【9】校則違反
『何してたの?』
『ウサギの餌を頼んでたんだ』
『ウサギ?』
『ああ、ドイツのウサギで、本国の餌が一番好きなんだ。でも、なかなか取り扱いが無くてさ』
圭吾の手話はとても悠長だった。
いかにも手馴れて、そしてしなやかな動きが尚美に安堵を与える。
どうして彼が手話を使えるのか不思議に思った。
しかし、その理由は明白だ。
きっと身内に聴覚障害者がいる……尚美は一瞬でをれを感じ取った。
健常者が手話を使える大抵の理由はそれだから。
尚美は圭吾と一緒に小さな喫茶店に入っていた。
路地の角に在る、小さいけれど外装がレンガ造りの瀟洒な喫茶店で、尚美も入るのは初めてだった。
というか、小学生も中学生も喫茶店に入る事は校則で禁じられている。
マックやミスドやデニーズとかはOKなのに、喫茶店がダメなのが不思議だ。
尚美はミルクココアとミートパスタを頼んだ。
とっくにお腹は空いていたので、独りでマクドナルドにでも入ろうとしていたところだった。
国道から真っ直ぐマックに入れたが、時間を潰したくて駅前の駐輪場から商店街をぶらぶら歩いたのだ。
ウサギの餌?……尚美はちょっと不思議に思った。
ウサギの餌と言ったら、真っ先に浮かぶのはピーターラビットが齧っているレタス。
そしてバックスバニーのニンジンだった。
本国の餌とは、いったいなんだろうか?
『餌って、ニンジン?』首を微かに傾げる。
アハハ。と、声を出して圭吾は笑う。
「ニンジンって、それ漫画の見すぎだろ」
尚美はちょっとすねた目で圭吾を見つめ、ココアのカップを口に着ける。
『じゃあ、何?』
片手で雑な表現を送る。
『固形のラビットフードさ』
尚美は小さく数回頷く。
が、本当はどんな物かピンとこない。
「このくらい小さな……まあ、ドックフードのウサギ版だな」
圭吾は親指と人差し指を1センチほどに広げて、餌一粒の大きさを示して見せた。
「ウチのウサギはドイツ製が一番好きなんだ。よく食べる。日本製もそこそこ食べるけど中国製はぜんぜん食べないよ」
尚美はホークの先でパスタを巻きながら、再び顎を振るように頷く。
ウサギは生の野菜しか食べないと思っていた。
首を動かす拍子に尚美の黒髪がサラサラと揺れる。
それを見た彼は、ハッと息飲んで尚美を見つめた。
「唇が読めるの?」
うっかり言葉で話したのに、彼女が普通に頷くからだ。
あまりに相づちが自然だから、手話を使うのを忘れていた。
尚美は再び小さく頷く。
圭吾は、フフッと小さく微笑んだ。
「なるほどね」
微かにゆっくりとした口調。
彼は黒いフリースのポケットから小さなボックスを取り出す。
そこから取り出したタバコを、無造作に口にくわえた。
「……あっ」
息を飲み込むような声が、尚美の口から零れた。
圭吾は窓の外に視線を移しながら、同じポケットからジッポライターを取り出す。
午後の陽射しが、真鍮のライターを鈍く光らせる。
キンッと音を鳴らしてライターのフタが彼の親指で跳ね上げられた。
この春に中学になったとは思えない鮮やかな指さばきだった。
尚美は中腰に立ち上がって手を伸ばすと、圭吾の口元からくわえたタバコを素早く引っ張り抜いた。
ビックリした圭吾の視線が尚美を捕らえて、シュッとすりあげたライターの炎だけが、彼の手の中で揺れていた。
「なんだよ」
「だっ……」
尚美は声を出して、それを直ぐに引っ込める。
『だって、ダメだよ。タバコは』
困惑した表情を、彼に向ける。
圭吾は呆れたようにライターの火を閉じると、再び窓の外に視線を移す。
――怒っちゃったのかしら……。
尚美は思わず握りつぶしてしまったタバコを掴んだまま、彼を見ていた。
指先からポロポロとタバコの葉が床に零れ落ちる。
せっかく親しくなれそうな、友達になれそうな関係が崩れるのは怖かった。
でも、喫煙する中学生と友達でいられる気はしない。
彼女の頬は、微かに緊張してこわばっていた。
早まった行動をしてしまった……。
しかし、圭吾は肩をすくめると再び尚美を見た。
妥協したような笑みに、怒りや怨嗟の想いは感じられなかったし、再びタバコを手に取る事もしない。
彼はゆっくりと左手に握ったライターをポケットにしまうと
『わかったよ』
再び肩をすくめて笑った。
「ウサギ、見るか?」
圭吾の言葉に尚美は目を輝かせて頷いた。
彼の話すウサギの話しは彼女の興味をそそった。
「ウサギはしょっちゅう、自分の耳を前足で繕うんだ。ちょうど女性が長い髪の毛を繕うようにね」
圭吾はコーラを口へ運びながら続ける。
「たいていはその流れで前足を使って顔を洗って、その後両足をパタパタと拍手のように叩いてほろう動作をするよ」
どれも尚美のしらないウサギの姿だ。
長い耳を前足で繕う姿とは、どんなだろう。
その時は、やっぱり後ろ足だけで立っているのだろうか。
ウサギの後ろ足は大きいから、立つのは意外とラク?
尚美の好奇心は、大いに燻った。
窓から注ぐ陽射しが、シュガーポットのふたをキラキラと照らしていた。