【21】屋上
少し間が空いてしまいました。
連載再開です……が、少し更新ペースが落ちるかもしれません(^^;
蒼い空は見えなかった。
何処までも雲が埋め尽くす灰色の空は、低くくぐもっている。
梅雨入り間近の湿った風が、屋上の給水塔下をすり抜ける。
圭吾は昼休みになると、よくここへ来る。
教室へいても何処か居心地がシックリとこないし、意味も無く親しげにはしゃぐ連中が鬱陶しくも感じた。
ここでは風の音しか聞こえない。
時折雲の波間からジェット機の轟きが響くのは、隣町にある航空自衛隊の基地から飛び立つ練習機だ。
無機質な音は群集からかけ離れていて、かえって心地よささえも感じる。
広い空が自分の居場所だ。
誰もいない……もちろん本来立ち入り禁止の屋上は、虚空の中に身を浮かべるような圭吾にとっての特等席だった。
――蒼穹を見上げる自分は嫌いだと言った。
確かに、自分はそう思う。
でもやっぱり蒼穹を見上げると、心が落ち着く自分がここにいる。
ふっと、人の気配が圭吾の傍らに近づいて来る。
くぐもった空の下では、濃い影は落ちない。
ごく薄く、微かな影が彼の頭を覆う。
『やっぱりここにいた』
コンクリートに横たわった圭吾は、傍らにしゃがみ込んだ尚美の胸元を、逆さに眺める。
見下ろす彼女の髪の毛がふわふわと風にそよいでいた。
『屋上が好きなんだ』
尚美はしゃがみ込んで、圭吾の顔を覗きこむ。
『べつに……』
圭吾は口を噤んだまま、気だるく手を動かす。
『だって、昼休みは何時も上でしょ?』
「別に、好きなわけじゃない……下にいるよりマシなだけさ」
彼はぶっきら棒に口を開くと、自分を覗き込む尚美の向こう側を見る。
灰色の空だけが、ムクムクと埋め尽くす果てしない帳。
尚美は寝そべる圭吾の傍らに膝を抱えて腰掛けた。
衣替えしたブラウスの背中には、微かに下着のホックの跡が浮かんだ。
圭吾はその視線を直ぐに空へ向け直す。
「学校で俺に近づいても、いい事無いぞ」
空を見上げたまま言った。
彼女は背を向けているから、言葉は届かないだろう。
それでも圭吾の声に、尚美は振り返る。
「ん?」
「何でもない」
彼女の視線に向けて、口を動かした。
尚美を見ていると、美佳を思い出す……。
彼女がこの年になれば、いや……少し幼げな尚美とはちょうど今、妹と同じ感じかもしれない。
懐かしさがひび割れ、苛立ちが滲み出る。
それは尚美が妹ではないからなのだろうか……。
『もう梅雨だね』
屋上に行く圭吾を、尚美は何時も見ていた。
何時か後を追いかけて自分も屋上へ行こうと思っていた。
本当は蒼い空が何処までも続く景色を一緒に眺めて話しをしたかったけれど、何時の間にか梅雨景色の季節が近づいていた。
それでも尚美は自分の行動に高揚感を抱いてここへ来た。
だから喋る。
用意していた言葉を半分だけ散りばめて、言葉を紡ぐ。
「ああ」
彼は空だけを見つめていた。
無邪気な振る舞いが、よけいに圭吾を苛立たせた。
近づきすぎてはいけない……。
親しみに満ちた関係は、鋭いナイフに姿を変えて何時でも自分を傷つける。
鋭い刃先で、心を切り裂く。
何時もそうだった。
思い出せ……何故、自分が孤独を演じるのか。
何故、親しい友人を作らずに過ごしてきたのか。
父親の転勤という、子供には関係の無い世界の出来事で、莫逆の友も容易く消え失せる。
親しみも友情も愛情も、お互いの慈しみさえ、温暖化の進む南極の氷山のように音をたてて瓦解してゆく。
「そんなに俺に馴れ馴れしく近づくな」
圭吾はチラリと尚美の顔を見て、直ぐに視線を空に戻す。
覆い尽くすねずみ色の空は、低く何処までも続く。
尚美は唇を読み違えたと思った。
瞳を丸く開いて、困惑の笑みを零す。
『あまり、俺にかまうな』
圭吾は空を見上げたまま、はっきりと両手を動かしてみせる。
『どうして?』
尚美は圭吾の心理が読み取れなかった。
ウサギを見せてくれた彼の優しい眼差しは、人を寄せ付けない普段の彼ではなかった。
それが彼の本当の姿なのだと、尚美は感じていた。
そうでなければ、遠足の時だって一緒に歩いてくれたりはしないだろう。
『どうしても……』
圭吾は冷たく両手を、小さく動かした
彼にその理由を話す気はない。孤独は自分の内に在ればいい。
尚美は膝を抱えなおすと
『圭吾に近づくか近づかないかは、あたしの勝手だよ』
『俺が嫌なんだ』
彼がむきになって大きく手を動かす。
そんな圭吾を、尚美は呆然と見つめた。
心の中で、何かがしゅんと萎んでゆく。
「嫌、なの……?」思わず声に出す。
弱々しく、たどたどしい唇から零れるように声が出た。
圭吾は一瞬躊躇した。
「あ、ああ……嫌だ」
尚美はその言葉が合図になったかのように立ち上がって、スカートをパンパンとほろう。
寝転んだ圭吾を数秒見下ろした。
揺らいだ黒い影が、圭吾に重く圧し掛かる。
弱い心が読み取られそうで、恐怖さえ感じた。
だから圭吾は、視線を別の空へ向ける。
何処へ向けても、視線の先に在るのは適当に絵の具を滲ませたようなねずみ色の空。
視線の端で、彼女の黒い影を見つめていた。弱い風で、はらはらと髪の毛先とスカートの裾が揺れていた。
やがて影は去り、遠ざかる微かな靴音は小さく消える。
重い鉄の扉の閉まる音だけが、くぐもった虚空に響き渡った。