03 認識と前知識
泣き疲れたのか、しばらく経つと戒斗は畳の上に転がってしまった。うつらうつらと船を漕いでいる。
「おおい、そこで寝ると体痛くなるよ」
「ウン」
帰ってくるのは生返事。
「上にベッドあるから、そっち行きなよ。立てる?」
「ウン」
メゾネットの上を指差してやると、戒斗はふらふらと立ち上がった。果たして階段をうまく登れるだろうかと心配になる。おぼつかない足取りで階段へと向かう戒斗に、これは支えねばなるまいかと相田が立ち上がったその時だ。
階段に一歩足をかけた戒斗が、ふと、こんな事を呟いたのだ。
「なんで、さいしょ、っていったんだろ」
ごく小さな呟きであったが、はっきりと聞こえた。言葉にしたことで余計に気になったのか、戒斗は振り向いて相田に問う。
「おれ、さいしょ、っていったよね。さいしょにみて……って」
戒斗は確かにそう言っていた。「最初、遥が俺のこと見て」と。その「最初」とは何か。もしかしたら戒斗の意識の水面下では、事実の認識ができているのではないか……
「なんで? さいしょってなに? だって、はるかはずっといっしょにいて、それで……」
倒れるように崩れ落ちる。膝をつき、頭を抱え込んだ。髪を掻き毟る。顔は苦悶に歪み、口からは絞り出すような叫びが漏れる。
「ああ……うああぁああああ!」
「戒斗ッ!」
慌てて駆け寄り肩を掴む。双眸から流れる涙は悲しみではなく、苦しみから生まれていた。
「あたま、が……!」
戒斗はそこまでしか言えなかったが、それで十分に状況は伝わる。網屋と遥が昼食を用意している間に塩野が説明した、その通りの事態であったからだ。
もしかしたら、かなり激しい頭痛の症状が出るかもしれない。仕掛けられたフィルターがずさんなものであれば、違和感や現実との違いによって真実に肉薄することがある。そこからの崩壊を防ぐためによく使われる手は、痛みを発生させることである。
まさに、塩野の言っていた通りの出来事が目の前で起こってしまったのだ。
塩野が用意してくれた鎮痛剤の粉薬は台所に置いたままだ。即効性だと言っていたから大丈夫だろう。早く取りに行かねばと立ち上がろうとしたが、戒斗に手を掴まれてその場から動けない。
制御が効かないというのもあるのか、掴まれた手は痛い。掌はじっとりと汗をかいていて、震えている。
「や、だ……いかないで……」
「大丈夫、薬取ってくるだけだから。すぐそこだから。頭イタイの治る薬、飲んで寝ちゃおう。な?」
肩で息をしている。下手をすれば痛みのあまり嘔吐するかもしれない。
「ちょっとだけ頑張れ。すぐだから。できる?」
あまりの激痛に震えながら、それでも戒斗はなんとか頷いてみせた。
小さい割には随分と我慢強い子だ。自分がこの立場であったなら、ひたすら泣き喚いて暴れるしかできないだろう。
それとも、と、相田の頭の中で随分と冷静な部分が囁く。それこそが、仕掛けられた錠前のほころびなのではないか。完全に幼児退行しきっているとは思えない。酷く歪な型に無理矢理押し込められているような、そんな印象。
強く掴み続ける手をなんとか引き剥がして、相田は台所へと走った。走ると言っても所詮一人暮らし用の部屋だ、数歩程度のものである。
戒斗に背を向けた瞬間、痛みによる絶叫が響き渡る。緊張の糸はとうの昔に切れているのだ、仕方ない。とにかく相田は出来うる限りの速さで薬と水を用意し、戒斗の元へ走った。
本人に渡して飲ませる、などと悠長なことをやっている場合ではない。半ば強引に口を開けさせると舌の上に粉薬を乗せ、コップの水を流しこむように飲ませる。粉薬の苦さに顔をしかめた戒斗だったが、相田はあえてそれを無視した。己が幼い頃、こうやって祖父から薬を飲まされたのを思い出す。
次に、戒斗の体を無理矢理担ぎ上げると階段を登った。この時ばかりはメゾネットタイプの間取りを恨む。それでもなんとか上に連れてゆくと、問答無用でベッドに転がしてしまった。掛け布団を肩まで掛けてやると、戒斗はそれを抱き枕のように抱え込んで体を縮める。
相田自身はベッド脇の床に座り込んだ。
「とにかく寝る。いい?」
黙って頷くのが精一杯の戒斗。相田はゆっくりと息を吐きだして、ベッドの脇にもたれ掛かった。
鎮痛剤は即効性である上に強力であるので、次の服用は最低でも六時間あけろと念を押されている。また、痛みが発生した状況をよく覚えて、できればその状況を再現しないように、とも。
相田には全く自信がなかった。戒斗は、いや、この幼い戒斗は聡明だ。わずかな違和感にも気付くだろう。だが、六時間はあまりに長い。かと言って、あの尋常ではない痛がり様を放置するわけにもいかない。
戒斗の気配に意識を集中させ続けていたからだろうか。寝息が聞こえてくる頃には相田自身も眠くなってきて、少しだけならと目を閉じた。苛む不安から、目を逸らすように。