表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/62

【26】傘

「俺には、妹がいたんだ」

「いたって……もしかして、今はもう……」

「いや、ちゃんと生きてるよ。離れて暮らしてはいるけどね」

 圭吾は、妹が聴覚障害を持っていた事や実の母が妹だけを連れて出て行った事を尚美に話して聞かせた。

 誰かにこんな話しをするのは、まったく初めての事だった。

 尚美は黙って彼の唇を読んでいた。

 彼が話すまま、食い入るようにその言葉を読み続けた。

『だから手話が上手なんだね』

 尚美は自分のグラスを手にとってひとくちコーラを飲むと、直ぐにそれをテーブルに置く。

『あたしの家族も、手話が上手よ』

「俺の家族は……父親と今の母親は、手話はできないよ」

『お父さんも?』

『ああ』

 圭吾も手を動かした。そして話す。

「親父は仕事人間さ。転勤が多くて、家族より仕事が優先なんだ」

 圭吾は今まで幾度と無く転向させられた事、転勤が多くて妹の手話教室の通いが大変で結果的に母親が連れて行ったらしい事を話す。

「今度もまた何時転勤になるか判らない」

「じゃあ、また転校するの?」

 尚美の中に不安が沸き乱れて、眉を潜める。

「いや、今はまだ判らない。暫くこの町にいる予定では在るみたいだ」

 圭吾はペットボトルのコーラを自分のグラスに注いだ。

 尚美は心の中でそっと息をつく。

 重くせりあがった不安が、溶けてゆく。

 何故不安になったのか……。

 どうしてホッと息をついたのか……この時は考える時間がなかった。

「だけど……」

 圭吾は話しを続ける。

 ――だけど?

 尚美は彼の唇を一心に見つめた。

「なんでもない。別に今考える事じゃないな」

『そのうちまた、転校する?』

 尚美が両手を動かして問う。

 彼女の澄んだ虹彩の中心に、圭吾は自分の姿を見た。

「いや……やめよう。そんな事、俺らには判んないし」

 圭吾は言い出せなかった。

 転校は平気だ。ただ、消えてなくなる友達ごっこはしたくない……そんな言いがかり的な考えは、自分が弱いからかもしれない。

 それを言葉に出す事さえ、躊躇した。

 彼は痣の浮き上がった頬を摩りながら

「ウサギ、雨に濡れなかったかな」

 そう言って、窓の外に視線を向けた。

 西に傾いた陽射しの外で、カラスが鳴いていた。



「あら? ナオ、制服はどうしたの?」

 帰宅した尚美は、そっと玄関を入ってネコのような足取りで階段へ向う途中、母親に出くわした。

「あっ……」

 学生カバンを抱えるジーンズ姿は、確かに妙だった。

 しかもサイズがメチャクチャだ。

 制服は完全に乾かなかったから、小さな紙バックに入れて持って来た。

 尚美はカバンを放り投げるようにして手を空にすると

『ちょっと……あんまり雨に濡れたから、友達の家で着替えてきた』

「雨に濡れたって……あんた、今日傘持って行ったじゃない」

 母親が眉を潜める。

『傘は……』

 彼女は苦笑すると『友達と一緒に入ってたら、雨が強くなって』

 母親は上から下まで尚美を眺める。

 シャツの袖もジーンズの裾もぶかぶかだ。

「大きい友達なのね」

「う、うん……」声を出して尚美は頷いた。

『あたしは、小さい方だし……』

「それもそうね」

 母親はそれ以上、追求はしなかった。

 ただ、洋服を貸してくれる友達が尚美にもいる事に安堵した。



「その怪我、どうしたの?」

 黙々と夕ご飯を頬張る圭吾に、母親が訪ねる。

 何時ものように食卓に父親はいない。

 帰って来るのは何時も夜の10時は過ぎるから、夕飯はふたりきりだ。

 そして父親が帰る時間、圭吾は必ずと言っていいほど部屋にいる。

 もう一週間ほど顔を合わせていないが、それは今に始まった事ではない。

「別に……ちょっと」

 切れた唇は食事がとりにくかったが、圭吾は出来るだけ平気なフリをしてご飯を口へ運んだ。

「別にって、頬にも痣ができてるわ」

 細い指が、圭吾の頬へ伸びる。

 彼は少し顔を引いて、それを拒んだ。

「何でもないよ」

 少し強い言い方に、義母は口を閉ざす。

 それでも彼女は彼女なりに圭吾とのコミュニケーションを望んでいた。

 母親ぶるつもりも無いが、家族として上手くやって行きたいと思っていた。

「今日は、誰か来たの?」

 気を取り直すように、笑って再び圭吾に訊ねる。

「別に……」

「尚美さん?」

 圭吾の箸が一瞬とまる「なんで?」

「玄関に紅い傘があるから」

 彼女は滅多に見せない悪戯っぽい笑みを零すと、湯飲みにお茶を注いで

「あれって、誰のかなぁ。って思ってね」

 圭吾は黙って味噌汁を啜った。

「痛っ……」少し沁みる。





 日中の雨がウソのように、紺青に月が輝いていた。

 雨に洗い流された大氣は、月影に碧い雲を浮き上がらせる。

 尚美は思い立ったように空の写真集を本棚から引っ張り出していた。

 夕焼けに染まる海岸、チューリップ畑を見下ろす蒼い空と夏雲。

 ふと自分の左手の甲を見つめた。

 右手の指先4本でそこに小さな円を描く……会話の中ではよく使う動作『好き……』の手話表現。

 好きな食べ物や好きな飲み物、好きな色、好きな動物。

 どれも同じゼスチャーを使って表現する。

 でも――『愛している』という感情表現も同じなのだ。

 人を好きになった時に使う言葉。

 相手に好意を示す表現……。

 尚美は我に帰ったように、左手の甲をゴシゴシと擦った。

 いま描いた言葉をもみ消すように、何度も擦った。

 胸の奥から何かがせり上がる。背中がソワソワして、集中できない。

 彼女は静かに息を吸って長く吐き出すと、空の写真集を閉じる。

 数学のテキストの続きに視線を向けた。

 ――あっ……。

 圭吾の家に、自分の紅い傘を忘れてきた。






ご覧頂きありがとう御座います。

少しずつ話しは進んでいます。

時折連載ペースが不規則になりますが、よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ