【拾】
そのまま私は、二日ほど床から起き上がれなかった。
倒れて意識を失っていたから私は全く覚えていないのだけど、その夜になって、今度は熱を出したのだそうだ。
とはいえ熱は一晩で治まってくれ、翌朝は普段通りに目覚めはしたものの。しかし、まだ発熱の余韻でか全身に気だるさが残っており、しばらくは安静にしていろという医師の勧めもあって、大事を取ってその日も終日寝付いたままでいることにした。
ようやく帳台の上で身体を起こせるようになったのは、三日目のこと。
目覚めて身体を起こした私に気付き、傍に付きっきりで看病していてくれたらしい奈津が、朝餉の粥を用意してくれた。
昨日は、寝付いたままの状態で奈津に食べさせてもらった粥を、今日は、ちゃんと自分自身の手で匙を口へと運ぶ。
もともと身体は丈夫な方だ。一時は寝付いてしまったとはいえ、熱が下がり、自ら物を食することが出来た時点で、それはもう快方へ向かっている。
そのことを自分でも充分に理解していたし、傍で私を看てくれている奈津にしても同様だろう。
だが、それでも……そのまま私は、床の上で一日を過ごすことをやめなかった――やめられなかった。
身体は、もう何ともない。どこも悪いところなんてない。
でも、気持ちが普段の日常に戻ることを拒否していた。
毎朝具合を尋ねてくる奈津に『だるい』だの『頭が重い』だの何だかんだ理由をつけては、頑ななまでに彼女に背を向け続けた。
――いっそ、倒れてそのまま死んでしまっていたらよかったのに。
そうであったなら……こんなに悩んだりしなくて済んだ。普段の日常を迎えることを、こんなにも苦痛に思うことなども無かった。
そんな風に考えるのは、せっかく持って在る命を無下にしたバチ当たりなことだと思っていたし、また家族や親しい人たちを無駄に悲しませることになるのもイヤだし、普段の私なら絶対に考えもしない。考えることすら拒むだろう。
もとより、自分の命を絶ちたいなどと考えるほど、自身の境遇に不幸を感じたことすらも無かった。
つまり云ってみれば、私ほどの幸せ者はそうそういない、ってことの証明かもしれない。
そんな自分が、我知らずのこととはいえフとした拍子に“死ねばよかった”などと考えてしまっていることに気付き、愕然とした。
でも、気付いたと同時に、理解した。
――私は……それほどまでに目を逸らしていたいのね……。
日常に戻ってしまったら、そこに在る“現実”を受け入れなければならなくなる。
これまで当然と思ってきたそれから、目を逸らしてしまいたかったのだ。
見たくなかった。考えたくもなかった。知りたくなんてなかった。――それは許されないことだと、ほかならぬ自分で解っている。
でも、お願い。少しだけ甘えさせて。
少しだけ…もう少しだけでいい、時間が欲しい―――。
来客を告げられたのは、ちょうどそんな頃合いだった。
「――お加減はいかがですか、姫宮さま?」
さすが、いくら親しい仲だとて、頭中将のような無礼な訪問なんて決してなされない。ちゃんと先触れを立て、相手に目通りの許可を得てから、案内の女房に従って、しずしずと私の前へと通されていらっしゃった。
聞けば、昨日も様子を伺いにいらしてくださったのだそうだ。――昨日は、さすがに寝付いたままでいることもあって、目通りは奈津が断ってくれたらしいけど。
「わざわざのお運び、痛み入りますわ。このような見苦しい姿で申し訳ありません」
袿を肩に羽織っただけの夜着姿のまま、帳台から下りて座し、そう挨拶を返した私に気を遣ってくれたものか、「無理はいけませんわ」と、やんわり止めてまで下さる。
「突然お伺いしました無礼はこちらの方ですもの。姫宮さまは、どうかお楽になさってくださいませ」
そして開いた檜扇で口許を隠しつつ、柔らかに微笑まれた。
――ホント、いつ見ても女らしさに一縷の隙も無い方でいらっしゃる。
「お気遣いありがとうございます。でも、もう今日はすっかり元気です。きっと尚侍さまがお見舞いにきてくださったおかげだわ」
尚侍――といえば、内侍司を束ねていらっしゃる、帝の秘書役とも呼べるべき重要な役職を担う女官、ではあるが。
当世それも形ばかりのものとなりつつある。
今や尚侍は、女御や更衣に次ぐ、いわば后妃にも劣らぬ扱いをされる存在だ。ゆくゆくは女御とする足がかりに、まず尚侍として娘を入内させる公卿も少なくはない。
しかしながら、いま私の目の前にいらっしゃるお方――源尚侍さまは、どこぞの公卿によって入内させられた姫、なんかではない。
前の帝の御代より、名ばかりの尚侍に代わり、典侍筆頭として、実際に内侍司での職務を取り仕切っていらっしゃったという、名実伴った女官でいらっしゃるのだ。
典侍から尚侍へと位が上がられたのは、今上の御代となってからのこと。
…とはいえど、本来なら宮仕えなんてしなくてもいいご身分の方、でもある。
なにせ、実の父君は二品をいただく帥の宮、加えて母君は式部卿宮のご息女、という、生粋の宮家ご出身の歴とした姫君、なのだから。
にもかかわらず自ら志願して賜姓し臣籍へ降ったという、ちょっとした変わり種と、周囲には目されていたらしい。
それが出仕し始めるや否や、めきめきと頭角を現してゆき、まさに『後宮にこの人あり』とまで称されるほど、帝の信頼も厚い極めて有能な女官として名を馳せることとなった。
そんな源尚侍には、私たち姉弟も、母上ともども、入内してきたばかりの頃より何かれとなく、よくお世話になっていたものだ。
私が麗景殿に一人で住まうようになってからも、心配してくださっているのか、忙しい中に暇を見つけては訪ねてくださる。
それゆえに源尚侍は、私にとって、姉とも頼るべき大きな存在となっていた。
…実際、義理ながら“姉”であることには違いがないんだけどね。
なにせ、私の姉上たる女一の宮の嫁いだ相手、つまり私の義兄にあたるお方が、帥の宮のご嫡男である弾正宮さま――つまり源尚侍にとっては異母弟にあたるお方、なんだもの。
義兄の姉なら、すなわち私にとっても義姉、…でしょ?
そんなこともあって、より身近な“姉上”として、以来、親しくお付き合いさせていただいている。
それに、互いに“姫らしくない”って共通点で、私たちはとても気が合ったのだ。
「来ていただけて嬉しいですわ。――でも、お仕事の方はよろしいのですか?」
「ええ、問題ありませんわ。なにせ、わたくしを麗景殿へと来させたのは、主人の命ですもの」
「え……?」
源尚侍は、今上より直々の任命を受けられ、今や、帝の、ではなく東宮付きの尚侍――という名の実質『お目付け役』――として、お勤めなさっている。
その彼女が『主人』と云うからには……それは東宮に他ならない。
「姫宮さまがお倒れになられたと耳にされてから、もう本当に大変でしたのよ? 姉上の容態はどうなのかと、そればかりで、ちっとも仕事が捗りませんの。ついには、行って様子を見てこいと仰せになられて」
「そ、それは大変なご迷惑を……!」
あのシスコンは、まだそんな子供っぽいことをして周りに迷惑をかけてるのか、と、途端に恥ずかしくなったが。
「しかも、東宮さまだけじゃありませんのよ?」と、続けられたその言葉に、更に愕然。
「畏れ多くも主上までが、わざわざわたくしをお呼び立てになって、開口一番『二の姫の様子は?』ですもの」
「――ぅえぇッ!!?」
「しかも、その帰りには、同じ御用で承香殿さまにも声をかけられましてよ?」
「…………!!」
そこまで言われてしまったら、返す言葉の一つも無い。
帝と中宮そろって何だその親バカっぷり!? と、途端にカーッと顔が熱くなる。
それもこれも、私が彼女に懐いていることを知っている身内がことごとく、源尚侍を頼ったに相違ない。
両親にしろ弟にしろ……なんで今回に限ってそんなに心配してくれちゃってるのかしら? ――そりゃまあ、倒れたのなんて生まれてこのかた初めてのことだけど……ああその所為か……。
「何ていうか……こたびのことで、尚侍さまには大変なお手数をおかけしまして……!」
とりあえず謝るしか出来ない私を面白そうに眺めながら、「愛されてますわね、姫宮さま」と、心底から楽しそうな風情で源尚侍は、まさに鈴を転がしたような声でころころと上品にお笑いになる。
「よほどご心配だったとみえて、本当に皆さま同じことをおっしゃるのよ。姫宮さまに何か悩みがあるようなら相談に乗ってあげて欲しい、と」
「悩みなんて、そんな……」
「ええ、ええ、そんなもの、この姫宮さまに限って、あるはずもございませんのにねえ?」
「…………」
――つか、尚侍さま……いくら“その通り”だとはいえ、それ、そんなに楽しそうに言っていいことじゃないから。
途端、ぶーっと唇を尖らせてブスくれた私を、しばし面白そうに眺めやり。
おもむろに手の檜扇をぱしりと閉じると、「さて…」と、ふいに改まったように口調を改める。
そして、チラ…と、四方に鋭く視線を走らせた。
「ほかの者は控えていないようですわね?」
「ええ。まがりなりにも寝所ですから。臥せっている時は、小命婦以外の女房は用でも無い限り近付かないようにさせております」
「ならば結構」
言いながら、手の中の檜扇を、まるで弄ぶようにぱしぱしと掌に軽く打ちつける。
それが何度となく繰り返されて……ようやく意を決したかのように、「では…」と、源尚侍は重い口を開いた。
「本音を申し上げますと……わたくしも、いささか心配になりましたの」
「え……?」
「小命婦より、姫宮さまがお倒れになられた際の状況を聞きましたわ」
「…………!?」
「ご安心めされませ、決して他言はいたしません。小命婦にも、そう重々念を押された上で、ようやっと話してもらったのですもの」
良い女房をお持ちですわね、と、ふふふと笑んでみせた源尚侍の柔らかな表情に、また、どことなく悪戯っぽくも見える投げかけられたその視線に、一瞬だけ強張った全身が、そこでやわやわとほぐれてくれる。
向けられたその笑顔に、これ以上のことを何も言う気は無いのだと、それがわかったから。――それも源尚侍らしい、と、思わず私の口許もほころんでいた。
察しの良いこのお方のことだ、奈津の口から良政の名も聞いているはずなのだから、私と彼との間に何かがあったことくらい、当然のごとくアタリは付けているに違いない。そのうえで、問い質したいことなど山ほどあるだろうに……それでも何も訊いてこない、ということは、私の意志を尊重しようとしてくれている、ということに相違ないだろう。
私が自身の胸の内一つに収めて折り合いを付けようとしているのか、はたまた、誰かの助けを必要としているのか。行動を起こす前に、まずはそこから見極めようとしていらっしゃる……源尚侍の言う『心配』が、その姿の向こうに透けて見えるようだった。
改めて居住まいを正し、「お気遣い、ありがとうございます」と軽く頭を下げてから、心からの微笑みを私は彼女へと向けて見せた。
「わたくしは……そう、言うなれば迷い子だったのですわ」
「迷い子……?」
「暗き闇の中で、少々惑っておりましたの。そこで出会った美しい鬼に、魅入られてしまいました」
「鬼、とは……また穏やかではございませんのね」
「そうですわね。未だ、思い出すだに心が千々に乱されてゆくようで……ですが、闇は既に遠ざかりましたわ。明るい日の光のもとに戻れば、わたくしの呪縛なぞ、いずれ解けてなくなるもの―――」
言いながら……ようやく自分の中に、日常に戻ろう、という気力が甦ってきた気がした。
ちゃんと“現実”を受け入れよう。――そうすることで私は、彼と過ごした時間を、思い出の中に仕舞い込むことができるはず。
まだ靄が残った心では、スッキリ晴れ渡った心もち、とまでは、到底、言い難いけれど……とりあえずの一歩を踏み出すことならば、今の私にも出来ること―――。
改めてにっこり微笑んでみせた私の姿に、この件は自分の胸の内一つに収めてしまいたいこちらの意向を、皆まで聞かずとも覚ってくれたのだろう。まさに返事のように微笑みを返してくれた源尚侍は、「迷い子が無事に帰れたのなら、それはようございましたわ」と、そこで話を打ち切ってくれた。
「さて……姫宮さまもお元気になられたようですし、もう少し起きておられても大丈夫そうですわね」
「ええ、お気遣いなく」
「ならば、お目通りを願っているお方がいらっしゃいますの。お会いになってあげていただけませんこと?」
「え……?」
聞いた途端、私の表情が少しだけ曇る。
咄嗟に、つい“面倒くさいな…”と思ってしまったのだ。
源尚侍ほどのお方を、このように取り次ぎの伝手とするなんて……相手は、彼女と親しい間柄の者か、でなければ、よほどの身分のお方に違いないではないか。――知らず知らず、内親王宣下をいただいた際に受けた怒涛のお祝い攻撃を思い出してしまった。あの時は、知人はおろか、ロクに知りもしない人にまで何かれと訪問を受けて、そうでなくとも慌ただしい最中にあった麗景殿が、おかげでますますごった返すような有様にまでなっていたっけ。その中心に居なければいけなかった私は、ウンザリした顔をひた隠し、内心“こいつ誰?”などと考えながら、お愛想程度の笑みを必死で顔面に貼り付けては、御簾の外から告げられるお祝いの言葉を丁重に受け流していたものだった。
こっちが元気になったとわかった途端、またあんなふうにして今度は怒涛のお見舞い攻撃を受けるハメになるのはカンベンして…なーんて考えてしまったことが、私の表情からありありと読み取れてしまったのだろうか。
おもむろに、ふふふと声を立てて笑った源尚侍は、「本当に姫宮さまは愛されていらっしゃいますこと」と、まさに当て擦りのようなからかいの言葉を口にする。
「はばかりながら、こたびのお願いは、わたくしの余計な気回しなのですわ。臥せっておられた姫宮さまには、気分転換も必要かと」
「気分転換……?」
「おおかた、わたくしが昨日もこちらに参っていたことを知ったのでしょうね。わたくしのもとに姫宮さまへの取り次ぎを頼みにいらっしゃいましたので、本日は共に参ることにいたしましたの。お目通りのお許しを得るまではと、今は居室の方でお待ちいただいておりますわ。――本当に……どこまでもご家族に愛されていらっしゃいますことね、姫宮さま」
「まさか、今いらっしゃっているお方って……!」
「ええ、お察しのとおり。――弾正宮さま、ですわ」
「――――!!?」
その名を耳にしたと同時。
瞬時に立ち上がっていた私は、その勢いのまま駆け出していた。
*
「―――あにうえっっ!!」
羽織っていた袿も投げ落とし、夜着の単だけというあられもない姿で、まさに立てられた几帳を蹴り倒すほどの勢いでもって居室に飛び込んできた私を、驚きに瞠られた双眸が迎えてくれた。
その場で座していただろうに、咄嗟に立ち上がろうとしたものか、片膝を立てた中途半端な中腰姿勢になっている。
私は、駆け込んできた勢いに任せ、その胸の中に飛び込んだ。
「お会いしたかったです、あにうえっっ!!」
言いながら広い背中に腕を回し、その布地をぎゅっと両手に握り込んだ。
胸元に埋めた鼻先へ漂ってくるのは、直衣に焚き染められた、聞き慣れた爽やかな香り。
――ああ、本当に義兄上だ……!
実感すると同時、私の両腕にも更なる力が籠もる。
「…どうなされました、雪姫?」
頭の上から降ってくる、そんな低くて穏やかな、優しい言葉。
口調が、幼い私へ向けるそれになっている。――この後宮へ住まうようになって以来、もはや呼んでくれることのなくなっていた『雪姫』の名で、それがわかった。
およそ姫宮として相応しくない、この普段らしからぬ私の様子に、義兄上――弾正宮さまもまた、ただならぬ何かを感じてくれたのだろうか。
普段であれば、これまで姉を通じて麗景殿でお会いすることもあったけれど、対面は必ず御簾内からだった。そして義兄もまた、ここでは今上の姫宮に対する最上の礼をもって、表面上は他人行儀なまでに相対してくれていた。
何の隔ても無く触れ合うこともできていた祖父の邸での思い出が、それを淋しいと感じさせなかったわけはないけど……でも、もはや仕方のないことなのだと、覚っていたからこそ、私はそれを受け入れていた。もはや諦めのように。
それでも私は、いま目の前にいるこのひとに、こうして縋らずにはいられなかった。
「もう幼いお子ではないのですから、どんなにねだられても、抱っこもおんぶも、いたしませんよ?」
冗談めかした言葉と共に、大きな手が優しく私の背中を撫でる。
――うん……抱っこもおんぶも肩車も、いっぱいしてもらったよね……。
姉に会うため、義兄が三条の邸に訪れるたび、幼い私は弟と一緒に義兄にジャレついては、抱っこだのおんぶだのと、いつもねだっていたものだ。昔から同世代の子供よりも大柄だった義兄は、イヤな顔ひとつもせず、毎回『仕方ないなあ』と笑いながら小柄な私たちを軽々と抱え上げてくれた。
それを当て擦ったのだろう今の言葉には、我知らずフ…とした軽い忍び笑いが洩れてしまう。
けれど、同時にこみあげてきた涙に、その笑いは喉の奥へと押し込められた。
――帰りたい……楽しかった思い出の中に、お願い、どうか帰らせて……!
ともすればしゃくりあげそうになるのを懸命に堪え、震える唇を何とか言葉の形に動かして、おもむろに私は「義兄上」と呼びかける。
胸元に埋もれさせていた顔を上に向け、見下ろした義兄の視線を受け止めた。
「お願いが、ございます……! ――雪の、一生に一度の、お願いです……!」
何を言い出したのかと訝しんだのか、その表情が曇る。何事か言いかけようとしたものか、その唇が言葉の形を作ろうとした。
でも私は、それを許さなかった。
義兄の言葉を封じるかの如く、私は“お願い”をぶつけていた。
「どうか雪を連れて帰ってくださいませ……! 義兄上のお家に、連れていって……!!」
途端、こちらを見下ろしていた双眸が、これでもかとばかりに見開かれる。
そして、それを受け止めていた私の双瞳からは、とうとう堪え切れずに涙が伝った。
もはや隠しきれない自分の気持ちを、嗚咽と共に表へと出す。出さずにはいられなかった。
「お願い、義兄上……! ――姉上に会いたい……! どうしても会いたいの、お願い、会わせて……!」
まだ、ここ宮中へと来る前の私の楽しい思い出の中には、いつだって家族がいた。
その中でも、最も多くの時間を共に過ごしてきたのが、三つほど年の離れた姉だった。
姉は、いつだって本当に優しくて……そして、そんな優しさが顕れ出たような笑顔が、とても綺麗で、いつも私を安心させてくれた。
何があっても、姉のその笑顔ひとつで、私は心穏やかになれた。
何を言っても、決して否定することもせず、すべて包み込み受け止めてくれる姉の優しさに、私はいつも護られていた。
――だから、今も……!
帰りたかった。姉の隣に――私がどんな時でも笑顔になれる場所に。
こんなぐずぐず迷っている私を、それでも『仕方ないわね』って、笑って許してほしかった。
ずっと蟠っている心の靄を、その春風のような笑顔で、包み込んでくれる優しさで、まるで何も無かったかのように消し去ってほしくて―――。
「――雪姫」
もはや隠すこともせず泣きじゃくる私の頬に、その言葉と共に、そっと指が触れた。
「本当に……あなたがた姉妹は、いつだって突拍子もない」
「え……?」
涙をぬぐってくれる指の感触が去ってから、私も改めて、目の前の義兄を見上げた。
濡れた瞳に映る義兄の表情は、どこまでもやわらかく微笑んでいて……少しだけ、その美しさに目を奪われる。
「これも姉妹という縁がもたらすものなのでしょうか。数日前――まだ雪姫がお倒れになられたと知らされる前のことですが、あなたの姉上が突然、『雪に会わなくちゃ』と言い出しましてね」
「姉上が……?」
「どうしても、と頼まれたものですから、その日のうちに帝に奏上申し上げ、参内のお許しをいただきました。――本日、あなたにお目通りし、お伝えしたかったのは、このことなのですよ」
「じゃ…じゃあ、もしかして……!」
「ええ。あなたがここから出て行かずとも、姉上の方から来てくれます。夕刻には承香殿へと入る手筈になっておりますから、もうしばらくお待ちください。早ければ今夜にでも、目通りは叶いましょう」
「…………!!」
ひととき、自分が何を言われているのかが、わからなかった。
でも、言葉の意味を飲み込むよりも先に押し寄せてきた、驚きと喜びとがないまぜになったような感情で胸がいっぱいになり……気が付けば、再び義兄の胸に飛び込んで顔を埋めていた。
「嬉しい……本当に嬉しいっ!! ありがとう義兄上、大好きっ!!」
「姉上の次に、でしょう? 仕方ない、それでも甘んじて受け取っておくしかないですね。なにせ、可愛い義妹のやることだ」
はははと苦笑まじりの笑い声を洩らしながら兄上が、なおもぎゅうっと抱きつく私の背中を、ぽんぽんと軽く叩く。
「今更ではありますが……お元気そうで安心しましたよ、姫宮さま。お倒れになられたと聞きまして、本当に心配しておりましたから」
――ああ……もう義兄上から弾正宮さまに戻っちゃった……。
やんわりとした言葉ながら、そこに含まれた、身内から臣下へと立場を変えようとする義兄の意図に気付き。
私もようやく、そろそろと身体を離した。
それでも名残り惜しい気持ちを、ぎゅっと握りしめた拳の中に隠して、その眼前に、改めて姿勢を正して座り直す。
つられたように、立て膝のままでいた義兄も、その場に腰を落ち着けた。
それを見計らって、「ご心配をおかけいたしました」と、深く頭を下げる。
「でも、もう大丈夫ですわ。もともと大したことなかったのですもの、ちょっと風邪をひいた程度のことですから」
「たかが風邪と侮ってはなりませんよ。これを機に、ゆっくり身体を休められたらいかがですか?」
「相変わらず心配性ですね。本当に大丈夫ですってば。きっと今なら、相撲を取っても義兄上に負けませんよー!」
わざと冗談めかしてそんなことを言い、笑ってみせる。
「相撲か……そんなことも、ありましたね」
「ええ、そうですわ! 転がされて池に落ちたこと、絶対に忘れませんよ!」
「…いや、それは忘れてくださるとありがたいのですが」
そんな昔話を思い出し、互いに顔を合わせて微笑み合ったところで。
声をかけるタイミングを見計らっていたのだろう、唐突に背後から「姫さま」と奈津の声がして、振り返ろうとしたと同時、ふわりと肩に袿を打ち掛けられる。
「あ、ありがとう……」
「――どうやら、良き気分転換も、できましたようですわね」
「尚侍さま……」
退がる奈津と入れ替わるように几帳の陰から姿を現したのは、源尚侍だった。きっと彼女も奈津同様、その几帳の陰で私が落ち着くのを見計らっていたのだろう。
今更ながら、応対していた彼女を何の説明もなく放り出してきてしまったことを思い出し、「申し訳ありませんでした」と、自然に頭が下がった。
「尚侍さまに対して無礼な振る舞いをしてしまいましたこと、どうかお許しくださいませ」
「いいえ、どうぞお気になさらずに。姫宮さまがお元気になられましたのなら、それが何よりのことですわ。――わたくしの異母弟宮さまは、お役に立てまして?」
「ええ。お連れくださって本当に感謝しております」
「ならば結構ですわ」
そして彼女は艶やかに微笑むと、いとも優雅な仕草でもってその場に腰を落とし、居住まいを正す。
そうしてから唐突に、予測もつかない方向へと爆弾発言を投げ込んでくれたのだった。
「――ところで、いつからそこにいらっしゃいましたの、主上?」
「へ……?」
その言葉を耳にした途端、一瞬にして頭の中が真っ白になる。
――いま……なんて言いました……?
私の聞き間違いでなければ……『主上』と、それは聞こえたような気がするけど。――いや、マサカ。
だって、尚侍ともあろうお方から、そう呼ばれる存在なんて……宮中広しとはいえど、それに該当する人物なんて、たったお一人しか思い当たらないではないか。
私の背筋を、すぅーっと冷たい何かが這い抜ける。
何故か恐ろしくて、にこにこと源尚侍が笑顔を向けている方向が、どうしても振り返れない。
「――んー、そうだねえ……『一生に一度の、お願いです』、あたりからかなあ?」
はいダメ押しキター!! ――と、そんな言葉が聞こえた途端、イヤな予感が確信に変わった。
となれば、もはや振り返らずに済ませられるはずもなく。
嫌々ながらも、重い身体を引き摺るようにして、その声の聞こえてきた方向へと姿勢を正す。
そこには、案の定……、
「これは主上……! いらっしゃっていたとは気付かず、とんだ失礼を」
「いや、気にするには及ばないよ弾正宮。君は姫のお守りにかかりきりだったのだから、気付かずとも仕方ない」
平伏する義兄の謝罪を笑っていなす、女房の捲り上げた御簾をくぐるようにしてこの場に入ってきた、その御方――畏れ多くもこの国の頂点に御座します尊き今上の帝のお姿が、そこに在った。
対する私は、まるで蛇に睨まれる蛙のように、その場で硬直して脂汗ダラダラ流しながら真っ青になってブルブル小刻みに震えていることしかできない。
「…やあ、とても元気そうだね二の姫」
極めて落ち着いた足取りでもって私の前に進み出てきた、その気配は、なのに一向に腰を落ち着けようとしない。
まさしく仁王立ちで、必死こいて目を逸らしている私を睥睨しているであろう、それがありありとうかがえて、更にぶわっと全身からイヤな汗が吹き出した。
「こっちは夜も眠れず死ぬほど心配していたというのに……もう相撲まで取る元気があるとは、驚いたねえ? 驚いたといえば、そんなはしたない格好を、いくら義兄とはいえ立派に成人した男性の前に晒していることも驚きだが、あまつさえ御簾も隔てず対面しているどころか抱きついたりまでしているなんて……おかしいなあ、そんな奇矯な振る舞いをする娘に育てた覚えは、コレッポッチも、無いんだけどねえ……?」
普段は必要最低限にしか口を開かないくせに……こうやって立て板に水の如く饒舌になるのは、父上が怒っている時の特徴であると、幼い頃より叱られ慣れている娘は、それをよく知っている。
そして、母上よりも乳母よりも、誰よりも最も怒らせてはならないのが、この父上だということも、よーくよーく、本当にこの身に染みてよーく―――。
「親の心子知らず、とは、よく言ったものだけど……そんな馬鹿娘には、どうやらお仕置きが必要かな……?」
その言葉を耳にした途端。
またもや袿を振り落す勢いで立ち上がった私は、立ち上がるや踵を返し脱兎のごとく逃げ出した――いや、逃げ出そうと、した、はずだった。
「――ハイ確保~」
駆け出そうとしたところで、ふいに現れた大きな影に行く手を塞がれ、ガッと強く両腕を掴まれる。
「…こンの、クソ中将ッッ!!」
「だめですねえ、姫宮さま。そういつもいつも同じパターンじゃ、捕まえるのもラクだったらありませんよー」
私を拘束したのは、例によって天敵、クソッタレ頭中将だった。
ぎりぎりと悔しさに唇を噛み締めた私を面白そうに見下ろして、おもむろにくるりと身体の向きを反転させてくる。
「それでは、主上より楽しいお説教のお時間でーす」
「楽しくないわ、このアホ中将ッッ!!」
「二の姫……? いくらこのアホ中将が相手だとしても、その言い様は、姫宮の振る舞いとして、無いんじゃないかな……?」
「――――っ!!?」
このクサレ中将に身体を反転させられた所為で、真正面から父上の全く目が笑っていないニッコリ笑顔を目の当たりとすることになってしまい……一瞬にして、全身を恐怖による怖気が駆け抜けた。
「…てゆーか主上まで、人のこと『アホ』言わないでくださいよ傷付くなあ」
「娘の寝所にまで押しかける男なんて殺されても当然だと肝に銘じておきなさい。――それとも、殺されたいのかな君は?」
「はーい、黙ってまーす。命は大事に。――というワケで、どうかわたくしの汚名返上のため、たっぷり主上に叱られてきてくださいね姫宮さまっ!」
「――こンの、どぐされ中将っっ……!!」
こうなったら、私も意地である。みすみす、この中将の手から父上に引き渡されてなるものかと、まさに窮鼠の決意でもって、すぐ背後の猫に噛み付いた。
「勝手なことばっか言ってんじゃねーわよっっ!!」
叫ぶや否や身体を屈め、渾身の力を籠めてヤツの顎へと頭突きをかます。
「うごふっ……!!?」
――ざまあみろ、私の石頭なめんな!!
昔から弟とケンカするたび磨かれてきた、勝負を決める最終兵器石頭である。年季の入りようが違うんだよバーカバーカ!
衝撃に怯んだのか、緩んでくれた手を振り払い、改めて脱兎のごとく私は駆け出す。
「こら、待ちなさい二の姫っ……!!」
背後から父の声が追いかけてくるも、それで足を止めるくらいだったら、最初から逃げ出したりなんてしていない。
とにかく一刻も早く、この麗景殿から逃げなくては。しかし、こうなってしまった以上、承香殿もだめだ。母上と乳母に見つかったら最後、、火に油を注ぐ結果にしかならない。また他の殿舎など、どこへ逃げたとしても、捜索されれば捕まるのは時間の問題。となれば、弟のところでほとぼりが冷めるまで匿ってもらうほか、もはやそれ以外の道はない。あのシスコンなら、私を父上に売り渡したりはしない――というか、絶対に売り渡そうなんて考えられないくらい、あの弟の弱みは、こちとら掃いて捨てるほど握っている。
よっしゃ目指すは東宮御所! ――と決めてしまえば、足取りに迷いはない。
近場の御簾を捲り上げて廂へと転がり出ると、そのまま簀子にまで躍り出るや、勾欄へと足を掛けた。――もはや、ちまちま渡殿なんて使っていられるか。地面に降りて、下から行ったほうが早い。
勢いのまま勾欄の上から地面へと飛び降りようとした、――まさにその瞬間のことだった。
「――えっ……!?」
ふいに強い力で肩を掴まれた――と思ったら、自分の身体が背後へと傾ぐ。
その拍子に勾欄を踏みしめていた足が外れ、床板へ叩き付けられる痛みと衝撃を覚悟し、咄嗟にぎゅっと強く目を瞑りつつ全身を縮こまらせて受け身をとる。
なのに……その衝撃は、いつまでたっても訪れなかった。
浮いた両足が下がって床板に付く感触を覚えると同時、強張った全身が、背後から何かに抱き込まれているような気がして……私は、おそるおそる、目を開く。
開けた視界の中で、私のお腹あたりを囲っている腕――それが纏っている袍の袖が、まず見えた。
袖の色が紫――ということは、この袍を纏っている人物が、三位以上の地位にあることがうかがえる。
「――本当に、あなたという人は……どこまでも無茶ばかりする姫君ですね」
ゾクリ――全身が粟立つ。
どくんと心臓が大きく跳ねた。安堵の吐息とともに耳もと近くから流れ込んできた、その声に。――忘れるはずもないくらい、聞き覚えのある、その低く優しく響く声、に。
気付いたと同時、小さく身体が震えた。
――な、ぜ……?
言葉に出せず、ただ唇が戦慄く。
――なぜ、あなたが、ここに、いるの……?
まるで軋む音でも聞こえてきそうなくらい、我ながら恐ろしく緩慢な動作でもって、ゆっくりと背後を振り返る。
そこに居たのは、良政だった。
私の記憶の中の彼と寸分違わぬ笑顔で、良政が私を、見下ろしていた―――。