い物袋からマヨネーズとひき肉パックがぼとりと転げ落ちる。

「あ、やべっ」

 拾おうとする伊藤より先に、尚美がしゃがみ込んで手を伸ばした。

 思わず尚美の手の上に触れて、彼は急いで手を引っ込める。

「わりぃ」

 尚美は彼の顔を見上げて吹き出した。

 彼女の笑い声を聞いたせいか、伊藤は少しホッとした。

 声が出せる。噂通り、まったく喋れないわけじゃないんだ……。

「織堂尚美、だよね?」

 伊藤は彼女が拾い上げた物を受け取って、袋の中に放り込む。

 尚美は小さく頷いて

「あれ、あたし、じゃ、ない、から」

 声を出した。

 手話は通じないから、喋るしかない。

「ああ。判ってるよ」

 伊藤は白い頬を揺らして笑と

「何ていったっけ、茶髪の彼。同じクラスだろ。俺のとこに言いに来たよ。由加子にも訊いたし」

 由加子に何を訊いたのか?――でもそれより、圭吾はやっぱり忠告をしてくれたんだ。

 尚美は何度も小さく頷いた。

 ふたりは一緒にスーパーを出ると、駐輪場で立ち止まる。

 夕飯の買い物ピークは過ぎて、駐輪場は空いていた。

「俺んち、この近くなんだ」

 ――じゃぁ、圭吾の家と近いんだね。

 思っただけで、言わなかった。

 ただ頷いてみせる。

「ちゃんと話せるんだな」

 彼の優しさが見えた気がする。さっき発した言葉は、自分でも途切れが酷すぎた。

 尚美は手を胸の前に上げると、親指と人差し指で小さく楕円のCの字を作る。

『ちょっとだけ』という意味だ。

 手話ではない、ただのゼスチャー。


「織堂はどっち?」

 ふたりは自転車を押して歩道に出た。

 尚美が指差した方角は、途中まで伊藤も行く方角だった。

 少しの間彼と並んで自転車を押す。

 男の子と自転車を押して歩くのは初めてだ。

 お互いの自転車が意外と邪魔くさい。けど、なんだかその居心地の煩わしさが心地よい。

 それは圭吾と初めて一緒に歩いた時と似ていた。

「じゃあ、俺こっち」

 伊藤が不意に立ち止まる。

 尚美は橋通りを指差した。自分の向かう方角を示してみせる。

「橋の向こう?」

 尚美が頷く。

 会話は成立していた。

 秘め事のように、伊藤にはそれが心地よかった。

 何か特別な物を、勝手な解釈で感じていた。

「じゃあ」

 長い手を上げる伊藤に、尚美も手を振った。

 その時反対側の歩道を通り過ぎて行った自転車には、ふたり共気付いてはいなかった。





 伊藤誠との間に、些細な誤解は発生しなかった。

 尚美は清々しい気持ちで、翌朝学校へ向う。

 途中の路地から友恵が出てきて一緒になった。

 約束していないから、タイミングが合わなければ彼女と一緒にはならない。

 ――今日は陽よりもいいし、何だか運もいい。

「なんかいい事あった?」

 友恵が訊く。

「う、ううん。べ、つに」

 尚美はふくみ笑いを浮かべて、首を横に振る。

「ほんとに? なんかあやしいなぁ」

 友恵は真穂のグループから離れたまま、明るさを取り戻した。

 クラスでもごく普通にみんなに接しているし、そうすると何時の間にか周囲の態度も以前と変わらなくなった。

 真穂たちとは少しだけギクシャクしているようだが、彼女達のグループに干渉しない連中は他にもいるのだ。





 尚美は放課後に圭吾の姿を追った。

 昇降口を出た時、彼の姿はまだ正門の手前にあった。

 ――よし。追いつける。

 尚美は小走りに彼を追いかけた。

 伊藤に忠告してくれた事のお礼も、まだ言っていない。


 正門を出て農協倉庫のそばより、大分手前で彼に追いつく。

 息を切らせて肩を叩いた。

 しかし圭吾は振り返ることなく、言葉も発しない。

 振り返らなかったから、声を聞き逃したのだろうか……?

 尚美は黒髪を揺らして、彼を見上げるように覗き込んだ。

 圭吾の視線が少しだけ、彼女を見下ろす。

「俺だけバカみたいだな」

 ――何が? どうしたの?

 彼の口調は、どう見ても怒りを含んでいた。

「分け判んないこと頼んどいて、自分は本人と仲良くなってんじゃん」

 圭吾の言っている事が、尚美には理解できなかった。

 彼の肩を強く引いて、自分の方を向かせると尚美は両手を動かした。

『どうしたの? 何、怒ってるの?』

 圭吾が立ち止まって彼女を振り返る。

『伊藤と仲良く並んで、自転車押してたろ』

 荒らしく好戦的な手の動き。

 彼は立ち止まった足を再び動かして

『まぁ、関係ないけどな』

 再び歩く方向へ身体を向けた。

 荒ぶった手の動きに、尚美の胸に何かが突き刺さる。

 昨日のスーパーでの出来事だ。

 何処かで圭吾が見ていたのか……?

 路地の交差点で伊藤との別れ際に通り過ぎた自転車が、実は圭吾だった事を彼女は知らない。

 再び圭吾の肩を掴んで振り向かせる。

『昨日のアレは、違うんだよ』

「いいよ、別に」

 圭吾は歩く足を速めた。

 ぶっきら棒な演技ではない、冷たい眼差しが彼女の心の奥を突いた。

 尚美は立ち止まって彼の歩き去る姿を見つめた。

 後を追うことが出来なかった。

 冷たい氷の剣が胸の奥に突き刺さって、苦しくて前に進む事が出来なった。




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