06 戒斗と雅之
聞き覚えのある音だった。日常生活では耳にすることのない、重い独特の金属音。ちらりと横目で戒斗を見て血の気が引いた。その手に、彼の得物であるミネベア・シグが握られていた。
昼間の一件が頭をよぎる。真実へと肉薄する、その瞬間。
今は、今だけはそれを避けなければならない。だがそれは建前で、相田の本音はもっと別のところにあった。至極単純なものだ。
「幼い戒斗」に、そこまでさせるのは忍びない。無理はさせたくない。
「大人」を気取る立場のチンケな見栄かも知れないが、相田はそこまで分かった上でそれを貫きたかったのだ。大人など名乗れる立場ではないし、元来の戒斗と比べたって自分の方が幼い気もする。それでも、だ。
「戒斗。今からこの車、すごく速く走るから、怖かったら目をつぶってて」
不用意に怖がらせたくはない。大人でも慣れていなければ恐怖を感じる速度まで持ってゆくのだから。そう思って放った言葉だったが、返ってきたのは予想外の言葉。
「……ううん、おれ、ぜんぶみてるから。まさゆきががんばってるとこ、ちゃんとみてるから」
黒い鞄を抱き枕のように抱えて、戒斗はまっすぐ相田を見ていた。そんな戒斗と目が合って、自分でも後から驚いたのだが……相田は、笑っていた。どんな顔で笑っていたかは分からない。気が随分楽になったのは確かだった。
要は、全員千切ればいいってことだ。
警察に捕まったらどうしよう、とか、オービスに引っかかるんだろうな、とか、そんなことは全て頭から吹っ飛んだ。
今はただ、走る。
この車はギア比が高めになっている。そのため、時速百キロ程度までは二速で十分だ。故に、滅多に三速に入れることはない。日常生活においては縁が無いと言っても差し支え無いだろう。その三速にギアを入れた。しっかりとした感触が手の中に伝わって、自分の車が走るための態勢を整えたことを物理的に伝えてくる。
こいつは「相田のための車」だった。大学のサークルで散々いじった、相田という人物のためだけにチューニングされた車両。ただでさえ癖のある車であるが、それを抑えることなど全くしておらず、三百に届く馬力を前輪だけで受け止めている。
ある程度の常識的な範囲の速度であるなら、制御機能が働いていわゆるトルクステア、加速時の横ブレは抑えられる。が、速度が出れば出るほどトルクステアは大きくなる。
こんな緊迫した状況でなければ、そのじゃじゃ馬ぶりですら楽しむことが出来ただろう。作り手の意図を体感するのが好きな相田だ、喜々としてトルクステアを堪能したはずだ。だが、今はそうもいかない。徹底的に無機質に受け止め、それをいなす。車を前進させることだけに意識を集中する。
路面の状態はハンドルが伝えてくれる。相田はただそれに合わせて車体のバランスを取り、交通状況を見て的確に走らせるだけ。前方の車間。速度。簡単な計算ならすぐに頭の中で答えが出せるように、どれくらいの速度で侵入すればその間を通り抜けられるのか、解答は目の前に見えている。
それに、と、相田は頭の中で呟く。前にこういうのはいっぺんやったことがある。慣れているわけではないが、やれないわけではない。
前の時と違い、今回は時間がない。ならばどうすれば良いのか。答えはたったひとつしかない。
「……やるか」
ハンドルを握り直した。既にかなりの速度が出ているが、それでもまだ相田には余裕があった。
そんな余裕などかなぐり捨てろ。容赦などするな。己のやれることをやれ。それが、自分で選んだ道ならば。
アクセルを踏み込んでゆく。相手を待ってやる気も、誘う気もない。小手先の技でどうこうするつもりもない。ただ、速度を上げる。爆発的な火力はないが、こいつの速度はどこまでも伸びるのだ。
そこそこに遅い時間であるにもかかわらず、道路は混み合っている。障害となる車両は山ほどだ。しかし、複雑に考える必要はない。避ければいいだけ。
時速が百九十を超えた辺りで二台ほど脱落。速さに慣れている人間ではなかったのだろう。追手の全てが運転に長けているわけではないようだ。逆に、運転技術に自信のある人間がいるだろうことも予想できる。その情報を頭の片隅に置いて、相田は意識をより先鋭化させる。
二百を突破。川沿いに蛇行する道路。それ故に不規則なカーブが連続する。一つ一つこなし、捌き、さらに速度を上げる。エンジンが吠える。喧騒を咆哮が切り裂いて、青い車体が突き抜けてゆく。
後続車との距離が少しづつ開き始める。それを視認出来るくらいには道路が空いてきている。海岸沿いに接近しているからだろうか、相田にとっては都合の良い展開であった。障害物は無いに越したことはない訳で、余計な処理情報が減るのは非常にありがたい。
ふと気が付く。背後から迫る車両、彼等が銃撃を行っていない。追うので手一杯なのかもしれない。まあ、銃弾が飛んできても対処はできないのだ。ひたすら走る以外に何がある。しかもこちらは「追われる側」だ。「追う側」と違い、相手を上回る速度を出さねばならないという「枷」はない。正面を突っ切ることだけに集中できる。
だが、ふと相田の視線が逸れる。隣に座っている戒斗が心配になったのだ。
戒斗は鞄を抱え込んだまま、息を詰めて相田を見ていた。目が合う。
「まさゆき、がんばれ」
言おうと思って言ったのではない、口を衝いて出てきた言葉だ。
「あいよ」
笑って返した。
後に戒斗はこう語る。この時の彼は、獲物に狙いを定めた猛禽類のような顔付きをしていた、と。
カーナビゲーションの画面に視線を走らせる。首都高湾岸線が近い。丁字路にぶつかるため、ほぼ直角に右折することになる。
チャンスだ。相田はそう認識した。
加速度が増す。オービスに引っかかるどころの話ではない。真横を掠めた軽自動車が煽られてよろめく。悪いことをしたなと心の中で謝って、それだけで済ませた。
この直線で限界まで加速しておく必要があった。可能な限り、ここで振り落とす。そのためならばやむを得ない。次があれば同じことはするまい。
海が見える。湾岸線は目前。海から冷たい風が吹き付け、見えない壁となって進軍を妨げる。先頭切って走るが故の障害だ。全力でそれに抗う。アクセルを踏み込む。
正面にぶつかってしまうような気がしたのだろう、戒斗は思わず恐怖に目を閉じかけ、それでも堪える。ちゃんと見ていると約束したのだ、約束は果たさねばならない。
運転席を見る。正面を見据えたままの相田。手と足が単独で意思を持っているかのように動く。息を吸うのと同じ位の感覚なのだろう。
速度を緩めぬまま相田の手が思いっきり舵を切り、車体は右に、振り回されて中の人間は左側に。なんとか踏ん張り、ドアに叩き付けられるのだけは回避した戒斗。相田は、と再び顔を向けると、彼は平気な顔をしていた。
背後から嫌な音が聞こえる。悲鳴みたいだ。振り向くとそこには、バランスを失って次々にガードレールへ飛び込んでゆく車の姿。磁石か何かで吸い寄せられるように。
相田が振り切ったのか。相手が振り切れなかったのか。ただ戒斗に分かるのは、相手が何かに飲み込まれたということだけだ。捕らえられ、引きずり込まれた。昏いところへ。
すれすれのところに居る、この恐怖感を戒斗は知っている。きっと、「本当の自分」がそれを既に知っているのだと、戒斗は悟っていた。頭が締め付けられるような感覚。
こわい。だけど、それがいちばん「こたえ」にちかいんだ。
そうだ。それこそが正解への道程だ。目を背けるな。
おれは、このままなにもしないなんていやだ。
そうだろ、だったらいつもみたいにやればいい。簡単な話だ。怪人を倒すよりチョロい話だぜ。
「……うん、そうだよね」
戒斗は返事をした。頭を襲う痛みは増すばかりで、顔は苦痛に歪む。だが、右手は鞄の中へ。馴染みのあるグリップの感触。
窓を全開にする。冷たい風が車内に侵入して荒れ狂い、二人の頬を叩いた。既に速度は二百半ばに届いている。異変に気付き、相田が叫ぶ。
「戒斗、どうした!」
返事はしない。己の内なる声に耳を傾けるので手一杯だったからだ。
初弾は装填されてる。気にするな、片手でいい。いつものことだ、気楽にいこうや。ああそうだ、大丈夫だって言っといた方がいいかもな。
「だいじょうぶ、まさゆきは、このまんまで」
「戒斗?」
数は少ないが、まだ追ってくる車がある。その後続車に向かって、窓から半身を乗り出すように腕を伸ばした。手には、ミネベア・シグ。
たっぷり喰らわせてやれ。鉛弾のプレゼントだ。
自分の意思に従い、大人になった体の自分がトリガーを引く。当たり前のように二回。自ら銃弾の前に飛び込んできた車があっという間にバランスを崩して、背後へと消えてゆく。再びダブルタップ。転ぶようによろめき、耳障りな音を立てて遠ざかる一台。
「戒斗、何やって……」
「まさゆき、おっかけてくるのがふえてる!」
戒斗に対する疑問を拭う暇もなく、相田はミラーに目をやる。別ルートからやってきたと思わしき追跡車が数台、強引に合流し追い立ててくる。
「クソッ、もうちょっとで到着だってのに!」
湾岸線をしばらく進んだ先が目指すゴール。到着地点で止まれば追い付かれてしまう。
「まさゆき、だいじょぶだよ。おれが、やっつけるから」
一度体を引っ込めた戒斗が無理矢理に笑顔を作る。だが、グリップを握る手が震えているのも、びっしょりと嫌な汗をかいているのも、激しい痛みに歪む表情も、その全てが隠しきれていない。横目でちらりと見ただけで分かるのだ、実際はどれほどの苦痛であるだろう。
「戒斗……」
自分がなんとかするから、何もしなくていい。そう言おうと思ったが、相田は言葉を続けることができなかった。いくら精神が幼い状態であろうと、戒斗は戒斗だ。この状況で何もするなと告げても、彼が素直に「はい」と返すだろうか。
……言うワケねえよな。
故に、相田は言葉を変えた。
「無理はすんなよ。ダメだって思ったら、すぐに引っ込んで。いい?」
「うん」
戒斗は鞄の中を探りながら返事をする。手探りで掴んだものは、遥が入れておいた予備の弾倉だ。これでいいのかな、と目で確認してから上着のポケットに入れる。頭の痛みを抑えるように額に手を当て、歯を食い縛って堪える。
痛い。どうしようもなく痛い。銃から手を離せばこの苦痛から逃れられるのは分かっている。
それに、本当は怖い。速さも。衝撃も。
それでも。
じわりと滲む涙を袖で拭って、顔を上げる。歯を食い縛ったまま再び身を乗り出した。冷気が戒斗の体に突き刺さる。
だいじょうぶ。
そうだ、大丈夫だ。
できる。
できるさ、いつも通り。
圧倒的な痛覚に逆らい戒斗は構え、撃った。薬莢が飛ぶ。高熱の残渣がひとつ頬に触れ、痛みを与える。直後、後続車のフロントガラスに弾痕。他の二台を巻き込んでもんどり打ち、背後へと消えてゆく。
甲高い音を立ててそれを避け、躍り出る車。そいつが視界に入るより僅かに速くトリガープル。狙い通りに着弾。制御を失い、コマのように回りながら横へ吹っ飛ぶ。
戒斗はマグチェンジして深く息を吐き出した。まるで自分の体ではないみたいだ。よく分からないまま、腕が、指が、勝手に動く。どのタイミングで何をすればいいのか全部分かっているみたいに。
頭を締め付けられる感覚がより強くなって、思わず顔が歪む。襲いかかる痛みに呼吸ができない。ぎゅっと目を閉じてやり過ごすしかなく、ただひたすら戒斗は治まるのを祈った。
「戒斗」
今日何度目になるだろう、相田が名を呼ぶ。
「次、右に曲がったらもう着く。やれるか?」
「うん」
上半身を外に出し、窓枠に腰掛けた。風ではない、暴風が戒斗を押し包み吹き飛ばそうとする。足を適当に引っ掛けて落ちないよう踏ん張った。
痛い。目が眩む。それなのに、自分の両手はしっかりと銃を構えて、冷たいトリガーを引く。車が悲鳴を上げて置き去りにされてゆく。
もう一回撃たねば、と強迫観念じみた意識。しかしそれを激痛が真っ白に塗り潰す。つい目蓋を閉じてしまった。いけない、と思ったがもう遅い。
「戒斗、中に入って!」
相田の警告が耳に届く。滑り込むように車内へ戻るのと、車体が右へ弾き飛ばされるように曲がるのがほぼ同時。目の端で捉えた速度計の針はほとんど右側へ振り切れている。
曲がりきれなかった車が四台、そのうち一台が横転。おもちゃのように転がってどこかへ消える。
これで全て振り切った、そう見えた。それなのに、少し遅れて二台、まだ二台だけ、健在であったのだ。
「……クソッ、ここまでか!」
罵りながらも相田は諦めていなかった。別ルートに入って距離を稼ぐしかあるまい。どこかで折り返さなければ、と然るべき場所を探そうとしたが。
「まさゆき、このまんまでへーき!」
「え?」
「まっすぐいって!」
慌てて車内に戻ったため妙な姿勢のままであった戒斗が、シートに座り直しながら叫ぶ。確信に満ちた表情。
「はるかがいるから、だいじょうぶ」
どうして……と聞こうとして、先に言葉を塞がれた。戒斗は正面を見つめている。その先には目的地である建物。
疑問を呈するよりも速く変化は訪れた。突如、追跡車がぐらりと揺れたのだ。相田の目は、フロントガラスに穿たれた銃痕を見逃さない。コントロールを失った一台がもう一台に激突。動きを止めた最後の一台にも銃弾は撃ち込まれ、とどめを刺す。
そうだ、狙撃だ。目的地の屋上、寒風吹きすさぶ場所に一人、無骨な狙撃銃を携えた少女の姿。
戒斗がなぜ、遥の存在を悟ったのかは分からない。悟るだとか分かるだとか、もうそんなものを通り越しているのかもしれない。彼等にとってそれが当然であり、強固に結びついているものなのかもしれない。
確実に分かるのは、肝の冷える追いかけっこがここで終わったということ。相田達を載せた車は徐々に速度を落とし、そしてついに目的地へと辿り着いた。