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【2】困惑の眼差し

 教室に入って来た担任教師は、ゆっくりと自分の名前を黒板に書いた。

 七瀬美智子。

 ベージュのパンツスーツに黒髪を後ろで束ねてバレッタで留めている。

 足元は白い運動靴だ。

 女性らしく、教師らしい質素な出で立ちだ。

 まだ20代であろう女性教師は、ゆっくりと喋る。

 その唇は、尚美にとってとても読み易いものだった。

「今35人ですが、明日もう一人みんなの仲間が増えます」

 教師はそう言って、笑った。

「入学式には間に合わなかったみたい」

 教室がドッと沸く。

「新入学なのに、どうして転校生なんですかぁ?」

 長い黒髪の娘が言った。

 一番後ろの席にいる尚美には言葉は読めなかった。

「本当は他の中学に手続きしていて、それで急遽この町に越してくる事になったの」

 七瀬微かに笑って周囲を見渡す。

「だから、手続き上は転校になるのよ」

 ふと気付くと、友恵が尚美を見ていた。

 笑うでもなく、限りなく無表情な眼差しだった。

 でも、尚美は先生の唇を読まなくていけないから、直ぐに視線を教師に戻す。

 好奇の眼差しだろうか……。

 ギリギリの知能だと思われているのだろうか……?

 尚美は担任の話す言葉を読みながら、遺憾いかんな思いに駆られるのを感じていた。



「どうだった? 学校」

 家に帰ると、母親が買い物から帰った所だった。

 冷蔵庫に食材を詰め込みながら、尚美を見ている。

「解んない」

 尚美は短く応える。

 家族の前では、トーンがおかしくても気にならない。

 言葉と言葉で会話が出来るのは、今のところ家族だけだ。

 母親も父親も、そして姉の志美も手話ができる。

 尚美が発音の勉強をする前は、ずっと手話で会話してきたが、今ではできるだけ声を発してコミュニケーションをとっている。

 そうは言っても、急いでいるとついつい手話の方が速かったりもする。


 母親はなかなか手話を覚えられずに苦労した。

 仕事人間の夫は以外に呑み込みが早く、姉の志美はあっと言う間に尚美と会話を堪能していた。

 娘の為なのに……。

 母親は親として不甲斐無い自分に、初めてジレンマを感じるほどだった。

 そんな彼女も今ではボランティアで手話教室の講師をし、点字図書なども手掛けている。

「なによ、解んないって。友達できそう?」

「解んない」

 尚美は再び応える。

 投げやりではない。本当に判らないのだ。

 みんながこれから自分にどう接してくるか、1日だけでは解らない。

 彼女は曖昧な笑みを浮かべて

「でも、大丈夫だよ。心配ないよ」

 途切れ途切れにそう言った。




 蒼い虚空を滑るように、白い雲が流れてゆく。

 登校途中の遊歩道には桜並木が植えられている。

 風で散った花びらは、陽光に照らされて白い吹き溜まりになっていた。

 不規則な風が吹くたびに、白色の花びらが地表に舞う。


「てめえ、ふざけんなよ」

 路地の奥から声が聞こえた。

 いや、尚美にはただの雑音にしか聞き取れない。

 彼女は周囲に視線を巡らせて、気配を感じる路地を覗き込んだだけだ。

 住宅街の狭間。

 コンクリートのどぶ川の続く狭い路地に、学生服の集団が誰かを囲んでいる。

 囲まれている一人も、学生服だ。

 ――喧嘩かしら?

 尚美は立ち止まって、成り行きを見ていた。

 おそらく自分の通う中学の生徒だろう。一人を囲んでいる集団は、体つきからして上級生だ。

 囲まれている一人は……少し小柄で、しかし髪の毛を茶色に染めている。

「一年のくせに、なんだよその髪」

 集団の一人の唇が読めた。

 言葉を発した上級生が、小柄な少年の茶色い頭髪に手を伸ばす。

 髪の毛を掴む動作だろう。

 しかし、茶髪の少年は自分の髪の毛に触れさせはしなかった。

 あっと言う間に、拳を突き出したのだ。

「あっ!」

 尚美は息を呑み込んで思わず声が出た。

 しかし、集団には届かない。

 彼が突き出した拳を皮切りに、一気に揉み合いになる。5対1だった。

 茶髪の少年は身体をクルリとひねって、パンチを繰り出した。

 集団の一人が再び後に倒れこんだ。

「ふざけんなよ!」

「ふざけてんのは、そっちだろ」

 雑音が飛び交う。

 時折読める言葉は、いかにも乱暴でガサツなものだ。

 体つきの大きな上級生と、茶髪少年が制服の襟首をつかみ合ったまま、身体をぶつけ前後に揺さぶり合っていた。

 他の連中は恐怖が沸き起こっているのか、躊躇して手を出さずにいる。

 少年の素早いパンチを警戒してるのだろう。

 もみ合いの中、どぶ川の低いフェンスに茶髪少年の身体が押し付けられた。

「先生っ!」

 尚美は声を発していた。

 なんともスットンキョーな声色が路地に響く。

 多勢に無勢……無意識に少年に加勢していた。

 それに気付いた上級生の集団は、バタバタと路地を向こう側へ走り抜けて消えた。


 茶髪の少年が尚美を見ている。

 背中に冷たい電気が走るような鋭い視線。

 傍に建つアパートの日陰の中で、小さく眼光が光ったように思えた。

 路地から微かに冷たい風が吹き抜ける気がした。

 彼女は狼の瞳にでも魅入られたような気がして、慌てて視線を逸らし路地から離れた。






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