【15】癒し
圭吾の過去が、少しだけ明かされます。
妹は生まれながらの全聾――つまり、全く耳が聞こえなかった。
無音の世界の中で、彼女は生きていた。
圭吾はそんな妹とコミュニケーションが取りたかった。
彼は小学校へ入ると、三つ違いの美圭に絵本をよく見せてあげた。
文字を辿って読んでも、彼女には聞こえない。
手話を提案したのは圭吾だった。
母親も同じ考えを持っていたらしく、直ぐに賛同した。
父親は仕事が忙しくて「お前にまかせる」とだけ妻に言った。
父親の転勤は多く、短いと二ヶ月、長くても一年ほどで他の地へ移動になった。
母親と子供たちだけは多少遅れて引越したりはしたが、小学校生活の六年間で圭吾は10回も転校した。
友達は出来なかった。
いや、最初の頃は圭吾も普通の児童と同じように同級生の友人を作って一緒に遊んだりした。
しかし気付いた。
親しくなればなるほど別れは辛くなるのだと……。
どんなに絆を深めた友も、親の都合には敵わないのだと。
意気投合した友達と別れて再び新天地ではゼロからのスタートだ。
子供社会は大人が思っている以上に複雑で、新参者を歓迎しない場合も多い。
大きなイジメにはあっていなくても、存在が否定されたりどこか遠巻きに接する事も少なくない。
別に寂しさは無かった。
家に帰れば妹がいた。
どれだけ大勢の中にいても孤独を拭えないけれど、彼女の傍にいる時だけは違っていた。
小3になる頃には、美圭と圭吾は手話を使って自由にコミュニケーションを取れるようになっていた。
二人の間に言葉の隔たりはない。
音の無い彼女に変わって、圭吾はオーバーな身振りで何とかその音を表現してあげようとした。
車の走る音。
夕暮れのカラスが鳴く声。
時雨の重奏や蛙の合唱。
母親と妹の三人で買い物へ出かけた時、ペットショップの間口に置かれたケージに美圭の足が停まった。
『どうしたの?』
彼女の肩を突いて母が訪ねる。
美圭は黙って大きくは無いケージの中を見つめていた。
圭吾は反対側のケージの中に目を留めていた。
生きているか死んでいるか分からないほどジッとしているカメレオンが、木の枝にしがみ付いている。
母親が美圭に話しかけている事に気づいた圭吾は、妹の視線の先を見た。
白と茶色のブチ毛の小さな生き物が、おがくずの上で丸くなっている。
ハムスターだと思った。
しかし、モコモコした小動物の耳は長い。
――ウサギ?
ケージに貼って在る小さなPOPには「ライオンヘッドラビット(ドイツ産)」と書かれていた。
舘内家に小さな仲間が加わった。
「動物は人の心を癒すんだよ」
圭吾の言葉に、母親も頷いた。
彼の妹を思う気持ちは、母がいちばん判っていた。
美圭は庭だけでなく、近くの公園にウサギを連れて行くようになった。
もちろん、その時は何時も圭吾が一緒だった。
ライオンラビットは思いの外人なつっこくて、声をかけると近づいて来たりもする。
遊んでくれと、アタマを擦り付けてくる事もあった。
仔兎が次第に成長すると、モコモコした首の周りの鬣はよりハッキリとしたものになる。
『ほんと、ライオンみたいだね』
美圭はそう言いながら、チョビの背中を撫でる。
彼女がウサギに付けた名前だった。
『だからライオンラビットなんだろ』
圭吾は彼女の傍らで、一緒に背中を撫でた。
美圭は花火が好きだった。
手持ちの小さな玩具花火も、お祭りの打ち上げ花火も。
圭吾は花火を手に持つ美圭の姿が好きだった。
打ち上げ花火の大きな音は、彼女の耳には届かない。
しかし手持ちの噴出し花火は元々あまり音がしないから、自分と美圭の間にあるその瞬間の音の隔たりが消えるのだ。
『花火やろうか?』
圭吾が誘うと、美圭は何時も笑顔で頷いた。
彼はその笑顔を見るのが好きだった。
庭や公園の片隅で一緒に花火をすると、美圭の白くて丸い頬は黄金色に霞んだ虹色に輝いた。
穂のかに甘い香りが硝煙に混じって煙ると、圭吾は美圭と二人だけの世界に包まれるのだった。
それは無音の世界に浸るような、お互いの孤独を癒すやさしい静寂の光だった。