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【23】濡髪

 午後から降り出した小雨は、いつの間にか確かな音を立てて校庭の固い土を叩いていた。

 4階の音楽室から6時限目に見えた運河の水面が、激しく褐色の波紋に埋め尽くされていた。

 尚美は圭吾の姿が教室から出るのを視線で追うと、直ぐに自分も昇降口へ向う。

 階段で友恵とすれ違ったが、そのまま笑顔で通り過ぎた。

 彼女は日直の為、ホームルームの後に職員室へ一度向かった帰りのようだ。

 何か言っていた気もするけれど、唇を読む間もなかった。

 昇降口を出たタイルは激しく濡れていた。真っ赤な傘をさして、尚美は圭吾の後を追う。

 彼はもう、正門を出て通りへ曲がった所だった。

 足早に、それでも周囲に気付かれないように配慮しながら暫く先を歩く圭吾を追う。

 校庭を出るまでは気をつけないと、ハイソックスに泥跳ねもとび易いし……。

 石造りの正門を出ると、視線の先で紺色の傘が雨に打たれていた。


 農協の倉庫が先に見える。

 黄土色のがさついたブロックの壁面は、元々何色なのかは判らない。

 鉄の扉は茶褐色に錆びて、景色は雨に呑み込まれるようなセピア色だ。

 数人の生徒が前方で、突然圭吾を取り囲んだ。

 尚美は息を呑み込んで立ち止まる。何が起きたか判らなかった。

 何人かは持っていた傘を投げ捨てるようにして、両手の自由を手に入れると圭吾の制服に掴みかかった。

 圭吾が完全に囲まれた。

 彼の姿はほとんど見えない。

 しかし、集団の中央に彼がいるのは明らかだった。小さな歩道を横切って、農協倉庫の敷地に集団が動いてゆく。

 暴れる圭吾の手が微かに見えたような気がして、尚美は小走りに前に進んだ。

 誰かが圭吾の髪の毛を掴んでいる。

「このやろう」とか「ふざけんな」とか言っているのだろう。とにかく乱暴な声は乱雑なノイズとなって雨音を割り、尚美の耳に届く。

 息が切れた。胸が高鳴るのは走ったせいなのか恐怖なのか判らなくなった。

 何かをしなければ……相手が多すぎる。

 このままでは圭吾が殺されてしまうような気がした。

「やめて!」

 何時ぶりか判らない大声を出した。

 おそらく小学校の低学年以来だろうか。

 尚美は圭吾を取り囲む集団を、力いっぱい割ろうとした。

 大きな身体は彼を殴りつけるのに夢中だ。

 一番近くにいた一人の腕を掴んで引っ張る。

 ちょうど圭吾に向って振り切ろうとした腕にしがみ付いて、彼女は力ずくでそれを止めると、後ろに引っ張った。

 小さな隙間ができた。それを抜けるように、素早く圭吾に辿り着く。

 彼の濡れたシャツの袖を掴んだ――圭吾からはぐれないように。

 顔を覆うように半分うずくまる彼は、もう腕を突き出す気力も残っていなかった。

 尚美は周囲に背を向けて、圭吾の前に覆い被さる。

 背中に躊躇のある拳が少しだけ掠めた。

「やめろっ」

 声がした。

 山之内孝志だ。

 集団の一人は圭吾から尚美を引き剥がそうと肩に手を掛けていた。

「やめとけ」

 山之内はもう、腕をダラリと下ろして誰かを殴る姿勢は無くしている。

「なんだよ。じゃまな女退けちゃえばいいじゃん」

「そいつ、1年の障害者だぞ。やめとけよ」

「関係ねぇよ」

 尚美の濡れた肩を鷲掴みにする手があった。

 山之内は、尚美の制服を掴んだ悪友の手を制する。

「俺はそこまであくになりたくねぇ」

 彼らは自分たちが悪である事を知っている。

 それがカッコイイと思う年頃でも在る。

 しかし、人道に外れた行為はしたくないのが、山之内の真稔だ。

 道徳を無視し、社会に反抗しながらどこか矛盾した思想は人としての一線を越える事を許さない。

 それは反面、スポーツに熱中する姿にも精通する。

「もういいだろ。お前もこの前の仕返しは終わった」

 尚美を圭吾から引き剥がそうとしていた彼は、入学式の朝、圭吾に初撃をくらっていた。

「孝志は優しいからな」

 そう言って悪友は、尚美の肩から手を離すと

「俺も、女どもを敵に廻したくねぇし」

 開いたままの黒い傘が数本と、尚美の紅い傘が雨の打つ道端に転がっていた。


 山之内は赤い傘を拾うと、尚美の手に無理やり握らせる。

「後はその髪を黒くすればチャラだ。って、そいつに言っとけ」

 彼はそう言ってから苦笑する「耳が聞こえないんだっけ」

 尚美は山之内を見上げてみる。

 頬と下あごが震えた。雨に打たれて冷えたせいだろうか、それとも目の前にいるさっきまで狂暴だった男に恐怖を感じるからだろうか……。

 彼の言葉は読み取れた。

 雨に濡れそぼる顔は穏やかで、さっきまで圭吾を囲んで殴っていたとは思えない。

 周囲には他に5人の男子がいた。

 みな制服をびしょ濡れにして、大きく息を着いている。ある意味の達成感に浸っているようだ。

 尚美は頷くわけでもなく、ただ周囲を見渡した。

 脅える瞳を凝らして、強く見開く。

 集団は彼女に背を向けると、歩道に転がった傘を拾って去って行った。

 雨が地面を叩くノイズだけが、急激に音を蘇えらせる。





 尚美は圭吾に付き添って、彼の家まで来ていた。

 肩を貸して歩いたが、背丈が合わないし男子の身体はやっぱり重くて苦労した。

 どっちが怪我人だか判らないように、尚美はたどたどしく覚束ない足取りで歩いた。

 何とか手に掴んだ傘を、圭吾は尚美の身体の上に出来るだけかざした。

 しかしやっぱり傘が上手くさせなくて、けっきょく二人共ずぶ濡れのまま彼の家まで辿り着く。

「だいじょうぶ……?」

 玄関を入ると、家の中は静まり返っていた。

 圭吾が取り出した鍵でドアを開けたから、誰もいないのだろう。

 尚美は靴を脱いで玄関を上がり、彼をリビングのソファに促す。

 圭吾は背もたれにグッタリと寄りかかって

「あぁ、ちきしょう。一人増やしやがって」

 呟くように言った。

 尚美はソファの後ろから彼の肩を叩くと

『何か飲む? お茶入れようか?』

「冷蔵庫にコーラが入ってるよ」

 圭吾が言うまま、尚美はキッチンの冷蔵庫からコーラのペットボトルを取り出す。

 彼が尚美の方を見ていたから『グラス使うよ』と断って、食器棚に手を伸ばす。

 雨雲が空を埋め尽くして、窓から入る光も僅かだった。

 外にはまだ、降り注ぐ雨音が響いている。

 尚美がテーブルにグラスを置いてコーラを注ぐと、圭吾はそれを掴んで一気に飲み干した。

 ひとつ息をつく。

「でも、とりあえず全員に反撃したかな」

 そして思い出したように尚美を見上げた。

「お前、大丈夫だったか?」

 尚美は頷いてとりあえず笑う。

 髪の毛の先から、雫がぽたりと落ちた。

「あぶねぇぞ。あいつらサッカー部だから、やたら鍛えてやがるんだ」

 再び尚美を見上げる。彼女の頬に髪の毛が張り付いていた。

「お前、ずぶ濡れじゃんか」

『あんたのせいでね』

 今日は尚美が悪戯っぽく笑った。

 何処から取り出したのか、彼の手からタオルが放られた。

 柔軟剤をたっぷりと含んで、パイル地はふわふわしている。

「俺の部屋にいって、適当に着替えろよ」

 その言葉に尚美は驚いた。両手に掴み取ったタオルを握り締める。

 男物の服なんて……しかも同級生の服を?

 顔の前で、手をブンブンと振る。断りの意味だ。

 彼は膝に手をついて立ち上がると、尚美の手からタオルを取って彼女の頭に被せる。

 濡れた仔犬の背をふき取るように、少し乱暴にゴシゴシと頭を撫でた。

「風邪引いたら寝覚めが悪いだろ。着替えていけよ。別に覗かないって」

 圭吾は笑う。

 唇の淵が少し切れて血が滲んでいた。

 尚美は濡れた前髪が額にくっついたり離れたり……。

 タオルの隙間から圭吾を見上げて、少しだけ俯いた。






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