【14】事情
圭吾の部屋は甘い香りがした。
フローラルでも果実の甘さでもない。
それは彼から微かに香るムスクの香りと同じだと気付くのに、少し時間がかかった。
白い壁には何も飾りが無い。
フローリングの床には真っ黒なラグが敷いてある。黒いガラステーブルと一瞬同化して見えた。
ベッドには濃紺のチェックのカバーが掛けられて、枕元の棚には津田洋甫の空の写真集が無造作に置かれている。
圭吾はテーブルの上に二つのカップをそっと置いた。
「何も無いだろ」
ガラス戸のある本棚には整理されたマンガ本とウサギの飼い方の本が並んでいる。
勉強机の上は全く使っていないようにキレイで、寧ろ閑散としている。
本棚部分に、中学の教科書と参考書が僅かに並んで斜めに倒れかけていた。
『よく片付いてるね』
尚美は何処に座ればいいか迷いながら、とりあえず彼の置いた自分のカップの前に陣取る。
ペタリと膝を着いたラグは物がいいのだろう、意外と肌触りがいい。
圭吾はベッドの上にドカッと腰を下ろした。
窓の外には青空が広がっている。
「俺は転校ばっかりだったから、友達が家に来た事なんてないんだ」
圭吾は窓の外を眺めて話す。
『あたしも、小学校の頃は友達いなかったよ』
尚美は小さなカップを持ち上げて、口に着ける。
「今だって、いるようには見えないけどな」
圭吾が少し憎たらしい笑いで言った。
「あ、あんただって……」
思わず声を出す。
『あたし、別に友達じゃないし』
強がってみる。
頬が紅潮した。
「そうだな」『そうだね』
圭吾は優しい声に被せて手を動かすと、自分の紅茶を一気に飲んだ。
あっさりとしたその応えに、尚美の胸の中で何かがシュンと窄まる。
それを悟られないようにすると、益々頬にほてりが昇って来た。
相変わらずモコモコのライオンラビットは人懐っこい。
庭に出たチョビは、クローバーの茂る場所まで小走りに跳ぶと、無言で食べ始めた。
尚美がウサギに触りたいと言うと、圭吾は快く庭に連れ出してくれた。
ウサギのナニを考えているか解らない黒い瞳は、尚美にとってはかえって馴染み易い。
鼻の周りのモコモコしたヒゲが動くと、それだけで尚美は何だか暖かい気持ちになった。
『津田洋甫の写真……』
チョビの頭を撫でながら、尚美は思い出したように訊いてみる。
「津田? の写真?」
『ベッドに在った空の写真集』
「あぁ、あれか」
圭吾は笑って空を見上げる。
「あれ、あたしも持ってるよ。空が好きだから」
圭吾が「俺も」と言うのを期待した。
「そうだな。俺は……空を見るのは好きだけど、空を見上げる自分は好きじゃない」
――意味わかんない。
尚美は小首を傾げて笑う。
ウサギが手の下から抜け出て彼女の足元に頬を寄せた。
ソックスのくるぶしを鼻先で突くが、しゃがんでいたのでスカートの裾で隠れる。
「だって、空を見上げる時って意外とめげそうな時じゃねぇ?」
『そうかな?』
尚美はスカートの裾を少し持ち上げる。
ウサギのまん丸な尻尾が見えた。
『あたしは、別に普通に空を見るよ。あの雲キレイとか』
『そんな感じだな』圭吾が両手を動かした。
尚美が足元のウサギを触るために、スカートの裾をどんどんたくし上げる。
「そんなにまくったら、パンツ見えるぞ」
「ぱっ……」声を出す。
彼女は慌てて、裾を持った手を離した。
「ウソだよ」
圭吾は悪戯っぽく笑う。
教室では絶対に見せない姿。
尚美は紅くした頬を、わざと膨らましてみた。
楽しい時間だった。
圭吾の母親は、彼女は帰る時に愛想よく手を振ってくれた。
彼の家庭の事情は訊けなかった。
耳の聞こえない家族をさり気なく探してみたけれど、圭吾の家にそれらしい人影はいなかった。
誰のために彼は手話ができるのだろう……?
もう少し仲良くなれたら訊こう。
尚美はそう思って、彼の家を出た。
青々とした棘に、赤い蕾が幾つも出来ていた。