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07 Show Me Your Height

 小さな雑居ビルの一階部分はカフェに、二階部分はレストランになっていた。時間も時間であるので人の姿はなく、中は暗い。

 相田はよろめく戒斗を支えて二階へと進む。指定された場所は二階レストランの奥、予約専用の個室だ。初めて訪れる場所であるので辺りをきょろきょろと見回していると、暗闇の濃い箇所から四角く光が漏れた。


「お、来たな。こっちだ」


 ドアを開けて、網屋が手招きしている。


「先輩、お待たせしました」

「何言ってんだお前、予想より三十分以上早く着いてる」


 網屋がするりと身を引いて、二人を部屋の中へ誘導した。中にはテーブルがひとつ、椅子が二つ。

 片方の椅子には見知らぬ女が座っていた。女の背後に塩野と遥。女の護衛みたいだ、と相田は的外れな感想を抱いた。だが、女の怯えきった表情に気付き考えを改める。ありゃ、死刑囚の後ろにいる執行人ってやつだ。


「相田君、おつかれー。戒斗君もよく頑張ったね」


 塩野が口を開くと、座っている女はあからさまに怯える。そんな様子に一瞥をくれ、塩野は笑う。


「戒斗君、そっちの椅子に座って座って。さて、それじゃあ早速おっぱじめよっか。あー、違うか。どっちかってーと、終わらせる方だった」


 戒斗はゆっくりと椅子に座り、女を真正面から見据えた。少し怯えたような顔を見て、女は哀しみを浮かべる。


「準備はいいね。じゃあ、会話を『完結』させてもらえるかな」


 塩野の指示にうなずく女。渋々と言った体だ。しかし逆らうことなどできない訳で、彼女の取る道は一つしかありえない。

 女が姿勢を正すと、途端に表情が切り替わった。慈愛に満ちた聖母のような顔付き。別人ではないかと思ってしまうほどだ。戒斗も相田も目を見張った。ふわりと微笑む様はまるで母親。いや、実際の母親なんてものはもっと違うのだが、表情から感じ取れるものはただ「母性」としか言いようのないもの。それ以外の認識を拒む、圧倒的かつ一方的な情報。風を風だと、空を空だと認識するのと同じように、それはそれでしかない。そう思わせる、何か。

 相田はぞっとした。塩野先生はいつもこんなのを相手にし、こんなことをやっているのか。


「……戒斗」


 優しい声。強張っていた戒斗の体が少し、緩む。


「全部、食べちゃっていいのよ。だって、貴方は……」


 言い淀み、目を逸らす。逸らした視界の片隅には塩野がいて、ひどく冷酷な視線をぶつけていた。女の中に恐怖が膨れ上がり、視線を戻す。やけに乾燥した唇を引き剥がすように開き、言葉を紡ぐ。


「貴方はもう、立派な……立派な、一人前なんだから」


 言葉が耳に入った瞬間、戒斗の中で何かが音を立てて「外れた」。


 気が付いた時には女を蹴り飛ばしていた。床を転がる女が身を起こすより速く、テーブル上の鞄に手を突っ込みミネベア・シグを取り出す。放たれる9mmパラベラム弾が女の右足を掠め、床を抉った。


「ツケは耳揃えて払って貰うぞ、腐れアマが!」


 女は悲鳴を上げることもできず、死の恐怖に涙を流す。それが余計に「元に戻った」戒斗を苛立たせた。

 銃声が二回。だが、女の命を奪うには至らなかった。片方は威嚇、もう片方は右足を軽く抉る程度に留まる。

 当然、女を殺すことは容易だ。精神を弄ばれた怒りと不快感が後押しして、今すぐにでも全弾ブチ込んでやりたい衝動がある。だが、戒斗にはそれができなかった。


 背後にいる相田が、思わず身を強張らせたのが分かったからだ。


 前に網屋が言っていた言葉を思い出す。

 あいつの前では、見せないようにしているんだ。直に触れられる範囲での死を、紛うことなき殺人の現場を。あいつをこちら側へ、引きずり込みたくはないから。


 ひとつ舌打ちして、デコッキングレバーを下げる。ハンマーが元の位置に戻った。だからと言って憎悪が消え去ったわけではない。


「……チッ、興醒めだぜ」


 心底忌々しそうに吐き出す。


「命拾いしやがって。雅之に感謝しやがれよ、尻軽ババアが」


 女は咳き込みながら嗚咽し、崩れ落ちる。そんなザマを見ながら軽く溜息をついて、戒斗はついいつもの癖で銃をしまおうとし、ショルダーホルスターを着けていないことに気が付いた。はは、と力の抜けた笑いが漏れる。

 ようやく終わったのだと、実感が湧いた。おぞましい何かに絡め取られ、身動きが取れない苦痛が終わったのだ。


 力が抜けると当時に、何かが胸の中に飛び込んできた。覚えのあるこの感じ、遥だ。遥が胸元にすがりつき、こちらを見上げている。


「おかえりなさい、戒斗」

「……随分と、世話かけちまったな」


 一瞬、遥の目尻に何かが光る。すぐに遥は胸元に顔を埋めてしまったので、その光が何であるのか見ることはできなかった。しかし細い肩は震えていて、そいつの正体はすぐに分かってしまう。

 そっと、頭を撫でた。愛おしむように、そっと、そっと。


「悪りぃ、要らん心配掛けちまったな」


 遥は小さく横に首を振って、それでも、背中に回した手は強く裾を掴む。何も言えなくなって、戒斗はただ黙ったまま遥を抱きしめた。



「ああ……」


 思わず、相田の口から呻きが漏れる。地を這うような呻き声だ。


「言うな、何も言うなよ相田……」


 言葉は真っ当だが、網屋もほとんど同じようなものである。目の毒だ。猛毒だ。戒斗と遥の心情が手に取るように分かるだけに尚更、「モテナイ村の住人」にとっては火炙りにされるような光景であった。

 だが、そこに茶々を入れるほど野暮ではない。あの二人がこうやって抱きしめあえるように、と思ってここまできたのだから、望むべき当然の結果なのだ。


 相田と網屋は顔を見合わせ、苦笑しつつ肩をすくめた。網屋に「お疲れ」と背中を叩かれ、相田も「先輩こそ」と返す。


「さーてさてさて! 感動のラストシーンを邪魔して悪いんだけど、ちょーっといいかな?」


 塩野の声が場を破る。


「この人の処遇だけどさ、どうする?」


 塩野が指差すのは下。未だに倒れ伏したままの女。その場にいる全員の視線が彼女に集まって、女はより小さくなる。

 遥を離した戒斗はしみじみと女の顔を見つめ、憎悪と侮蔑に満ちた顔で告げた。


「さて、どうしたもんか……。本音を言っちまえば、全身少しずつ輪切りにして東京湾に沈めるぐらいのことはしてやりてーんだがな」


 本音であることは嫌でも分かる。しかし、戒斗は溜息とともにその憎悪をかなぐり捨てた。


「俺ぁテメーみたく趣味は悪かねーし、それ以前にテメーに付き合う暇もねーよ。後は煮るなり焼くなり、お好きにどうぞって感じだ」


 その返答に、塩野は満足気な笑みを浮かべる。


「んじゃ、僕が処理しちゃうね。いいかな?」

「あーはいはい、頼むわ。関わるのもめんどくせー」


 処理、という言葉を聞いて逃げようとする女。だがもう遅い。塩野の声が届く範囲にいる限り、いや、塩野の声を既に聞いてしまったのなら、もう逃れることなど不可能なのだ。逃げるならせめて、耳を塞げばよかった。が、女はそれをしなかった。とうの昔に操作されていたからだ。


 捕獲からの移動、さらに遥が屋上で狙撃している間に、塩野は可能な限り「地雷」を埋め込んでいた。過去を、深層心理を、トラウマを、人格形成に関わる根源的な出来事を、何もかも全て暴いて、幾重にも仕掛ける「言語地雷」。あとはただ、踏んでやるだけ。


「……パパも、ママも……君を許さないってさ。もう子守唄なんて、誰も歌っちゃくれないよ」


 大きな声ではなかった。ドアにまでよろめきつつ何とかたどり着いた女の耳に、塩野の言葉は何の障害もなく滑りこむ。

 ドアノブに掛けた手が震えだす。立ち上がろうとした足が崩折れる。


「い、いや……いやぁ……」


 歳相応ではなく、まるで何か怖ろしい物でも見せられた子供のように頭を振る。綺麗にセットした長い髪が振り乱され、さらに両手で掻き毟って何本も抜ける。


「ごめ、ごめんなさい、ヒッ……なさい、ごめんなさい、ごめんなさい……ああああああ!」


 整えられたネイルが顔を傷つける。口にする言葉は謝罪だが、表情は恐怖に塗り潰されていた。冷徹な瞳で見つめる塩野。それなのに浮かべるのは柔らかい笑みなのだ。


「安心して、完全に発狂なんてさせないからさ。狂気の安寧の中に浸かろうなんて、そんな甘っちょろいことぉ、この僕が許すわけないでしょ?」


 哀れみなのかもしれない。塩野が解体する相手に抱く感情は、憐憫なのかもしれない。この人だけは敵に回したくない、と誰もが強烈に思う。


「……ああ、そういえばアレ、アレ外しておかなくっちゃ。アレアレ」


 塩野の気配が通常に戻って、ようやく緊張が解ける。息を詰めていた網屋がふうと息をついて、アレと連呼する塩野に「アレですね」と返した。


「悪りぃ戦部、ちょっと靴脱いでくれや」

「はあ? なんでまた靴」

「いいのいいの。ちなみに両方な」

「両方? ったく……しゃーねえ」


 言われて渋々脱いだコンバットブーツを手に取ると、網屋は隅々まで検分を始めた。靴紐の辺りを凝視すると、「あった」と一言。隙間からつまみ出したのは小型の発信機であった。


「迷子札、だとよ」


 床に転がして踏み潰す。都内に入ってから追撃が始まったのは、これによって位置が割れていたからだ。丁寧に靴底ですり潰して、忌々しそうに吐き出した。


「おお、怖い怖い。子供への過干渉、或いは過保護って奴かね。……んなことせんでも、コイツが迷うタマかよ」





 外に出ると、海風が吹き付けてくる。寒さに少し震えて、相田は上着をかき寄せた。

 建物の前に停めたままの愛車。かなり無理をさせてしまった、後で色々と面倒を見てやらねばなるまい。ホコリまみれになった車体をそっと撫でると、隣に誰かが立つ。


「悪りぃな、色々と」


 戒斗だ。顔付きはすっかり元通りで、相田は安堵の息をついた。やはり彼はこうでなくてはならない。自分よりも歳上なのではないかと錯覚してしまうほど大人びた、精悍な顔。


「そんな、気にしないでよ」

「何にせよ、助かったぜ雅之……あっ、やべえ」


 思わず呼んだ下の名に、戒斗はバツの悪そうな表情を浮かべた。普段からタメ口を利いてはいたが、それでも呼称だけは「相田さん」と呼んでいたのだ。幼児化していた時の記憶が無くなった訳ではない、むしろはっきりと残ってしまっているが故の影響であった。


「別にいいよ、雅之で。なまじ俺も慣れちゃったし、こっちもこれからは戒斗って呼ばせてもらうからさ」

「……へいへい、俺の負けだ。好きにしなよ」


 返事をしていたずらっぽく笑う戒斗は少しだけ、幼い。先程まで掛けられていた枷の影響が抜けきっていないのかもしれない。

 二度と、あんなのはゴメンだけどさ。


 相田は片手で拳を作ると、顔の横に掲げてみせる。戒斗にも同じように無言で促すと、掲げた拳同士を軽くぶつけた。


「次こそ、もうちょいマシな方が良いがね」

「おっと、安全運転しかしないよ?」

「嘘こけ」


 叩き合う減らず口。堪え切れず吹き出し、二人は腹を抱えて笑った。




 こうして、「黒の執行者」こと戦部戒斗に訪れた厄介事は一つ、終わりを告げた。

 しかし、それは氷山の一角に過ぎない。その全容が姿を表すのは後の話、また別の物語である。

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