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【玖】

 

 

 

 

「――ねえ、奈津(なつ)……?」

 粥を口へと運ぶ手を止めて、ついふっと我知らず、傍らに控えている彼女を呼んでいた。

 彼女の「はい、何でございましょう」という返事を待って、そのままボンヤリと問いかける。



「あなたは……実際に会ったの? ――三位中将(さんみのちゅうじょう)が寄越した使いの者に」



 案の定、聞くなり奈津は「は?」と、まさに奇妙なものでも見たような顔をした。

 ――そりゃそーよね。奈津は、これまでの私を知っているんだから。

 結婚話が持ち上がって以来、中将当人――というか、中将当人になりすました右大臣(うだいじん)家の者、とは、何度か(ふみ)のやりとりをしているが。それについて、私が興味を抱くことなど皆無だった。自分から文そのものを読もうとすることもなければ、それを届けに来た者はどんな者か尋ねることも無かった。

 文の使いなんてのは、大抵は(わらわ)か、いいとこ差出した当人付きの従者だろう。そんなもの、受け取る側が気に掛ける道理も無いのだが、だが一方、その使者の風体によっては主人の格も分かろうというものでもある。

 それすらも気に掛けようとせず、文そのものにさえ関心の一切を向けずにいた私の姿を、これまで幾度となく奈津は間近で見てきているのだ。

 ここへきてどういう心境の変化があったのかと、訝しんでも不思議じゃない。



「あの、使いの者…です、か……? 三位中将さまご本人、では、なく……?」



 何も知らない奈津としては、なぜ私が当人を素通りさせてまでまず使いの者を気に掛けるのかが、どうにも分からないのに違いない。

 とはいえ、今回のことで、あんなに乗り気じゃなかった私にも結婚相手に対する興味が幾ばくかでも湧いてきたのでは、とでも考えたのか。

 返ってきた返答は、まさに“恐る恐る”といった躊躇いがちな問い。

 だから私も再び、はっきりと答えを返した。



「そうよ。三位中将本人じゃなくて、私のことを知らせに来てくれた、使いの者の方」



 だって今回は、いつもの文の使いじゃない。

 右大臣の差し金によるものではなく、おそらくは中将本人の采配によるお使者。

 極秘裏に事を進めなければならないのなら……秘密を共有するに相応しい、気心の知れた腹心の部下を、使わしてきたのではないだろうか。



 ひょっとしたら、それが良政(よしまさ)なのではないか、と……なんとなく頭のスミに引っかかって仕方なくて―――。



「――いえ…残念ながら」

 あまりにもきっぱりとした私の返答に、奈津も訝しがるのをやめてくれたようだ。

 普段どおりの彼女のハキハキとした口調で、やはりきっぱりとした返答を返してくれる。

「そのお使者には、わたくしは会ってはおりませんわ。一昨日の夜までは、まだ臥せっておりましたので……」

「ああ、そうね。そうだったわね……」

 そうだった。奈津が仕事に復帰したのは昨日からだと聞いたっけ。

「本当にごめんなさい。病み上がりのあなたに、とんだ面倒をかけてしまったわ」

「いいえ、滅相もございませんわ。わたくしの方こそ、倒れている場合ではございませんでしたのに……」

 奈津もきっと、目が覚めたら私がいなくなったと聞かされ、驚くよりも先に自分を責めたに違いない。自分が臥せっていなければ、と。

 それゆえに、(やまい)を押して早々に起き上がってくれたのだろう。私を心配してくれたために。

 思うだに、申し訳なさで一杯になってくる。

「そんなことないわ。あなたが気に掛けることは全く無いのよ、奈津。今回のことは全面的に私が悪かったのだもの。こんな大事になっちゃうとは思いもしなくて……深く考えずに行動した、軽率に過ぎる己が悔やまれる限りだわ」

「姫さまが、そこまで深く反省なさっていらっしゃるのでしたら、それが何よりの学びですわ。以後、同じ轍は踏まねばよろしいだけのことです。今はそれだけで充分にございますわ」

 そして「さあさ、冷めないうちにお食べあそばして」と微笑んだ彼女に、再び「本当にごめんなさい」と告げてから。

 ようやく私は、止めていた手を動かし始めた。

「――それはそうと……」

 私の口へ順調に(さじ)が運ばれていくのを見届けてホッと息を洩らすと、まさに思い出したかのように、おもむろに奈津が、それを切り出す。

「わたくしの代わりに、母が会っておりますわ」

「え……?」

「三位中将さまよりのお使者に、です」

「――――!!?」

 驚いて、思わず口の中に入っていた全部を一気に飲み下してしまった。

 むせ返りそうになるのを何とか(こら)え、言った奈津を、ゆっくりと振り返る。

「奈津、今……」

「はい」

「今、何て言ったの……?」

「はい、ですから……臥せっていたわたくしの代わりに、お使者との応対に出てくれたのが、母なのですわ」



 彼女が語ってくれたことによると―――。

 あの日、命婦(みょうぶ)は奈津が臥せっていることを耳にし、また私がお目付け役の目がないのをいいことに何事か騒ぎなど起こしていないか、それによって様々に差し障りが出ていないか、心配になったようで。

 夕刻には少し早い時間に、わざわざ麗景殿(こちら)へ渡ってくれたのだそうだ。

 すると案の定、予想に違わず、私は普段の居室にはおらず。

 女房の言によれば奈津に付き添っているというので、半信半疑ながら、そのまま彼女の(つぼね)へ様子をうかがいに行き……そして、私の残した書き置きを見つけてしまったらしい。

 しかし、やはりそこはさすがに命婦のこと。慌てず騒がず、とりあえず承香殿(しょうきょうでん)の母上にはコッソリ文を届けて報告だけは入れてはおき、自身はその場で腰を落ち着けると、奈津が目を覚ますのを看病しながら待っていたという。

 それから間も無く奈津が目を覚ましたので、枕元で事情を説明していた、――ちょうどその時のこと、だったらしい。

 三位中将よりのお使者が来たのは。



言伝(ことづて)を運んできた者より、三位中将さまよりのお文が届いた、と聞きましたので、またいつもの姫さま宛の恋文が届いたのかと思ったのですわ。ですがわたくし、今の今まで臥せっておりましたから身支度が整っておりませんでしょう? ですから、その者に代わりに受け取っておくように申し付けましたの。ところが、そのお使者は普段の文使いの者と違って、わたくしに(じか)対面(たいめ)したうえでなければ渡せぬ、と、頑として譲らなかったようで……それで母が、わたくしの代わりに応対に出てくれたのですわ」

「じゃあ、やっぱり……! いつもと違う者が届けに来たのね……!」

「ええ、そのようですわ」

 思わずドクッと、胸の鼓動が高く鳴く。

「ですから、さすがに少々怪しくも思われまして。もしかしたら、三位中将の名を騙った別人の差し金かもしれませんでしょう? それで、あの母に見極めて貰うのが最も的確かと」

「じゃ…じゃあ、っていうことは……! そのお使者は、命婦が、間違いなく中将の使いだ、って認めたのね?」

「左様ですわ。母が言うには、確かに蔵人所(くろうどどころ)で見かけたことのある顔だったと」

「蔵人所!? なら、そのお使者は蔵人(くろうど)だってこと!?」

「さあ、そこまでは……」

 申し訳なさそうな彼女の返答に、私も、乗り出しかけていた身を元の位置に戻す。

 ――そうよね……彼は、宮中には勤めていないって、言ってたような気がするもの……。

 昂ぶりかけていた気持ちが、少し沈む。

「ですが、それを聞いて、わたくしにも思い当たることがございましたの」

 だが、そのまま続けられた次の言葉で、沈みかけた気持ちが一気にまた昂ぶった。



「そういえば最近、右大臣と三位中将、ご両名様のご推挙があって取り立てられたという、六位の新蔵人がおりましたわ。その者が確か、もともと右大臣家に仕える家人で、三位中将さまとは乳兄弟(ちきょうだい)にあたる者ではなかったかと……」



 ―――やっぱり……!!



 咄嗟にビクッと、大きく一つ、全身が震えた。

 その拍子に、思わず手の匙を取り落としていた。

 途端、再び鼓動がどくどく大きく高鳴り出す。その興奮で、手まで震えてくる。

 気持ちだけが逸り、呼吸が上手く出来ない。

 それでも必死に、震える唇が、何とかその言葉だけは紡ぎ出す。



「その者の、名、は……!?」



「――うら若き妙齢の女人(にょにん)が二人、寝所で(おのこ)の噂話とは……なかなかに艶めかしい光景ですね」



 そこでふいに、会話に割り込むかの如く響いてきた第三の声――明らかに殿方のものである低い声に、私たちは揃って弾かれたように振り返った。

 誰!? ――などと問うまでもない、その声で分かる。

 振り返ると同時、その声の主を認識するよりも先に、私の表情は一気に顰めっ面に変わっていた。

 そんな不愉快さを前面に押し出した表情を隠そうともせずに、私はその声の主――母屋(もや)(ひさし)とを隔てている御簾(みす)の向こう側に立っていた男の影を、憎々しげに睨み付ける。



「出たわね、――この、どぐされ中将ッッ!!」



 そこに立っていたのは……蔵人頭(くろうどのとう)の一人である頭中将(とうのちゅうじょう)――と書いて『私の天敵』と読む。



 そいつは私の言い草や形相など何のその、スルリと御簾の隙間から断りも無く入ってくると。

 おもむろにニッコリ微笑み、そして人の顔を見るたび言う常套句を、この場にあって尚、いけしゃーしゃーと口にする。

「ご機嫌うるわしゅう、姫宮さま」

「――うるわしいハズなんざ、あるかーーーーッッ!!」

 どこの世界に、寝所で夜着のまま粥すすってる最中に訪問されて喜ぶ姫がいるんだよ、っつーのッッ!

 それが分かっていないハズもないだろうに、「おやおや、今日はまた一段とご機嫌斜めでいらっしゃいますねえ?」なんて。相変わらず人をおちょくってるような楽しげな笑みを湛え、またしてもいけしゃーしゃーと、それを言う。

 いつもいつもいつもいつも……! 本当につくづく心の底から本気でシミジミ思うんだけどっ!

 コイツは人をおちょくって遊ぶことが生きがいなのではないだろうか、と。

 それくらい、コイツのこの人を食ったような笑顔には、全くもって腹が立つったら!

「だいたい、なんでアンタがココに居るのよ!!」

「『なんで』も何も……いつもの御座(おまし)にいらっしゃられなかったので、こちらかな、と思いまして」

「『こちら』だと察した時点で、来るのは遠慮しなさいよっ! ――つか、そもそも麗景殿(ウチ)の女房は何してるの! なんでこんなヤツ、アタシの断りもなく通してんの!? てか、そこにいるのが何でアンタ一人なの!!? 先達の者はどうしたのよ!!?」

「いやなに、これでもわたくし職務柄、自慢ではありませんが御殿の構造に明るいものですから。勝手も知ったる麗景殿(れいけいでん)、そのわたくしに誰の先導などいりましょう」

「――こんの、クソ中将ッッ……!!」

 大人しく黙ってれば調子に乗りやがって…! と、聞いてるうちにフツフツと更なる怒りが湧き上がってくる。

 つまり、コイツは堂々と住居不法侵入してきやがったのだ、と。またもや、いけしゃーしゃーと、告白してくれたワケだ。――そんな常識以前の無礼な行為、得意満面げに言うんじゃねーよコノヤロウッッ……!!

「通されもしないのに勝手に入って来んなーーーーーッッ!!」

「おや、また人聞きの悪いことを。ちゃんと断りを入れて通していただきましたよ。案内しようとしてくれたのを断っただけですってば」

「そこで先触れまで断ったのなら同じことでしょうが! コッチの許可も得ずに入り込んできといて、なにを堂々と『通していただいた』だなんて、どの口でそれを言うか!」

「いやだなあ、姫宮さまとわたくしの間で、そんな水くさいこと言いっこなしですよっ★」

「ふざけんな! そんな間に何かがあってたまるか、っつの! 『水くさい』どころか、そこには冷たい水いっぱいの深くて広い万里の溝しか差し挟まれる余地がないってことに、いいかげん気付きなさいよこの馬鹿男ーーーーーッッ!!」

 ――やばい、怒鳴り過ぎて眩暈がしてきた。

 なんでこんな常識破りの無礼者が、よりにもよって、殿上の一切を取り仕切る“蔵人頭”なんて要職に就いていやがるのかしら。

 …って、そんなのお家柄が良いからに決まってるんだけどさっ。



 頭中将たる左近衛中将(さこんえのちゅうじょう)隆之(たかゆき)さま――といったらば。

 その名前、いかに宮中広しとはいえ知らぬ者など居ないだろう。

 今を時めく朝廷の最高権力者である左大臣(さだいじん)の嫡子であり、祖父は(さき)太政大臣(だいじょうだいじん)、かつ、実の母君はご降嫁(こうか)された(さき)の帝の皇女(ひめみこ)、なんていう、皇家と摂関家のハイブリッド、この上もない優良血統の持ち主であることに加え。

 更には、娘婿、という立場で、右大臣(うだいじん)内大臣(ないだいじん)にまで強力な縁故を持つ男、でもあったりする。

 そのような来歴に加え、また当人自身も有能だと専らの評判だ。

 如何にもお坊ちゃま然とした穏やかな佇まいと常に湛えられた人好きのする笑み、それが相手の警戒心を簡単に解いてしまうのか、ヤツお得意の詐欺くさすぎる――もとい、機知に富んだ明朗闊達な話術によって、心を鷲掴みされてしまう者多数。昨日の敵を今日は味方に付けながら、宮中で着々と人脈と云う名の信奉者を増やすことに成功している。

 更に云えば、そこに持ち前の容色の良さも手伝って、転ばされた女人は星の数ほど。食われた女人の数だって、おそらくそれに引けを取らないだろう。

 まさしく彼こそ、いま最も注目を集める出世頭№1若公達(わかきんだち)、と言っても、間違いなく過言ではない。

 女房たちの噂話によれば、この頭中将と(くだん)の三位中将とが、共に同年代ということもあってか『左近(さこん)の桜、右近(うこん)(たちばな)』などと称され、なにかっちゅーと好敵手として引き合いに出されては、挙句、宮中の女たちの人気をパッキリ二分してまで、いるのだそうである。



 ――というコッチの“片割れ”を、こう既に見知っちゃっているワケなんだから。

 会ったこともない“もう一方”にだって、いくら結婚相手になるとはいえ、良い印象なんて持てないのも無理なからぬ話だと思わない!?



「…もうそのくらいになされませ、姫さま」

 思わず頭を抱えた私の、ぜえぜえと息が弾むあまり上下する両肩に、奈津が言いながらそっと(うちぎ)を打ち掛けてくれる。

「それに、頭中将さまも」

 それから改めて、姿勢を正すと彼女は頭中将へと向き直った。

「いかに殿上(でんじょう)(かなめ)たる夕郎貫首(せきろうかんず)の君であろうと、畏れ多くも姫宮のご寝所へ無断で踏み入るなどというお振る舞い、無礼にも過ぎましょう」

 普段は誰に対しても人当たりの良い彼女なのに、今その表情と声は、あからさまなくらい棘を含んで険しい。――それもそのはず。

 この頭中将こそ、シツコイくらい奈津に言い寄りまくってくる、奈津にとっての迷惑男番付堂々第一位に輝いちゃう存在、なのだから。

 そこに加えて、こんな堂々と非常識な振る舞いまでされた日には……そりゃ険しくもなるだろう。奈津じゃなくたって誰だって。

 当世、高貴な女人たる者、余人に姿を見せないのが常識である。特に、妙齢ならば尚のこと。

 未婚の姫君が殿方に顔を晒す、ということは、つまり相手を家族同然とみなすに等しく、ひいては“あなたとの結婚OKよ”って言ってるに同じ、とも取られかねない。それくらい重大な忌み事なのである。

 であるからして、姫君たるもの、(やしき)に籠もっていても常に御簾の内側にいて、常に誰かから“見られること”を警戒していなければいけない。たとえ血の繋がった家族であろうと、直の対面は避けるものだ。

 だから当然、就寝するときも然り、だ。

 果敢に垣間見(かいまみ)にくる求婚者や夜這いに忍んでくる不届き者を多少なりとも阻むためにも、姫君の休む寝所には、目隠しとして御簾を下げたり几帳(きちょう)衝立(ついたて)を立てたりして、外から寝姿が見えないような工夫を施しているのが当然、てもの。

 ゆえに、私の寝所も例に洩れず、やはり普段から帳台を几帳で囲んであるのだが……しかし、よりにもよって今に限って、それが無かった。

 夏の暑さに嫌気が差してダダをこねた私のワガママを、病み上がりだからと大目にみてくれた奈津が聞き入れてくれ、風通しをよくするため几帳だけは取り払ってもらっていたのだ。

 ――だってマサカ、こんな宮中のド真ん中にあって、しかもこんなに日の高い真っ昼間から、そんな常識破りがいるとは誰も思わないじゃない!!?

 そう油断した落ち度がコチラにも無かったとは、決して言い切れはしないものの……とはいえ、どーう考えても、誰が見ても、あからさまに無礼ぶっこいているのは頭中将の方である。

「姫さまがお怒りになるのも尤もなことですわ。今ご自分がどのようなお振る舞いをなされたのか、よくお考え下さいませ。斯様な真似は、以後お控えくださりますよう」

 この温厚な奈津に、ここまでトゲトゲ言われてしまうほどにお株を下げたヤツを同情する余地など、コレッポッチのカケラすら全く無い。

 だが、それでもメゲないこの迷惑男は、「やあ、会いたかったよ小命婦(こみょうぶ)、いつ見ても相変わらず美しいね」なんて、またチャランポランな挨拶を返してくる。

 …もちろん、そこは奈津も慣れたもの、聞かなかったことにされアッサリ右から左へと流された。

「すぐに几帳を用意いたしますわ。場が整うまで、しばらく黙ってお待ちになっていてくださいます?」

「まったく…君のその“二の姫、命!”っぷりも相変わらずだね小命婦。その愛情のひとカケラだけでも、たまには僕の方へ向けてくれたっていいのではないかい?」

「そのようなこと、わたくしの仕事のうちにございませんわ」

 ヤツが呼ぶ『小命婦』という名は、母君の『頭命婦』の名にあやかった奈津の女房名だ。宮中での彼女は、この名で罷り通っている。だから私も、今や彼女を『奈津』と呼ぶのはごく内輪だけのことで、人前や(おおやけ)の場では『小命婦』と呼んでいる。

 ――なので、今も然り。

 おもむろに「小命婦!」と声を張り上げ、私の座した帳台と中将との間に几帳を整え始めた奈津の手を止めた。

「そんなもの用意する必要は無いわ、この無礼者を追い出せば済むことだもの!」

「そうは言いましても姫さま、これでも一応は頭中将にあられる御方でございますよ? ここにいらっしゃるご用と云えば、おおかた主上からのお使い事でございましょう? 用向きも聞かずに追い出したとあらば、後々厄介でございましてよ?」

「つか、そもそも『これでも一応は頭中将にあられる御方』とやらが、仮にも皇女(ひめみこ)の寝所に、通されもしないのに居るハズがないでしょう! 追い出したところで、『後が厄介』なのはお互い様よ! 主上の用聞きも満足に出来ない無能者と、誹られて懲りたらいいのよ少しくらい!」

「――って、仮にも当人を目の前にして、『これでも』とか『一応は』とか、よくそこまで言えますねあなたがた……」

 傷付くなあ…なんて、わざとらし過ぎるくらいの素振りで悲しい表情を作っては胸を押さえて項垂れてみせる、――そんな野郎のことなんざ無視無視ガン無視、あくまでも無視ッ!

「さ、頭中将のお帰りよッ! 誰ぞ呼んでお見送りしてさしあげて小命婦っ!」

「仕方がありませんわね。では誰ぞ―――」

「…わかりました。そこまで仰られるなら仕方ない、わたくしめは退散いたします」

 ようやっと頭中将が諸手を挙げて降参する。

「仰る通り、確かにわたくしは主上の御使いとしてこちらに参りました。――昨晩、承香殿さまより内々に二の姫宮さまがお倒れになられた旨の報せを受けられた(よし)、主上は(いた)くご心痛であらせられます。すぐに御自身で駆け付けたい御心持ちあれど、まさに政務の立て込んでいる折にて、それも叶わず。そこでわたくしが代わって姫宮さまのご様子を伺いに参りました次第にございます」

「…じゃ、アンタが来た所為で病状が更に悪化した、って言っておきなさい!」

「心得ております。主上には、二の姫宮さまにはコレッポッチも(やまい)の影あらず、いたって元気で粥も三杯ほど平らげられていらっしゃったと、責任もって奏上たてまつりましょう」

「――どんな都合のいい耳してんのよアンタ……!」

 そのキラキラしいまでに満面笑顔での言い草には、もはや怒る気も失せる、ってもの。

 しかし、母上からどんな報告がいったのかは分からないけど、この通り私は病でも何でもなく元気なことには違いないし、誤報で父上に心配をおかけするわけにはいかない。頭中将が見たとおりを報告してくれるなら、それはそれで父上も安心してくださるだろう。だって、私とコイツが犬猿の仲、会えば常にこんなようなカンジだってことを、父上も重々ご承知でいらっしゃるんだから。

 このアホ中将相手に私がいつもの通りだったと分かれば、ご心配など跡形も無く吹き飛ぶこと間違いなしだ。――が、確実に眉根を寄せて盛大にタメ息は吐かれるだろうけれどもね。…それもいつものことである。

 だから、もういいかげん面倒くさくなって「じゃあそれでいいから、ちゃんと『何でもありません』って報告しておいて」と、いかにも“しっしっ”と犬猫でも追い払うような仕草で手を振りソッポを向くと、改めて深い深いタメ息を吐く。

「私が元気なのは見た通りでしょ。くれぐれも父上には、これ以上ご心配をおかけすることないよう、上手くお伝えするように」

「心得ましてございます」

「じゃ、これで用は済んだわね。今度こそサッサと退散してちょうだい!」

「ですが、ひとつ最後に―――」

「何よ? まだ何か用?」

 そこで、まさに“鬱陶しい”と表情にありありと書き込んで振り返った私を見下ろして、やはり普段の通り人を食ったような笑みを浮かべながら…しかしどことなく普段以上に面白がっている風な雰囲気も漂わせつつ、相変わらずのいけしゃーしゃーとした口振りで、頭中将は続けた。



「先ほどお二人がお噂されていた男の件、少々気になりまして―――」



 クッ…と、思わず息が詰まったように、喉の奥が小さく鳴った。

「最近、右大臣と三位中将の推挙があって六位の新蔵人に取り立てられた、もともと右大臣家に仕える家人で、三位中将とは乳兄弟にあたる者、――そう、仰られておりましたね?」

 ――そう、そうよ……この頭中将こそ、蔵人所を采配する実質的な長なのだから。コイツが知らないワケが無い。

 軽く唇を噛んで俯いた。

 知りたい……でも、知りたくない……知るのが怖い―――。

 内心で相反する二つの気持ちが鬩ぎ合う。心臓が再び、どくどくと大きく鼓動を打ち始める。

 そんな私を知ってか知らずか、彼は続けた。それこそ何事でもないような口調で。



「――それ、良政のことでしょう?」



 ――― や っ ぱ り ……!!



 想像が現実だと判明してしまった、その瞬間。――ひときわ大きく、心臓が鳴いた。

 どくりと全身が震えたと同時、視界が歪む。

「…ああ、そうでしたわね。確かに、そのような名でしたわ」

 いま思い出した、ようやっと思い当たった、という風な奈津の相槌が、隣に居るのに、なぜか遠くから聞こえるような気がする。

 耳の奥で、良政の名だけが、ぐるぐると巡っていた。

 まさに閃くように眼裏に浮かんでは消える、彼の姿。――出会った時の彼、困った風な彼、優しく笑みを浮かべた彼……そして血に染まった彼。

 浮かんでは消えていく幻に翻弄されて、現実の景色が揺らいでいく。

 堪えきれず、私は床に片手を突いて身体を支えた。

「姫さま……?」

 それを目にしたのか奈津が、訝しげな口調で、私を呼ぶ。

「どうなされましたの、姫さま?」

「姫宮さま?」

 気遣わしげな奈津の声に被さるように、頭中将の戸惑ったような声が響いてくる。

 ――ぐちゃぐちゃな頭が、掻き回される……。



 その瞬間、再び眼裏(まなうら)にありありと浮かび上がる緋色の幻影。――美しい鬼の姿。



 ああ…そうだ、あれはやはり鬼だったのだ。

 人とは交じり合えぬはずの幻だったのだ。

 だから、あんなにまでも恐ろしく、そして凄絶なまでに美しかったのだ。



 そのようなものが……(しか)と血肉を伴った“人”として存在しているはずなんて、ありえるはずがないのよ―――。



 やおら身体を支えている手に力が入らなくなって、全身がグラリと前に傾ぐのが分かった。

「姫さま!!」

「姫宮さま!?」

 二人の呼ぶ声が、まるで悲鳴のように耳を(つんざ)く。

 だが私には、もう何も聞こえない。

 もう何も見えない。――愛しくも怖ろしい、あの人の姿だけしか。

 あの鬼の幻影が思考を奪い、そして心ごと私を縛り付ける。



 何度拭おうとも消えない幻に翻弄されて……今度こそ本当に、私の意識は暗闇の中に落ちていった。





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