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【陸】

 

 

 

 

「…落ち着かれましたか?」

 言葉と共に良政(よしまさ)が差し出してくれた川の水に濡らした手拭いを受け取りながら、私は無言でコクンと肯く。

 見苦しくも、まるで幼子のようにえぐえぐとしゃくり上げながら一頻り泣くだけ泣いて、ようやく涙が止まってくれた頃で。

 嗚咽で疲れたか喉も掠れていて、少しの声を出すのも億劫に感じられた。

「少し目の周りを冷やしておいた方がいい。幾らか腫れもマシになりますよ」

 その言葉に従って、畳まれた手拭いを、そのまま目許(めもと)に押し当てる。

 ――本当、気持ちいいわ……。

 火照(ほて)って熱を帯びた肌に、水の冷たさが心地好かった。

 のみならず、泣くだけ泣いたら、気持ちまでもスッキリしていた。ずっと胸のどこかに(つか)えていたものがポッコリ取れてくれたみたいに。



 …きっと、今だったら素直になれる。

当今(とうぎん)皇女(ひめみこ)”などではない、ただの一人の“姫”として。

 現実も何も関係ない、ただ夢見ることしか知らなかった、かつての私を思い出せる気がする―――。



「そういえば、喉も渇いているでしょう? いま水を……」

「いいの、行かないで!」

 立ち上がりかけた良政を、慌てて私は制した。

 咄嗟に目許の手拭いを外してしまったため開けた視界に、やや戸惑った風な彼の姿が映る。

「気持ちは嬉しいけど、そんなに気を遣わないでちょうだい」

「ですが……」

「何もしてくれなくて大丈夫よ。――お願いだから、ここに居て?」

「………わかりました」

 そう躊躇いがちに浮かせかけた腰を再び下ろした彼を、見止めて微笑んでみせると。

 やっと安心して、再び手の中の手拭いを目許に当て、視界を閉ざした。

「――あのね、良政?」

 そうしながら呼びかける。薄暗闇の向こうに居る彼へと。



「聞いてくれる? ただの『(ゆき)姫』の戯言(たわごと)でしかないことだけど―――」



 彼の返事を待たず、そして問わず語りに話し出す。

 きっと、私がただ話したいだけなのだ。

 ずっと誰かに話したかった。

 私の秘めた気持ちを、誰でもいい、誰かに分かって欲しかった…のだと、思う―――。



「そもそも私はね、ずっと父上と母上みたいな夫婦(めおと)が理想だったの」



 それは、まだ私が“姫宮”やら“内親王(ないしんのう)”やらなんて呼ばれる立場とは全く(えん)(ゆかり)も無い、ただの“一貴族の姫”として、三条(さんじょう)に在る祖父の(やしき)で暮らしていた頃からのことだ。

 当時の父上は、時の帝の第二皇子、というだけの、親王(しんのう)としての品位(ほんい)と相応の官職はお持ちではいらっしゃったものの、実質は無品(むほん)に等しいくらいのお立場だったし、おおよそ帝位とはほど遠い場所にいらっしゃった。

 ゆえに、その娘である私、そして姉弟も、一応は皇籍に名を連ねる者として“王”である称号だけは得ていたが、言ってみれば、ただそれだけの価値しか無い存在、でしかなかった。

 父上の後見役である祖父――准大臣(じゅんだいじん)も、まだ当時は大納言(だいなごん)

 そして当然、他の誰もが考えていたのと同様に祖父も、いずれ父上は時の東宮(とうぐう)に男御子がお生まれになるのを待って臣籍に(くだ)るものと思っておられただろうし、おそらく父上自身も間違いなくそのおつもりだったのだろうから、その意志は確実に祖父へも伝えていただろうし。

 ゆえに祖父は、ゆくゆくは正式に自分の養女として引き取る心算もあったのだろう、私たち孫娘を“親王家の姫”ではなく“大納言家の姫”として扱ってくれたのだ。

 いずれ…おそらく私たち姉妹が裳着(もぎ)を迎える頃には、与えられた女王(にょおう)の称号も、父の親王位と共に帝へお返ししているはず。そうなれば、男子である弟はともかく私たち姉妹は、自身の手元に置いておきさえすれば政略結婚の“駒”ともなり、祖父の地盤をより固めるための道具になる。

 実の孫娘とはいえ、所詮は中途半端な身分の姫だから、と、さして大仰な期待など掛けてはいなかっただろうけれど。とはいえ、その手駒とするだけならば、たとえ“中途半端な身分の姫”とはいえど十二分に役立つに違いない。

 まがりなりにも祖父は、いま最も権勢を誇る摂関家(せっかんけ)の流れを汲んだ三条の家の主人(あるじ)。そちらに(ゆかり)ある姫、ともなれば当然、欲しがる公達(きんだち)は多いに違いない。祖父との縁故が出来る、のみならず、祖父との縁故が出来れば、(うじ)の長者をはじめとした一族内の有力公卿(くぎょう)たちとも、縁故を結ぶことが叶うかもしれないのだから。

 そのような思惑で集まってくる者たち中でも特に門閥の良い若君を選び、縁組が成ったなら……それは同時に、親同士が(よしみ)を通じるにも等しく、都における祖父の地盤もより強固になる、というもの。

 ゆえに私たちは、宮家や大臣家の姫君のように、格別に(うやうや)しく大事に扱われては入内(じゅだい)を前提にお妃教育されることもなく、はたまた、中・下流貴族のご息女方のように女官として宮中に仕えることを前提に女房教育されることもなく、特別何を強いられるでもなく、上流貴族たる祖父の三条邸で幼少期をのびのびと過ごさせてもらった。

 それゆえにこそ、蝶よ花よと大事に真綿で包まれるように育てられる高貴な箱入り姫君には絶対に身に付かないであろう、この私の活発にもすぎる御転婆っぷりが、身に付いてしまったに違いない。広い三条邸は、幼い私たちが遊び場にするには充分すぎるほどだったのだから。

 こういう生活があったからこそ、今の私を作る様々なものが、ここで培われてくれたのだ。

 ここが、この生活が、“今の私”を与えてくれた。

 ――そう、何より、色々なものを見渡すことができる視線、なんてものまでを。



 父上は、帝となられた今でこそ後宮に何人ものお妃をお抱えでいらっしゃるが、それ以前は、ただ母上お一人のみしか妻を持たず、母上お一人だけを一途に愛されていらっしゃった。帝でなくとも貴族なら複数人の妻を持つのが当然、と目されている世であるにもかかわらず、だ。

 聞いたところによると両親は、互いの初恋を実らせたという経緯(いきさつ)をもって結ばれたらしい。

 ならば、ひとかたならぬ想いを交わし合っておられるのも当然だと、それを聞いた時、子供心にしみじみ感じ入ったものだった。

 だが父上は、母上を北の方として自邸に迎え入れることは叶わなかった。妻問(つまどい)婚が主流の当世、何ら不思議なことではないが、そのように仲睦まじくあって婿入りすらもしないとは、幼い子供の目から見ても些か不自然に感じられた。おおかた、胸に一物(いちもつ)ありゆえでか、義父たる祖父より反対を受けたのだろう。

 しかし、それは両親の間で何の障害にもなっていなかったように見受けられた。

 なぜなら、父上の日々の(おとな)いは決して絶えず、ほぼ毎日のように三条邸へと足を運んでいらっしゃっていたからだ。

 私たち子供にとっても、そんな仲睦まじい両親の姿を目にすることは、嬉しさと共に安堵を覚えた。

 また、父上は妻に対するのと同じほどの愛情をもって、私たちをも慈しんでくれた。

 それゆえに、私も姉も弟も、最も身近に居る母上と同じくらい…いや、“それ以上”と言っても過言ではないほどに、父上のことが大好きだった。父上の訪いが日々待ち遠しくてたまらなかった。

 家では、良き夫であり、良き父親であり……また外へ出れば、帝の信頼も厚い公達であり、一方で、都一とも名を馳せる高貴な風流人でもあり。

 そんな父上の在りように、私は理想の背の君の姿を重ねていたのかもしれない―――。



 ――いつか誰かと結婚しなければならないのなら……私が心から愛せる、そして私を心から愛してくれる、そんな方と契りを結びたい。

 両親のように、二世(にせ)の契りを結べるほどに互いを想い合える関係を築き上げられる殿方(とのがた)夫婦(めおと)になりたい。



 いつしか幼い子供心にも、“理想”というものがハッキリとした形を伴って生まれていた。

“こうあるべき”という親に敷かれた一本の道しか見ることを許されない高貴な姫君では、おそらく一生、こんな理想を描くことなど出来ないだろう。

 それが出来る自分はなんて幸せなのだろうと、気付いた時、素直に思えた。

 だが、成長するにつれ、より物事がハッキリと見えてくるにつき……それが叶わぬ夢であることも理解してしまった。

 この当世、貴族の結婚とは、あくまでも家と家とが結び付くための手段にしか過ぎない。ゆえに結婚を決めるのは親同士。勿論そこに当人の意志など介在しておらず、恋や愛などではなく、富や権力のもとに契りが交わされる政略結婚。――それが現実だ。

 しかし、そのような風潮の中にあってさえ私の両親は、周囲の政略など振り切って乗り越えて、ただ互いを恋い慕う想いのもとに契りを結んだ。――それも現実。

 そこに加えて私には、姉と、その夫君となった義兄(あに)の姿までもが、すぐ近くに在った。

 幼少のみぎりより結ばれた二人の婚約は、父親同士が昵懇(じっこん)の間柄であったことから交わされたものであり、政略…とまでは言えないものの、とはいえ間違いなく、当人同士の意志の外で勝手に取り決められたものだった。

 にもかかわらず、姉も義兄も、許婚者(いいなずけ)として初めて顔を合わせた幼い頃より現在に至るまでずっと、傍で見ていた幼い私の目にもありありとわかるくらい、お互いでお互いを深く想い合っていた。それは紛れも無く、愛情をもって結ばれた恋人同士の姿にほかならなかった。――それこそ、初恋を実らせて結ばれた両親のように。

 晴れて婚儀を迎えたら、それこそ両親以上に仲睦まじい夫婦となるのだろうな……誰もがその姿を簡単に思い描けてしまうほどに、寄り添い合う二人の姿は、どこまでも揺るぎなかった。

 だから私も、叶わぬ夢と理解しつつ、それでも自分の理想を捨てきれずにいたのだ。

 間違いなく私は、近い将来、父か祖父の選んだ公達を婿(むこ)として迎えることになるだろう。そのこと自体に否やは無い。女子(おなご)としての定めであると割り切っている。

 だが、もしも政略のもとに娶わせられたその方との間に、理想とする愛し愛される関係を築くことが叶うならば……それは、どんなに素晴らしいことだろうか。



「だから悲しかったわ。――相手が三位中将(さんみのちゅうじょう)では、到底そんな理想の関係など築けないと思ったから」

 話しながら、次第に泣きたい気分になってきた。再び涙まで込み上げてきそうになった。

 でも、視界を覆う薄明るい暗闇が、少しだけ、泣きたくなる気持ちを落ち着かせてくれた。

「父上ならば私の気持ちを汲み取ってくださっていると信じていたからこそ、そのぶん裏切られたような気持ちにもなったわ。お恨み申し上げたくもなったわ。無言の抵抗とばかりに、殊更に不貞腐れてみせたりもしたわ。聞き分けの良い娘である風を装って、でもその実、厭々(いやいや)承諾したんだってことを、何も言わずに解って欲しいなんて願ってる、なんて……馬鹿みたい、我ながらホント子供よね」

「姫宮さま……」

「けど、そんなもの最初から、私の自分勝手な独りよがりでしかないのよ。とっくに分かってるの、そんなこと。だから、ムリヤリに理屈を通して、理詰めで自分を納得させようとしてた。――そう、それこそあなたの言った通りね良政。『帝であらせられる父君のため、次代を担うべき東宮(とうぐう)のため、はたまた五位蔵人(ごいのくろうど)のため、どこぞの誰かの幸せのため、ひいては国家平安のため』……そうよ、それで納得しきれない自分をムリヤリにでも納得させようとしてたのよ。捨てきれない自分の理想を、どうにかして諦めようとしていたわ」

 そこで私は、おもむろに目許に当てていた手拭いを外した。

 まだ目を閉ざしたまま、それを告げる。

「――でも、今日ここで考えを改めたの」

「え……?」

 そう訊き返した、少しだけ訝しげな良政の声が耳に届き。

「少しだけ……信じてみようと、思うことにする」

 言いながら目を開き、俯いた顔を上げる。

 ぱっと開けた視界の先に、良政の驚いたような表情が映った。

 軽く瞠られた彼の瞳を覗き込むようにして見つめると、私は先を続ける。



「私、あなたが好きよ。良政」



 あまりに唐突に過ぎる私の言葉に驚いたのか、瞠られた彼の瞳が更に大きく見開かれ、同時にクッと息を飲む音がした。

 何か言葉を紡ごうとしているのか、まるでわななくように唇が動く。

「そうね、あなたの言葉を借りて言うなら……」

 だが私は、彼の言葉を聞く前に、先んじて続けていた。

 ただ、言いたかった。聞いて欲しかった。

 彼が何事か言ってしまったら……それを聞いてしまったら……もうこれ以上、私から何をも告白することが出来なくなる、と、何となく感じていたから。



 嘘偽りなど全く無い、紛れも無く素直で正直な自身の気持ちを。思いのたけの全てを。

 今、彼に伝えたいと思ったのだ。

 まさに“今”、この時でなければ伝えられない、と―――。



「今日こうやって思いもかけず良政に出会って、語らい合うことが出来て、次第にあなたという人を理解してゆくに伴って……私は、あなたを信頼に足る人だと思い始めてる。優しくて頼もしくて、あたたかな安らぎまでくれる。あなたほど素晴らしい殿方を、私は他に知らないわ」

「姫……」

 そこで何を告げようとしたのか、良政が私を呼びかけた。

「だから―――」

 しかし皆まで言わせず、被せるように口を開き、それを止める。



「だから、きっと……そんなあなたが仕えている“主人”、なのだもの。立派な人でないハズなんて、無いわよ、ね―――」



 驚きの所為でかどことなく呆然としていた風だった良政の表情が、そこでハッとしたように引き締まった。

 ここで、ようやく……彼にも伝わったのだろう。私が言わんとしていることが。



「最初から諦めるのは、もうやめるわ。代わりに信じることにする。だって、あなたほどの人がお仕えしているのですもの。やはり信頼に足る人であるに違いないわ」

「…………」

「三位中将も、きっと……きっと、あなた以上に素敵な殿方である、って。きっと私が好きになれる、あなたと同じくらい好きになれる方だ、って。そう思えば辛くないもの。むしろ、お会いできる日が楽しみになるわ」



 あなたは、私に涙を教えてくれた人。虚勢ばかりで(よろ)われた私の心を、優しさというぬくもりで満たしてくれた人。

 あなたを信じることが出来たからこそ、私の心は固まった。

 あなたが信じ仕える御方なら、私も信じたいと思える。

 そうやって自分を納得させるのなら……それは全く“ムリヤリ”じゃない。

 心が、そうあれと望むのだから。

 あなたが信ずるものを信じ、あなたと志を同じくすること。――それこそが、これからの私の幸せとなる。

 どうか伝わって欲しい。

 私が、どれほどあなたに感謝しているのか。どれほどあなたに信頼を寄せているのか。



 ――ねえ、良政?

 あなたも私のことを、信頼に値する人間だと、ほんの少しでも思ってくれているかしら―――。



 私の見つめる視線の先で、良政は終始無言でいた。

 無言のままで、ただ私を見つめ返している表情だけが、まるで困ったように苦しげに、徐々に徐々に曇っていった。

 ――彼を苦しめたくて気持ちを告げたんじゃない。

 だから殊更にニッコリと笑みを浮かべ、おもむろに「帰りましょう」と、彼に告げた。

「そろそろ戻らないと、日が落ちる前までに宮中へ辿り着けなくなってしまうわ」

 言いながら、立ち上がろうと傍らに手を付いた私の肩を良政が即座に押さえつけるように掴むと、そのまま元の座っていた体勢に押し(とど)める。

「その足で歩かせるわけにはまいりません」

 さきほどよりも近い位置で顔を合わせているというのに……それを言う良政は、見るからに私と視線を合わそうとせずに努めていた。

「姫宮さまは、どうぞこのままで」

「でも、良政……!」

「すぐに車を手配してまいりますゆえ」

「車!? ――って、そんなもの、そうすぐには……」

「大丈夫です、確かこの近くに右大臣(うだいじん)(ゆかり)(やしき)がございましたから。そうお待たせせずに手配できましょう」

「そうは言っても、こんな、いきなり押しかけてお邸の方々にご迷惑をおかけするわけには……」

「仮にも姫宮さまを傷んだ御御足(おみあし)のまま歩かせようとするなど、それこそ臣下としての名折れです。何と言われようとも、これだけは譲れません」

「でも、だって……」

「ご心配めされますな。誓って、事情は洩らしません。姫宮さまがいらっしゃるということも伏せましょう。――ならば、よろしいでしょう?」



 そうやって、私をやりこめている間でさえも、ずっと……良政は、私から視線を逸らし続けていた―――。



「……わかったわよ、もう。あなたの好きにすればいいわ」

 私が、そうやって渋々肯くのを待っていたかのように、「それでは」と、即座に腰を上げて(きびす)を返す。

「すぐに戻ってまいりますゆえ……しばしの間、この場でご辛抱を」

「大丈夫よ。どこにも行ったりしないわ。この足だもの、大人しくここでジッとしてる」

 立ち上がった彼の肩越しに、その斜めにうかがえる横顔を見つめて返事を投げた。

 だが、それに良政は返事を返してくれることはなく。

 その場でふいに、まるで思いつめたような仕草で俯いた。

「良政……?」

 私の座る位置からは表情が見えない。だからふと心配になる。

「どうか、した……?」

「―――姫」

「はい……?」

 呼ばれて咄嗟に返事を返したものの……それでも彼は振り向かない。相変わらず私に背を向けたまま。

 だが、やおら顔だけがこちらを振り返った。――いや、振り返ろうとした、というべきか。

 相変わらず彼の視線は私の姿を捉えることはなく。

 それでも、先ほどよりはハッキリと目に映る横顔から、(ひそ)められた眉と、ただ地に落とされた伏せ目がちな眼差しが、その表情に切なげな影を落としていることだけは見てとれた。

「――どうか……私を信じてください」

「え……?」

 まるで独り言のような呟きにも似た言葉に、思わず私の眉も寄る。

「あなたを…あなただけは、私は決して裏切りません」

「良政? あなた、一体なにを……」

「全て包み隠さず申し上げます。あなたに嘘は吐きたくない」

「どういう…こと……?」

 ――あなたは私に何か嘘を吐いているというの……?

 訊こうとした言葉を遮るかのように、彼の足が、じゃり、とした音を立てる。

 河原の砂利を踏みしめながら、今度こそ彼は完全に、身体ごと私を振り返った。

 見下ろす瞳が、見上げる私へと注がれる。

 そこで、彼はおもむろにフッと表情をやわらげた。

 どこまでも優しいその表情に、それが自分へと向けられているという事実に、我知らず胸が高鳴る。

 どくどくと徐々に早くなってゆく鼓動。

「良、政……?」

 咄嗟に彼の名を呼ぶが、何が言いたいのか、何を訊きたいのか、自分でもよくわからない。

 ただ、どうしたらいいかわからない自分を持て余すしか出来ずにいた。

 そんな私に向かって……再び「姫」と、彼が囁く。とてもとても優しい声音で。



「私もあなたが好きになりました、と……申し上げたら、どんな返事をいただけますでしょうか―――」



 ドクッ! と、ひときわ大きく鳴った鼓動の所為で、心臓が口から飛び出るのではないかとさえ、思った―――!



 思わず口を覆っていた両手の下で、唇の小さな震えが伝わってくる。

 カアッと顔が熱くなり、見えずとも頬が紅潮していくのが分かる。

 まさか、良政が私のことを『好き』だと言ってくれるなんて。――どうしよう、ものすごく嬉しい。

 嬉しすぎて、返すべき言葉が見つからない。

 言葉の代わりに涙が出てきてしまいそう。



「…詮無きことを申しました」

 だが、そうやって私がおたおた戸惑っている間に、良政は再び踵を返してしまった。

「今の私がそのような言葉を告げても、姫宮さまを(いたずら)に煩わせるだけですね」

 そう言いながら、再びこちらを向いた背中越し、彼が俯くのが分かった。

「いま言ったことは忘れてください。――すぐに車を用意してきます」

 そして逃げるように歩き出した彼の背中を、しかし私は「良政!」と、思わず大声で呼び止めていた。

「忘れないわ! いえ、絶対に忘れるものですか!」

 驚いたように足を止めて振り返った彼を、逃がすものかとばかり矢継ぎ早に言葉を投げる。

「聞いた以上は、決して忘れない! あなたにそう言ってもらえたことを誇るわ! 心の支えとして生涯(いだ)き続けるわ!」

「姫……」

 振り返った彼の瞳をしっかりと見つめ、微笑んでみせる。

「好きだと思った人に、こんな私のことも好きになってもらえた。――それだけで私は、このうえもなく幸せよ」

「姫宮さま……!」

「うん、幸せ。私ったら本当に幸せ者ね。だから……」

 ちゃんと満面の笑みで笑っているはずのに……それを言おうとした瞬間、ふいに一しずく、涙が頬を伝った。

 咄嗟に顔を伏せたけれど、しっかり見られてしまったかもしれない。

 人は幸せ過ぎると涙を流すのだ、と。――良政には、そう伝わってくれればいいのに。



「だから、これ以上の幸せを望んだりしたら……きっとバチが当たるわね―――」



 俯いたまま、足早に去っていった良政の、その砂利を踏みしめてゆく音を、聞こえなくなるまで耳で追って。

 ようやく私は、指で頬の涙を拭った。

 彼に、ちゃんと伝わってくれたはずだ。だからこそ何も言わずに去っていったのだろうから。



 ――あれが私の、返すべき“返事”なのだ、と。



「あなたが、私の夫となる人だったらよかったのに……」

 我知らず洩らした呟きは、川のせせらぎの音に掻き消された。

 そうであったらよかったのに、なんて戯言(たわごと)……所詮、せせらぎに掻き消されてしまうだけの、儚い夢だ。

 私が皇女である以上、絶対に叶うことのない夢。



 私は、どうしても右大臣家に嫁がなくてはいけないの―――。



 それが、私にもたらされた“現実”、だから。

 せっかく、想いを通じ合わせられる人と…私が理想とする関係を築き上げられるかもしれない人と、巡り逢えたと思ったのに。

 でも現実の前には、夢はどこまでも夢でしかない。

 私が我を通せば通しただけ、父上や母上、私の大事な人たち全てを、傷付けることになってしまう。そんなのは嫌だ。そんなのは苦しい。

 それならば……誰にも迷惑をかけず、誰も傷付けない方法を、私は選ぶ。

“理想”ではなく“現実”を、受け入れる。



 ――だからこそ、私を『好き』だと言ってくれたその言葉が、どんなに嬉しかったか……!



「良政、あなたが好きよ。大好きよ」

 もう姿さえ見えなくなった彼に向かって、私は一人、それを呟く。

「好きになってしまったからこそ、尚更……結ばれてはいけないのかもしれないわね……」

 好意を抱けば抱いただけ、その相手に期待をしてしまうもの。

 無駄な期待を抱きさえしなければ、心は平らかでいられる。

 ならば、最初から好意なんて抱いていない相手と結ばれた方がいいじゃない。

 私にとって、それが最善のことなのだ。

 なおかつ、好意を抱いた相手が主人と崇め仕える人と結ばれるのならば、とても幸運なことではないか。

 だが、それを飲み込んでいてさえ、知らず知らずタメ息が洩れた。

「切ない、なあ……」

 流れる川の水面(みなも)に目を向けながら、せせらぎの音の中に隠すように、ひっそりと一人、それを呟く。



「これが噂に聞く、恋、というもの? ――かも、しれない、な……」



 ――その瞬間、ふいに視界が暗闇に閉ざされた。





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