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【20】姉妹

 ノックの音がした。

 ドアの振動と外から聞こえる音のリズムで、尚美はそれがノックだと判別する。

 部屋のドアを開けると志美が立っていた。

「ナオ、中間試験は学年で6番だったんだって?」

『まぁね』唇を読んで応える。

「やるじゃん」

『だって、簡単だったんだもん』

「これから直ぐに難しくなるよん」

『そしたら、オネェちゃんに教えてもらう』

 些細な会話だが、志美は時折尚美の部屋に来て声をかける。

 尚美も同じ事をする。もちろん、志美が部屋にいない事も多いけれど。

「どうしよっかなぁ」

 志美は含み笑いを浮かべて、

「そう言えばあんた、この前男と歩いていたでしょ」

 圭吾と歩いているのを、何処かで見られたのだろう。

「オトコ?」

 尚美は慌てて両手を動かす。

『そんなんじゃ、ないよ。ただの知り合い』

 志美は、少し細い眉を動かして「ふぅん」と頷くと

「ま、いいけどさ」

 怪しげな笑みを零す。

『ほんとうに、ただのクラスメイトだから』

『ただのクラスメイト』志美がわざとらしく手話で復唱する。

「もう……」

 尚美は頬を膨らまして志美の腕を押す。

「ハイハイ」

 志美が部屋のドアの外に下がった。

「でも、よかったね」

 志美の言葉に、尚美は身体の動きを止める。

 一瞬、姉を見上げた。

 まだ、志美の方が8センチだけ背が高い。

「ボーイフレンドが出来てさ」姉は優しく笑った。



 * * *



 紅い炎が小さく燈る。

 ゆらゆらと青白い煙が登って、宙を舞いながら蛍光灯に吸い寄せられるように消えた。

 志美ゆきみはラインマーカーを片手に参考書を広げて、咥えたタバコを唇の間で軽く噛んだ。

 空気清浄機のスイッチを入れると、小さな灰皿を勉強机の一番下の引き出しから取り出す。

 薄いピンク色のマニキュアがついた指先で、タバコのフィルターを軽く弾いた。


 志美はリビングで家族と戯れる事をあまりしない。

 中学に入った頃から、彼女は自分の部屋で過ごす事が多かった。

 高校へ進学すると、友達と遊び歩いて夜中に帰る事も多くなった。

 尚美と4歳違いの彼女は、市内一の進学女子高である好聖館学園高校に通う二年生だ。

 勉強は出来るが、遊びの方も進んでいる。

 家では内向的な彼女も外では社交的で、その性格がタバコを早く覚えさせた。


 尚美が生まれた時、志美ゆきみは既に物心ついていた。

 幼稚園に通い始めた彼女は、妹の反応が鈍い事に疑問を感じていた。

 自力で這い回るようになった尚美は、家族の呼ぶ声にあまり反応を示さない。

 呼ぶ声に振り向かない。

 怪訝に思っていたのは両親も同じで、まさかと思いながらも母親は総合病院の小児科に相談した。

「今日病院へ行ってきたわ」

「で? どうだった?」

 台所で父と母の小さな話し声が聞こえる。

「耳が聞こえないようだって」

「全くか?」

「少しだけ音に反応しているから、全くって事はないみたい」

 母親の声は続いた。

「でも、もう少し様子を見てから詳しい検査が必要だって」

 ――ナオの耳が聞こえない?

 志美ゆきみはリビングの陰から、二人の会話を聞いていた。

 暫くして尚美が3歳になった時、詳しい検査が行われた。

 隣町に在る、さらに大きな病院まで足を運んだ。

 感音性聴覚障害――内耳から脳へ伝達する聴覚神経に障害があるのだという。

 音は聞こえるが特定の波長を聞き取れない為、音そのものの判別ができない。

 つまり、聞こえた音がなんの音か判別できないという事だ。



 尚美が生まれてから、両親は志美ゆきみに手が廻らなくなった。

 ただでさえ二児が生まれると長女長男はいささか蔑ろにされる事が多い。

 仕方ない――小さな子供ほど手がかかるのだから。

 しかも尚美は耳が不自由だから、尚の事手がかかる。

 いや、夜鳴きや疳の虫がほとんど無かったから、ある意味手はかからなかった。

 それでも母親は終始尚美から目が離せない。

 音の判別ができない彼女が、何時どんな行動をとるか心配だった。

 3歳を過ぎて歩き回り走り回るようになると、傍を離れられなかった。

 志美は少し離れて、何時もそれを見ていた。

 小学校の入学式。

 志美は自分の準備は自分でした。

 新しく買ってもらった小さなブレザーを自分で着た。

 少し袖が長かったけれど、つめてもらう事は望まなかった。

 余計な手間をかけると、尚美への配慮は欠損してしまうかもしれない……。

 細いエンジ色のリボンが上手く結べなくて泣きそうになった。

 そのまま学校へ行くと、新しい担任教師が縦結びを直してくれた。

 それでも志美は尚美が嫌いではなかった。

 耳が不自由な彼女を可愛そうだと思った。

 何より、彼女ともっとコミュニケーションを取りたかった。

 普通の姉妹のように、一緒に遊びたかった。

 公園へ出かけてブランコに乗ったり、駄菓子屋で買い物したり。

 一緒にテレビを見て笑いたかった。



「お母さん、手話って知ってる?」

 尚美が小学校へ入った時、志美は四年生になっていた。

 文化鑑賞会で耳の聞こえない障害者のビデオを観たのだ。

「ええ、知ってるわよ」

 食卓には夕ご飯が並んでいる。

 尚美は大好きな卵焼きをもぐもぐと頬張っていた。

「ナオにも手話させれば?」

「そうねぇ、もう少ししたら考えましょ」

「どうして?」

「だって、まだ小さいから覚えるの大変よ」

「大丈夫だよ。ナオは賢いから」

 志美は知っていた。

 自分の持っている筒井康隆や赤川次郎の小説を、既に尚美は読み始めている。

 幼稚園の頃には早々と文字を覚えて、絵本を自分で読んでいたのだ。

 母親が気の進まない理由は他にも在った。

 自分が覚えられるか判らない。

 学生時代あまり成績のよくなかった彼女は、今さら新たに手話などを覚えられる自信が無いのだ。

「ねえ、お父さんもそう思うでしょ?」

 志美が父親に同意を求める。

 無邪気だが、確かに何かを求める笑み。

 彼女の一途な視線は、何時も強くて優しい。

 父親は静かにご飯を食べながら手を伸ばして、尚美の口元についたサラダのマヨネーズを拭っていた。

「そうだな。ナオならできるだろう」

 尚美を見て笑う。

 その後視線を自分の妻に向ける。

 彼女の不安が尚美に無い事を、微かに感じていた。

「じゃあ、今度病院で相談してみようかしら……」

「今度じゃなくて、明日ね」

 志美がハンバーグを口に放り込む。

「地元の福祉団体に手話の連盟か団体があるだろう。そっちに問い合わせてみなさい」

 父親が言った。

「聴覚障害者は、聞くこと意外は何でもできるんだって」

 志美が味噌汁を口へ運ぶ。

「キング・ジョーダンだっけ」父が応えた。

「誰? それ」

 母には判らなかった。

 ポカンと口を開けて、箸で唇を触る。

「有名な外国の大学学長が言ったのさ。ろう者は聞くこと意外は何でもできる。とね」

 父親は笑って尚美の頭に手を乗せた。

 尚美は視線を父に向け、大きく微笑む。

 向日葵のような笑みだと、志美は思った。




お読み頂き有難う御座います。

今更ですが、この作中で『』のセリフは手話での会話を表しております。

※聴覚障害のタイプには、伝音性と感音性がある。

伝音性は内耳までの間の音を伝える経路に原因がある場合で、感音性は内耳から奥の聴覚神経や脳へ至る神経回路に問題がある場合。

混合性は伝音性と感音性の二つが合わさったものである。

聴力は聞く能力(伝音性)を指し、聴覚は内耳から奥の神経経路(感音性)を表す。


多忙為、更新が遅れております。

次回の更新は1月7日頃になる予定です。



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