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【1】ギリギリ。

 強い風が吹いていた。

 窓から見える雲は、追い立てられるように何処かへ流れてゆく。

 しかし、草花の芽生える甘い匂いをほんのりと含んだ暖かい春の風だ。

 尚美は真新しい制服に身を包むと、鏡の前に立つ。

 白い壁に掛けられた、ミッフィーの絵柄のついた鏡。

 バストUPで映るそれは、下の方はミッフィーの絵柄であまり姿が映らない。

 自分では小学校の姿となんら変わりないように見えるが、白いブラウスと濃紺のブレザーが身を引き締める。

 身長も、この半年で10センチも伸びた。

 けど……やっと150センチを越えた所だった。

 両手で頬を摩った。

 本当はパチンと叩こうかと思ったけれど、それほどの気合を入れる事もないなぁ。なんて思ってしまったのだ。

 入学前に校長先生が言った『試験』は見事に合格だった。

 それどころか、小学6年生までの国語、理科、どれも90点以上で算数に限っては100点満点の成績だったのだ。

 基礎学習とはいえ、ここまで点数をとれる生徒がどれだけいるだろうか。

「胸を張っていればいい」

 父親は優しい声で言った。

 尚美はその口調で父の優しさを読み取ることが出来るのだった。


「ナオ。早く朝ごはん食べなさい」

 母親は二階に通じるインターホンを鳴らして、そう言った。

 尚美は聴覚に障害を持っている。

 しかし全く聞こえないわけではなくて、微かに音を感じる事はできるのだ。

 例えば近くで電話がなれば、何かの音として認識する。

 ただ、それが電話の音なのか、トラックのエンジン音なのか聞き分ける事はできない。

 全てが粗雑なノイズとなって彼女の中耳に届くだけだ。

 部屋に通じるインターホンはランプが点灯する。

 それで、階下で人が呼んでいることを彼女は認識できる。

 だから尚美は音が聞こえたらまず、視線を周囲に巡らせる。

 視覚で見て、聞こえるノイズが何の音か判断するのだ。

 彼女は新しい学生カバンを掴むと、小走りに部屋を出た。

 廊下を出た所で姉の志美ゆきみにぶつかりそうになる。

「危ないなぁ。うかれて交通事故はかんべんだよ」

 志美はそう言って笑うと「ほら、リボン曲がってるよ」

 尚美の衿からぶら下がる小さ目のリボンを指で整えた。

『サンキュー』

 手話で手早く告げて、尚美は階段を駆け下りる。



 入学式が終わってクラス分けされた教室は、雑踏に満ちていた。

 誰が何を話しているかは聞こえないけれど、ざわついた喧騒は確かに感じる。

 耳に届くノイズより、それは室内を満たす空気感とでもいうのだろうか。

 尚美は出席番号順に並んだ自分の席について、辺りを覗う。

 織堂の苗字は窓際の一番後ろの席順だった。

 隣の席に三人でたむろしている女子は、隣の小学校から来た娘たちだった。

 この中学は、2つの小学校が統合する形で進学してくる。

 地域によっては、さらに2つの学校から一部の生徒が通ってくるのだ。

 しかし、もともと顔見知りが少ない尚美にとって、特に抵抗を感じる事はない。

「ねえ、昨日のスマスマ観た?」

「稲垣いい味出してるよね」

 尚美は忙しなく動く周囲の唇に視線を巡らす。

 読み難い彼女たちの唇を読む。

 ――話しに加わりたいけれど、止めておこう……。

 尚美は声を出す事ができる。

 普通の発声も練習したし、言葉も話せる。

 コンピュータの画面で舌や唇の動きを立体に見ながら練習する方法で覚えた。

 しかし、どうしても自分の声を自分で聞き取る能力が欠けているから、たどたどしい発声になるのだ。

 だから彼女は、あまり誰かと話すのは得意ではない。

「ねぇ、あなた陽小でしょ?」

 後から肩を掴まれた。

 陽小……尚美が6年間通った陽鳳ようほう小学校の略名だ。

 慌てて振り返った。

 尚美は言葉を出そうと口を開いたが、それを喉の奥に仕舞い込む。

 微かに声は聞き取れたが、彼女が何を言ったか解らない。

 後から声をかけられると、尚美は唇を読む事もできないので一番難儀するのだ。

「あたし、何度か見かけたよ」

 肩に掛からない中学生らしい黒髪の娘が、愛想よく笑っていた。

 今度は何を言ったのか尚美にも解った。

 少し高い彼女の声も、尚美には周囲の雑音とさほど変わらない音に聞こえる。

 とりあえず笑顔を返して、2度3度頷く。

「あたし、藤本友恵。同じクラスになった事はないよね」

 尚美は再び頷く。

 言葉が出ないかわりに、手が微かに動いた。

 咄嗟に手話が出そうになる。

 でも、中学生の健常者で手話のできる娘なんていないるはずない。

 そう思って、動きそうな右手にブレーキをかける。

 その時、友恵も後から誰かに肩を掴まれて、そのまま後に引っ張られた。

「バカ。あの娘、特級の娘だよ」

 長い黒髪を揺らして、スラリと背の高い娘が言う。

 短めのスカートから覗いた足が、竹のように細い。

 でも、なんだかモデルのような体型だった。

「特級?」友恵は聞き返した。

「特別学級だよ」

「うそ……」

「あたし、見た事あるもん」

「だって、普通じゃん」

「ギリギリなんじゃないの?」

 尚美は彼女達の唇を読んで、自分の笑顔が消えるのを感じた。

「ギリギリって?」

「頭の中が」

 髪の長い娘は、冷ややかに笑った。

 黒々とした長い睫毛が、誇らしげに瞬きする。


 特別学級は、確かに障害の為に学力的に難しい生徒もいた。

 しかし、病気で身体の弱い娘もいた。

 転校して行った敏子さとこというひとつ学年が上の娘は、入退院が多くて授業についていけない為に、特別学級にいた。

 普通の生徒と一緒にいられない子供たちが一緒くたに詰め込まれるのが、なかよし学級と呼ばれる特別学級だった。

 健常者から隔離されて、社会性に欠ける異端児たちは離れ小島のような別棟に在る小さな教室に押し込められた。

 実際の学年がバラバラだから、運動会や遠足の行事には臨時に同じ学年に加わる。

 しかし溶け込めるわけが無い。

 何時も担当教員に付き添われた。

 同じ学年の子供と一緒に遊ぶ時間の猶予は与えられなかった。

 いじめられるとかわいそう。

 他の子供たちについていけないと、大きなストレスを生む要因になる……。

 大人たちはそう言って、分け隔てを当たり前に思っていた。

 差別しないように差別する。

 その矛盾こそが、尚美を6年間に渡って苦悩の呪縛の渦に留めた。





アーヴィング・キング・ジョーダン(Irving King Jordan)は、1988年3月13日に選出されたギャローデット大学の8代目学長である。

ギャローデット大学卒業で、ギャローデット大学初めての聴覚障害者の学長(中途失聴者)である。

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