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【25】アリガトウ

「痛てっ」

 圭吾は思わず身体ごと顎を後ろに引いた。

 唇の淵を切っていたし、頬に小さな痣が出来ている。

 尚美は濡れタオルとキズ消毒液を持って、彼の横に座っていた。

 脱脂綿に浸した消毒液を、唇の淵につけた途端、圭吾が声を上げたのだ。

「もうチョットそっとやってくれ」

 尚美は両手に持った脱脂綿と消毒液をテーブルに置いて

『そっとやってる』と手を動かす。

「本当かよ。いまメチャクチャ痛かった」

『それは、怪我をしてるからしょうがないんだよ』

 尚美は自分のグラスを掴んで口へ運ぶ。

「じゃぁ勝手にして」という素振りだ。

 ちょっと彼の様子を盗み見る。

 圭吾は自分の手で濡れタオルを掴むと、たどたどしく頬に当てた。

「やっぱ痛てぇ」

 拳にも痣があって、手の甲に引っかき傷がある。

 その痛々しさに、尚美は小さく肩をすくめた。

 彼女は再び消毒液を脱脂綿に着けて、彼の手の擦り傷に当てる。

 頬の上の彼の瞳は間近で見るととても澄んでいて、琥珀色に近い虹彩が小さく揺れていた。

 その瞳がスッと細くこわばって、小さく瞬きした。

「あいつら……おまえの事、障害者だって言いやがって」

 彼は窓の外に細めた視線を留めたまま呟いた。

「だって、そうでしょ」

 尚美は彼の手の傷をふき取る。

 別にそう呼ばれる事には今更抵抗はない。事実、障害者カードの恩恵も受けている。

 滲んだ血液が、白い脱脂綿をえんじ色に汚してゆく。

「違う……」

 圭吾の口が動いた。

 尚美は彼の横顔から唇を読む。

 雨音は静に部屋に流れ込んでいた。

 庭木の葉をそっと叩くその音さえも、彼女に聴こえはしないのだが……。

「ナオはナオさ。障害者なんていう差別的な呼び方はムカつくんだよ」

 彼が一番腹立たしいのは、彼らが暴力を止める間際に言った一言だった。

 小学校の頃、妹の事を障害者と呼ばれて喧嘩になった事も実際にある。

 その時も悔しかった。

 記憶は混濁して蘇える。

 袋叩きにされる中で意識は朦朧としていたが、あの言葉は確かに耳に届いた。

 しかし、反撃する余力は既に無くて、そんな不甲斐無さが余計に悔しかった。

「アイツらは、判らないんだ」

 呟くように圭吾の唇が小さく動く。

「仕返し、なんて、しないでね……」

 すこし上ずった声で、尚美は言った。

 それでも最近声を出す事は以前より増えたから、トーンが不安定になる事も少ない。

 圭吾はチラリと尚美を見て、再び窓の外を見つめる。

 尚美はその瞳があまりにも近い距離にある事に気づく。

 頬を押さえた左手の甲についていた血痕はキレイにふき取られた。

 時間が経つに連れて、頬の痣は鮮明になって行く。

 彼の掌が半分覆った頬から、彼女はそっと距離をとった。

 もともと絡まれた理由は、彼の身なりや態度にある。もちろんそれは、絡んできた連中の量りの基準での事だが……。

 しかし、それはそれ。最後に発した言葉は、圭吾にとって許せない言葉だった。

 それまでの掴み合いに何の意味があったのだろう……。

 振り下ろされた拳。蹴りつけてきた何本もの脚。

 そんな物理的な衝撃は何処かへ跳んでゆく。

 身体障害者……いかにも健常者とかけ離れた存在と認識させるような呼び名。

 その分け隔ては、圭吾が一番嫌いな呼び名だ。


「アリガトウ」尚美は言った。

 圭吾はふと振り返る。

「助けてもらったのはこっちだ」

 尚美はブンブンと首を振る。まだ湿った黒髪が大きく揺れた。

 彼の傷ついた横顔に添えられたキズだらけの手が、とても愛おしいと思った。

 彼をもっと知りたいと思った。

 圭吾の肌に触れたいと思った。

 尚美は彼の手に触れたまま、首を振り続けた。

 圭吾の手がフッと、尚美の手から抜ける。

「ちょっと痛いんだけど」

「ゴメン……」思わず苦笑した。


 圭吾は小さく肩をすくめると、尚美の方に斜めに身体を向ける。

 彼の膝が、尚美の膝にコツンと触れた。

 その衝撃は下半身を揺らして腰骨と脊椎を通り抜け、胸の芯まで到達する。

 右掌を水平にしたまま、圭吾は自分の胸元で大きな円を描いた。

 尚美の胸元を、彼の指先が掠める。

 その右手を垂直に立てる。

 今度は水平にした左掌を弾く様に、右手で垂直に軽く叩く様にクロスさせた。

 ピクリと尚美の鼻が動いた。

 大きく瞬きをして、彼の手の動きの残像を追う。

 それは『ありがとう』の意味。

 圭吾の唇も、確かにそう動いた。

 外から聞こえる雨音のノイズはすでに消えている。

 大きな窓から微かな陽射しが入り込んで、レースの白い影がチラチラと瀟洒なカーペットの上で揺れていた。






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