【プロローグ】
消去法から恋愛ジャンルにいたしました。
最近流行のラブラブ系でもコメディー系でもありません…。
ちょっと違う物が読みたい方は、お試し下さい。
「耳なし女」――心無い小学生が悪戯に呼ぶその言葉に、彼女は酷く傷ついた。
小学校3年の夏休みに唇を読む訓練をし始めた。
そして、夏休みが終わってその言葉を知った。
自分をそんな風に呼ぶ連中を恨めしくも思った。
周囲の言葉が解るというのは、そう言う事なのだ。
――耳、あるもん。
彼女は心の中で呟き、決してその呼び名に応える事は無かった。
小学生の頃は、特別学級に入れられていた。
同じ学年の子供たちと一緒に勉強する事が困難だと決め付けられていたのだ。
聴覚に障害を持っているだけで、知能に問題はなかった。
それでも小学校側では、他のみんなとのコミュニケーションをさり気なく拒んでいた。
校庭で遊ぶ大勢の生徒とは、透明な壁で何時も隔たりがあって、友達はできなかった。
学年の違うごく少数のクラスメイトが、唯一の戯れの相手であった。
中学には特別教室はない。
両親は入学前の中学校へ呼び出されて訊かれた。
「お嬢さんが勉強できる環境が、ここにはないのです。もっと環境のいい学校へ行かれてはどうでしょうか?」
環境のいい学校とは――何処のことを言っているのか、両親には察しがついた。
電車とバスを乗り継いで少し離れてはいるが、市内に養護施設学校がある。
「ウチの娘は耳に障害があるだけで、勉強は普通に出来ます」
母親は少し荒い口調で言った。
椅子から立ち上がる勢いだ。
父親は黙ってそれを見ていた。
「しかしですね……授業を聞き取れないのでは勉強にならないのでは?」
校長と教頭が並んで座り、終始話すのは教頭の方だった。
どす黒い顔にぎょろりとした目が、黒縁メガネの奥で微かに愛想笑いを浮かべている。
母親には、それが蔑んだ笑みに見えるのだ。
「尚美は全く聞こえない訳じゃないんです。それに、読み書きも普通に出来るし唇が読めるんですよ」
「先生は、他人の唇が読めますか?」
父親は静かな口調で言った。
「い、いいえ……」
教頭は押し黙って、口をへの字に曲げる。
応接室に沈黙が流れた。
「いいでしょう」
ずっと黙って成り行きを覗っていた校長が口を開いた。
目の前のお茶を一口すすって
「お嬢様は障害者というハンディを背負いながら、人に負けない能力があるようですね」
校長は小気味に笑うと
「ただ……小学校の基礎テストだけ、受けていただけますか?」
愛想よく、訪問販売の営業マンのような笑顔と口調だった。
「そうですね。いくら唇が読めても、学力がある程度ないと、みんなについて行けませんし……」
教頭は校長の顔色を覗うように上目遣いで笑う。
口元にシワを寄せ、疲れた笑だ。
「構いませんよ」
母親が口を開く前に、父親が静かに言った。
「ろう者は、聞くこと意外は何でもできる……」
応接室を出る時、父親が教頭に向かって呟いた。
「何ですか? それは……」
教頭は分けが判らずに戸惑いの笑みを浮かべる。
「アーヴィング・キング・ジョーダンの言った有名な言葉だよ」
校長が横で呟いた。