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【拾弐】

 

 

 

 

 色々とすったもんだが起こったおかげで、私――こと(おんな)二の宮と三位中将(さんみちゅうじょう)との結婚話が、改めて正式な形で公布されてから、およそ数日後のこと。

 かねてよりお(ふみ)で打診していた目通りが叶い、私は藤壺(ふじつぼ)へとお邪魔することとなった。



「ようこそお越しくださいました、二の姫宮さま」



 にこやかに迎えてくださった藤壺の女御(にょうご)さまとは、こう(じか)対面(たいめ)させていただくのは、女御さまが入内(じゅだい)なされたときにご挨拶いただいた以来になるが。

 その時と全くお変わりになられない、相も変わらず楚々として淑やかなお美しさを持つお方だった。

「このたびの不躾なお願いを快くお聞き届けくださり、まことにありがとうございます」

「まあ、そんな。わたくしも姫宮さまにお会いしたかったのですもの、来てくださったこと、本当に嬉しく思っておりますわ」

 初めてお会いした時から思っていたことだが、こう対等に会話をしていても常に相手を立ててお話ししてくださる、しかし決して卑屈には聞こえない、そんな女御さまの一歩引いたような控えめさは、とても好ましく、是非とも見習わなければと常々感じ入るばかりである。

「いずれ義理とはいえ姉妹になるのですもの。これを機に姫宮さまとは、より仲良くなれたらと願っておりますのよ」

「わたくしもです、義姉(あね)上さま」

「あらあら、嬉しいこと。こんな可愛いらしい義妹(いもうと)がいてくれたら、わたくし、それこそ可愛がり過ぎて、弟に渡すことを拒んでしまいそうだわ」

 そんな軽口を叩いてころころとお笑いになり、その場を上手に和ませてくれる。

 対面の席は、そのような女御さまのお心遣いのおかげで、終始和やかに穏やかに、楽しい時間が流れていった。

 そんな空気の中で交わされた、私たちの結婚のことも含めた当たり障りのない世間話が、ひと区切りついた頃合のこと。

「――本当に……二の姫宮さまは、可愛らしいお方でいらっしゃること」

 ひととき会話の途切れたところで、ふと女御さまが、どこかしみじみとした口調で、そんな呟きを洩らす。

「女御さま……?」

 そこに何か含みありげな感じを覚えて、思わずそう、呼び掛けてしまった私を。

 しかし、おもむろに「姫宮さま」と、女御さまの方より声が投げられ、柔らかな笑みを向けられる。

「お会いできて本当に良かった。こうやってお話ができて……わたくし姫宮さまのことが、より好きになってしまいましたわ」

 そう言葉を発しながら、何か合図でもしていたのだろうか。言葉の切れた途端、そこでさーっと波が引いていくように、その場に侍っていた女房たちがぞろぞろと席を立ってその場を去ってゆく。

 私に従って来ていた奈津(なつ)も、誰かに促されるような様子で立ち上がった。だが、振り返った私と目が合うと、安心してとでも言うかのように笑顔で一つ頷いてみせ、近くの几帳(きちょう)の陰へと姿を隠す。そのまま、その場に座して控えていることがうかがえて、同時に、女御さまの側近である女房も、同じように姿を隠しつつも近くに控えているのだとわかった。

 信用のおける女房以外の皆を退()がらせ、二人きりとなってから。

 ふいに立ち上がられた女御さまは、それまで座していた一段高い場所を降りると、まさに私と膝を突き合わせるような真向いに、そう距離を置かずに腰を落とす。

 そうしてから、ようやく改まったように口を開かれた。

「物々しくしてごめんなさいね。もう少しだけ……姫宮さまには、より深く知っていただきたくなりましたの。――弟のことを」

 どくり、…と、思わず心臓が高鳴った。

 女御さまが『弟』というからには……間違いなく、それは三位中将のこと―――。

「あんな、女人(にょにん)の立場からしては受け入れ難い評判のある弟との結婚を、なのに先ほど姫宮さまは、何の含みすら感じられない満面の笑顔で『良縁』だと、そう仰ってくださいましたわ。そこまで穏やかなお心もちで、あの弟との結婚を受け入れていただけるなんて、本当にありがたいことと思っておりますの」

「いえ、そんな……三位中将さまは、本当に素敵な方でいらっしゃるから……」

「ですが、姫宮さまとて当然、あの弟の評判は知っていらしたのでしょう? ――女遊びも甚だしい浮気者、だと」

「そ…それは、その……」

「いいんですのよ、隠さなくても。むしろ、この後宮で暮らしていて、知らない方がおかしいことですもの」

「まあ……それはそう、です、ね……」

 ホントにもう、こうトコトン腹芸に向いてない己が恨めしい。空っトボけることが出来ず顔に出してしまった挙句、畏れ多くも女御さまの方に気を遣わせてしまうとは。

 にわかに申し訳ない気持ちで一杯になり、潔く「ごめんなさい」と頭を下げる。

「確かに、そういった評判も聞いてはおりましたけど……でも、わたくしが三位中将さまのお人柄に惹かれた、ということに間違いはございませんし……」

「まあまあ、姫宮さまが謝ってくださることなど何一つとしてございませんわ。それどころか、そんな評判にも惑わされず、弟の人柄をちゃんと見てくださったのですから。こちらからお礼を申し上げたいくらいですのに」

「そんな…それほどのことは、何も……」

「本当に……昔から誤解ばかり受け易い子なのです、あの弟は」

 ふふふと軽く笑んだ女御さまは、そこでふと言葉を切ると、少しだけ、どこか遠くを見るようなまなざしを見せた。

 だが、それもひとときのこと。

 おもむろに「姫宮さま」と、私へと視線を戻すと、相変わらず表情はにこやかではあるものの、どことなく静かな口調になって話し始める。

「姫宮さまは……わたくしたち姉弟のことを、どなたかに聞いておられますか?」

「いいえ、特には。お恥ずかしながらわたくしは、お二人が右大臣(うだいじん)さまを父君とする同腹の姉弟だということくらいしか、存じ上げておりませんの」

「よろしいんですのよ。よっぽど詳しく調べようとでもしない限り、どなたに聞いても、その程度のことしか知りませんわ。――きっと弟も、それ以上のことは語りたがらないでしょうしね」

「それは、どういう……?」

「姫宮さまは……弟が何故、あんなにも人の評判に上ってしまうほどに夜歩きを重ねていたのか、お考えになったことはございますか?」

「え……?」

 言われて初めて気が付いた。――そんなこと、考えてみたこともなかった。

 当世の公達(きんだち)が、浮名を流し夜歩きを重ねるのは、至極当然のことだ。色恋の噂が流れることは決して不名誉な醜聞などにはならず、むしろそれこそが雅だ風流だともてはやされる。流した浮名の数、それすなわち、男ぶりの度合い。そう言っても過言ではないだろう。だからこそ男性は、自身の風雅に通じた男ぶりを余人に誇示するため、恋の体験談を語りたがる。そのために、夜歩きを重ねたり、恋の鞘当てをしてみたりなどもして、常に色恋の経験値を増やすことに専心しているのだ。

 そこに何ら疑問を持つことも無かった私は、三位中将ほどのお方なら公私ともに敵も多そうだし、そういった方面での競い合いも少なからずあるのだろうと、ただ漠然とそう考えていたものだけど……どうやら女御さまの口ぶりでは、何か違った意図があるふうにも受け取れる。

 思わず私は固唾を飲んで、次の言葉を待っていた。

「わたくしたち姉弟は、早くに母を亡くしましたの。それで、幼い時分より父のもとに引き取られました。物慣れぬ広い(やしき)の片隅で、姉弟二人きり、常に肩を寄せ合って、ひっそりと遠慮がちに過ごしていたものでしたわ。父は、わたくしたちに何不自由の無い生活を与えてくれましたけど、やはり母の居ない生活は、子供心にとても淋しくて。周りに居るのは見ず知らずの大人ばかり、慣れぬうちは、心を開いて淋しさを分かち合えるのは、お互いしか居なかったのです。ですから自然と、わたくしたちの繋がりは密になり、お互いがお互いの一番の理解者ともなり得ました。――だからこそ……あの子は何も言ってはくれませんが、わたくしには解ってしまう気も、するのですわ……」

 そこで一旦、言葉を切ると女御さまが、ふぅっと軽く息を吐く。

 そして、ぽつりと呟くように独り言めいて、その言葉を口にした。



「きっと弟は、失うことを怖がっていたのではないかしら、と―――」



 言いながら女御さまが、伏せ目がちに悲しげな微笑を浮かべる。

「こんなこと、これから結婚される姫宮さまに聞かせてよい話では無いとは存じますが……」

「お気になさらず。何でも話してくださいませ」

「ありがとうございます。どうか、お気を悪くなさらず、お心静かに受け止めていただければ幸いですわ。――それは、わたくしどもの母の話なのです……」

 お二人の母君は、当時権大納言(ごんのだいなごん)の地位に在った公卿(くぎょう)の姫君であったという。その実家は名家ではあったが、摂関家の(ゆかり)ではなく、賜姓(しせい)臣籍(しんせき)(くだ)った皇子(みこ)末裔(すえ)であった。

「父にとって母の実家は、下種(げす)な言い方をするなれば、さしたる旨味も無い家、だったのでしょうね。母の父――わたくしたちの祖父が権大納言の地位にあった間は、まだ足繁く通っておられたと聞いています。ですが、政局が変わり、祖父が失脚したのちは、ぱったりと音沙汰がなくなった、と……」

 非情なようだが、それも世の常である。男性が複数の妻を持つことが当然である当世、主流となるは妻問(つまどい)婚――言葉を換えればそれは、愛人を持つための婚姻、だとも言い得る。

 そもそも妻問いをする男性は、娶った妻の実家から受ける援助をアテにしているからこそ、足繁くも通うのだ。やはり下種な言い方をするなれば、〈金の切れ目が縁の切れ目〉といったところか。実家からの援助が期待できなくなった以上、その妻にいつまでも執着していたところで、自身の栄達は遠のくばかりなのだから。

 能吏と名高い切れ者の右大臣ならばこそ、それも顕著であったのだろうと、簡単に想像もつく。

「あの父のことですから、母のもとに通っていたのも、何らかの損得勘定はあったのでしょう。もしくは、ただの気紛れ…でしかなかったのかもしれませんね。いずれにせよ、そのようにきっぱり割り切っていた父とは違い、母の方は、どうやらそうではなかったようなのです。あのような父のことを、心から恋い慕っておりましたの。ですから、いつまでもいつまでも、訪れることの無い父を待ち続けて……そして祖父が亡くなった途端、これでとうとう父との縁も断たれてしまったのだと、そう覚り、絶望したのでしょうね。――自ら命を絶ってしまいましたわ」

「そんな……そんなことって……!」

「わたくしも弟も、まだ幼かったので、当時の事情はよく知りません。すべては、のちに人伝で聞いた話です。あのときは、わけもわからぬまま時が過ぎ去り、気が付けばわたくしたちは、いつも傍にいたはずの母が居ない、知らない(やしき)での新しい生活の中に、放り込まれておりました。――ただ、それでも……子供心に憶えていることはございます。母が身を投げた池の水面(みなも)に広がっていた(ころも)の、濡れた蘇芳(すおう)の色が、目を射るほどにとても鮮やかで……未だにまざまざと眼裏(まなうら)に浮かびますわ……」

 ――その気持ち、とてもよくわかる……。

 私も、あの緋に染められた景色は、忘れたくとも忘れられない。未だに時々、夢に見てしまうほどに。

 視界に焼き付いてしまうほど強烈な衝撃を受けた光景、それに加えて、母君の死という悲しみまでもが合わさった記憶であれば、それこそ忘れられようはずもないだろう。女御さまには――のみならず、おそらく三位中将にとっても。

「後々知ることになった母の死の顛末は、やはり少なからず、わたくしたち姉弟に何かしらの影を落としたのでしょうね。特に弟は、父への不信感が、どうしても拭い去れなかったようで……それが次第に、人間不信へと繋がってしまったようですわ。元服したての頃が、最も酷かったかしら……誰とでも当たり障りなく上手に付き合っているように見せかけて、その実、誰のことも信用していなかった。どこまでも頑なだった弟の言葉の端々に、わたくしにはそれがわかってしまいました。誰にも心を開くことが出来ず、どんどん意固地になっていく弟を見ているのは、本当に辛かったですわ。ですが、それが僅かなりとも良い方向へと変わってくれたのは……やはり主上のおかげなのでしょうね」

「父上の……?」

「ええ。主上がまだ御即位される前、東宮(とうぐう)としてお立ちあそばされるよりも以前のことですわ。弟が親しくお付き合いさせていただいていた時期がありましたの。何かのきっかけで主上より笛のご指南をいただいたことから、お付き合いが始まったそうですわ。最初は、断れないからと渋々足を運んでいた様子でしたが、次第に打ち解けていったみたいで、すぐに主上に懐いてしまいました。親しい身内がわたくししか居なかった弟にとって、まるで親子や兄弟のように主上から構っていただけるのが、とても嬉しかったようですの。畏れ多いことですが、その頃は『変な宮さま』だと言っては、その日あったことを面白おかしく、よくわたくしにも話してくれたものでした」

「そんなことが……まったく知りませんでした……」

「弟は見栄っぱりですからね。姫宮さまにお話しするのは気恥ずかしいのでしょう。そうやって格好つけようとするから、いつも周りに誤解されてしまうのに……ですが、そんな弟の本当の姿を、ちゃんと主上が見てくださったから……あの人間不信気味だった弟も、何とか更生することが出来たのでしょう。弟に人との付き合い方までお教えくださった主上には、本当に感謝しきりですわ」

「中将さまはともかく、父上も水臭いわ。そんな昔からの付き合いがあったのなら、教えておいてくれてもいいのに……」

「主上のお考えは、わたくしごときでは及びもつきませんが……僭越ながら推察いたしますに、結婚前の姫宮さまへ、弟に対する余計な先入観を与えたくなかったのではないでしょうか。主上はお優しくていらっしゃいますから、噂など他人の言うことに惑わされず、ありのままの弟を見てあげて欲しいと……そうお考えくださったのでは?」

「そう、ですね……きっと、そうなのかもしれません」

 そういえば…と、ふいに思い出した。父上から言われたお言葉を。

 ――『噂というものは、所詮他人の口から語られたものに過ぎないのだよ。他人が語る事実と、自分の目で見て確かめた真実ならば、私は後者を正しいものと信じるよ。誰が何と言おうとね』

 あのときの父上は、私にもそうあって欲しいと――自分の目で見て確かめた真実のみを信じよと、そう言外に諭してくれていたのかもしれない。

「姫宮さまは、わたくしがもともと、(さき)御代(みよ)にて東宮女御として入内する手筈となっていたことは、ご存じでいらっしゃいますか?」

「はい、存じておりますわ」

 その話は、藤壺へと女御さまが入るにあたり、色々なところで囁かれていたから、私も聞き及んでいる。

 (さき)御代(みよ)の東宮女御――つまり、(さき)の帝の一の皇子(みこ)であったお方のもとへ、そもそも藤壺さまは女御として嫁す予定であったのだ。しかし、いよいよ入内も目前という時期になって突然、当の東宮が流行(はや)(やまい)に臥され、その話も頓挫してしまい、そうこうしているうちに身罷られてしまった。そこで改めて、御代(みよ)が移ってから今上(きんじょう)のもとへ女御として嫁すこととなった、というわけだ。

「その話が父より出されて以来、弟は強固に反対しておりましたの。父に対する反発も大きかったのでしょうが、何よりもわたくしには、寵を争わなければならない後宮へ入るより、平凡な女人(にょにん)としての幸せを掴んで欲しいと、そう願ってくれたのですわ。しかし、あの父のことですから、弟の言葉など取り合ってもくれず、強行なまでに入内を推し進めて……とはいえ結局は、その話も流れてしまうことになったのですけどね。やがて御代が移り、案の定というべきか、そんな嫁ぎそびれたわたくしを、今上の女御として入内させる、という話へと変わり……しかし弟は、今度は全く反対などいたしませんでしたの。あの御方ならば悪いようにはなさらないだろうから、と……それほどまでに弟は、主上を信頼しておりましたのね。おかげで心安く、ここでは過ごさせていただいておりますわ」

 確かに……この後宮において、お妃さま方が父上の寵を争っているような話は、これっぽっちも聞こえてきたためしが無い。

 父上も上手いことやるもんだ…と、そう常々感心していたものだ。ぶっちゃけ父上にしてみれば、大臣たちの手前、請われるままにお妃方を受け入れてはみたものの、中宮(ちゅうぐう)である母上以外の女人に寵を傾ける気など、最初(はな)っからサラサラ無かったに違いない。――とは、さすがに目の前の女御さまに、言葉に出して告げるのは憚られる……とはいえ、女御さまにしても、そういうところまで既にしっかりわかっており、そのうえで敢えて“それ以上”を望まずにいらっしゃるのかもしれない。だからこそ『心安く』、この後宮で過ごしておられるのだろう。

「そんな主上のおかげで、頑なだった弟も少しずつ和らいで、まともな人らしくなってはまいりましたけれど……それでもやはり、母の影から逃れることは難しかったようですわ―――」

 楽しい思い出話から一転、唐突にまた陰を落とした、そんな言葉に私も思わずハッとして、知らず知らずのうちに息を詰めてしまっていた。

 そして再び、女御さまは語り始める。どこまでも淡々と。

「弟が、いつから夜歩きを始めたのか……もう憶えてはおりません。気付いた時には既に、幾人もの女人と浮名を流していて……ですが、その中のどなたとも、三日目の朝を迎えたことはございませんの。――それは姫宮さまも、噂などでお聞き及びでいらっしゃいますでしょう?」

 無言でこくりと、私は頷く。

 三日目の朝を迎える――つまりそれは露顕(ところあらわし)だ。ようするに、女人のもとに三夜続けて通った事実を知らしめる、すなわち、この女人を妻に迎えました、と披露するための儀式。

 三位中将に関する噂は、もう腐るほど耳にしたものだけど、そのどれを聞いてみても、彼がどこぞの姫君と露顕を迎えた云々、といった話題が上っていたことはない。だからこそ、そんな三位中将が娶るのはどんな姫君なのだろうかと、憶測がまた更に噂を呼び、どんどん尾ひれハヒレが付いて広まっていった…ということも、おそらく無きにしもあらずだ。

「きっと弟は……人を愛することを怖がっていたのです」

 ぽつりと洩らされた、そんな独り言めいた言葉が……つきんと、私の胸のどこかを刺す。小さく――なのに鋭く。

「男性にとっては、色恋の話も時として必要なものですわ。だからこそ弟も、どこぞの女人と関係を持ったのでしょうが……にもかかわらず、それをすぐに終わらせてしまうのは、どなたに対しても深入りすることを避けていたから、なのでしょう。――母のような女人を出さないように、と」

 少しの()、語る女御さまの表情が陰る。思い出すのもお辛いのだろうか、その(ひそ)められた眉根に苦しげな皺が寄っていた。

「関係を持った女人に、愛されているなどと思わせてはならない、と……そのように、弟は自身に課していたようですわ。求められていると思ってしまえば、もう二度と訪れることのない自分を、母のようにいつまでも待ってしまうかもしれない。いずれは母のように命さえ絶ってしまうこととなるやもしれない。そう考えてしまうと、やはり怖ろしかったのでしょうね……どなたに対しても、一歩を踏み込むことが出来ぬまま、分かり合うことすら出来ぬままで、ただ去ってしまうしか自身の取る道が選べなかったのです。自分が誰かを愛さなければ、誰を不幸にすることも無い、誰を失ってしまうことも無い、と……そう、頑なに思い込み続けて。ですからわたくしも、半ば諦めておりました。弟は、そうやって誰のことも愛せぬまま、生涯を独り身で通すことになるのだろう、と。ですが一方で、強く願ってもおりました。いつか弟を、母の影から解き放ってくれる女人が現れてはくれないものか、と」

 そこで言葉を切った女御さまは、ふいに手を伸ばし、膝に置かれていた私の手の上に、ご自身のそれを重ねる。

 真正面から私を見つめると、やわらかくあたたかな…そしてどこまでも晴れやかな笑みを、その表情に浮かべたのだ。



「そんな弟を、変えてくれたのは姫宮さまですわ―――」



 いつしか私の頬を、涙が伝っていた。

 それを、微笑みながら女御さまが、優しく拭ってくれる。

「ありがとうございます、あの子のために泣いてくださるのね……姫宮さまに出会えたことが、弟にとって最高の幸せですわ」

「そんな……そんな、私の方こそ……!」

 私は、何も出来ない――してあげられない。

 そんなにも深い傷を抱えた彼を、どうしたら癒してあげられるのかもわからない。

 彼から妻にと望んでもらえた、そのことに舞い上がって喜んでいるばかりの自分の姿に、今ここで唐突に情けなさを覚えてしまった。自分が、とてつもなく愚かにさえ思えてくる。

「私ばっかりが幸せでいて……与えてもらうことしか出来ない私なんて、何の役にも立てないのに……!」

「…いいえ。それは違いますよ、姫宮さま」

 やおら、そんなどこまでも優しい口調で、言いかけていた言葉が遮られる。

「あなたは、弟を愛してくださったではないですか。――そして、弟にも人を愛する気持ちを思い出させてくれた」

義姉(あね)上さま……」

「あの弟の口から妻を迎えると聞いた時、わたくしがどんなに嬉しかったか……! ようやくあの子が母の影から解き放たれる日が来たのだと、感極まって涙が止まりませんでした。それもすべて姫宮さまのおかげなのです。あなたが弟を愛してくれたから……そして、弟の気持ちを受け入れてくれたから……そのように想い合えることが幸せでないのなら、ほかに何と呼べばよいのでしょう。わたくしには到底、相応しい言葉などほかに見つかりませんわ。ご自身を『何の役にも立てない』などと、そんな悲しいことを仰らないで。姫宮さまは、あの子の隣にいてくださる、それだけでも充分に幸せを与えてくださっておりますのよ」

 そんな、掛けられるあたたかな言葉に……やはり涙が止まらなくなる。

 ――仰っていただいたように、もし私が中将さまを幸せにしてあげられているのなら、こんなに嬉しいことは無いわ……!

「これからも……あの子のこと、どうか末永く隣から見守ってあげてくださいませ。また変な道を行こうとしたら、どうぞ蹴り飛ばして戻してあげてくださいね」

「まあ……!」

 その茶目っ気たっぷりな言い方には、思わず私の口からも笑い声がこぼれた。

「夫の手綱を握るのは、いつの世でも妻の役割ですわ。不束な弟ですが、どうぞ上手く乗りこなしてくださいませ」

「ハイ、頑張ります」

「やはり姫宮さまは、笑ったお顔が、いちばん可愛らしくていらっしゃるわ」

 泣き笑いでぐしゃぐしゃな私の頬をつつきながらそれを言う、その女御さまの晴れやかな表情こそ、誰よりも素敵に輝いていらっしゃると。

 そのときの私は心から、そうしみじみと感じていた―――。




          *




 そして、『どうせ弟は自分から打ち明けたりしないでしょうから』と悪戯っぽく微笑みながら、女御さまが教えてくれたこと―――。



「おそらくですが、お目通りが叶うずっと以前から、弟は姫宮さまのことを、密かに懸想(けそう)しておりましたのよ」

「へ……?」

「まだ弟が、主上と親しくお付き合いさせていただいていた頃のお話、なのですが。――実は、主上から『君みたいな男子(おのこ)になら娘を貰って欲しいなあ』などと、冗談まじりにですが、おっしゃっていただけたことがあったそうですの」

「はい……?」

「たとえ戯言(ざれごと)であったとしても、そのような言葉を主上からいただけたことは、やはりとても嬉しかったようなのですわ。『あの変わり者の宮さまの娘なら、やっぱり変わり者だろうから見てみたいかもしれない』なんて、口では可愛くないことを申しておりましたけどね。その実、内心では興味津々だったのですわ。垣間見(かいまみ)のために、翌日さっそく三条(さんじょう)まで足を運びに向かって。それですぐに、お目当ての姫君が『まだ子供だった…』と、がっくりして戻ってきましたの」

 そのときの様子など思い出しているのだろうか、くすくすと笑いを堪えきれずにいる女御さまとは対照的に。

 私は、ぽかんと口を開けたまま、目を瞠って固まっていることしかできない――というか、むしろどのようなリアクションを返すのがこの場合の正解なのか、そこからしてわからないのだが。

「あまりにもがっかりしている様子でしたから、姫君の着裳(ちゃくも)を待って正式に妻問いしたら? と、焚き付けてもみたのですけどね。なのに、『宮さまから打診があったら』なんていう煮え切らない言い訳ばかりで……タメ息を吐くだけ吐き出してから、さっさと諦めてしまいましたのよ。せっかくこの弟が自分から結婚に興味を持ってくれそうだったのに、と、結局は何も変わらなかったことが、そのときは残念でなりませんでしたわ。――ですが、今にして思えば、それも巡り合わせ、だったのですわね」

「巡り合わせ……?」

「ええ。今こうして姫宮さまと結ばれるために、必要な擦れ違いだったのですわ」

「必要な……」

「あそこで結ばれることが無かったからこそ、弟の片想いも、今に至るまで募っていったのですもの。それほどに募る想いがあればこそ、ここでようやく実を結べた、と……考えたらとても素敵なことですわね。まるで前世(さきのよ)からの約束を果たしたような」

「――二世(にせ)の、契り……」

「きっと、そうなのですわ。弟と姫宮さまは、前世からの(えにし)によって、この今世(いまのよ)でも結ばれる定めだったのですね」



 私の預り知らぬところで生まれていた(えにし)があった、と……それを拠り所とするのは、少々強引なことなのかもしれないが。

 それでも、そうであればいい、と願いたい。

 今世において、ようやく愛しい人を探し当てたのだと。愛しい人から探し当ててもらえたのだと。



 そして、後世(のちのよ)でもそうあってほしいと……今世から私は祈るだろう。

 この想いが、どこまでも時を超えて届いて欲しい、と―――。





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